15 干渉
どす黒い雲が渦を巻き、雨が激しさを増して空を幾つもの光の竜が走っていく。爆音と共に何度も雷が落ちた。地上を雨が襲い、水の嵩が増えている。
マンションの一室、浴室のバスタブでナツキはゆっくりと浮かび上がった。パチリと目を開けて起き上がると水から這い上がる。ナツキは重そうに体を動かして濡れたままでリビングへと進み、誰もいない部屋の中のソファに座る。その目は何も映してはいない。
歪んだ鈴の音が遠くから鳴り響き、部屋の中を満たしている。ピシッピシッと小さな音がナツキの指先で鳴っていた。体から零れた足元の水は真っ白な泡となり、じわじわ波紋を広げている。
すうっとナツキの手が持ち上がり、胸元に梵字が浮かび上がる。鈴の音は規則正しく鳴っていたが、次第に強く強く響き始める。
ナツキの口が開き、水が零れ落ちると胸の梵字が息を潜めたように弱まり、頭をがくんと後ろへ落とすと目を閉じた。
水の奥深く、湖の中の小さな祠の傍で暖かな光に包まれて、ナツキは水面を見上げている。水面では細かな振動が続いているのか音が響いていた。
水の中にいる生き物たちもナツキの傍に寄り沿い、不安げに見上げている。
祠からは絶えずミズナギの声がしていた。しかしそれはいつからか小さくなり、少し前から歪な鈴の音が混じっていた。
ナツキは小さな生き物たちと共にゆっくりと水面へ向かう。
もしかしたらミズナギたちが危ないのかも知れない。あの日のように自分にも何かできる、そんな思いがナツキに勇気を与えていた。
パシャンと水面に浮かび上がったナツキの前に、恐ろしいほどに大きな赤ん坊の顔が浮かんでいる。肌は浮腫み、その目は白く濁ってまるで死んだ魚のようだった。
「見いつけた」
ぶよぶよした短い指で掴みあげられて、ナツキは悲鳴を上げる。
嬉しそうに歪んだ唇の端を上げると、ナツキを掴んでいた手はまた水に沈められた。
ゴボッと息を吐き、うまく息を吸えずに水の中であがく。必死で息を止めて、これは夢のような世界だと気付くまでは慌てるしかなかった。
下にあるはずの祠が見えず、もしかしたら随分と移動してしまったのかも知れない。ナツキは大きな手から逃れようと体を動かすが指が食い込むばかりで、恐怖に心臓が強く鳴っていた。
逃げられない……。レイモンドさん、ミズナギ様……。
ナツキを掴んだ手は水の奥深くに沈んでいく。もう戻れないかも知れない……。
遠くなる水面に意識は深く深く落ちていく。
水の底を抜けて、まただだっ広い場所にナツキは落ちた。
ずっと遠くから音が響き、耳鳴りが続いている。
ナツキが再び目を開くと透き通る空に柔らかな風が吹いていた。遠くに見える山は鮮やかに色づき、真っ白い鳥が飛んでいく。
足元には水が広がっている、湖だ。透き通る水面から極彩色の魚が泳いでいくのが見えた。両手を挙げるとさらさらとした衣が揺れて優しい香りが鼻に抜けた。
ああ、綺麗だ。夢のような世界に瞼を閉じる。先ほどまで苦しかったのは嘘のようだった。
「ミズナギ様」
岸辺で聞き覚えのある声に振り返る。そこにはレイモンドが優しい笑顔で立っている。ああ、私は……そう思い、彼の元へ走っていく。たくましい腕の中に飛び込むと顔を見て心臓が高ぶった。
「ミズナギ様」
レイモンドに名前を呼ばれるたびに心臓が痛くなる。
私はミズナギのはずなのに、どうしてこんなに胸が痛いのか。どうしてこんなに不安なのか……。
ぎゅっとレイモンドの服を掴んで彼の顔を見上げた。
「……ナツキ様?」
「え?」
美しい風景が歪み、よく知った自分の寝室が浮かび上がる。照明の落ちたベットの上でレイモンドの手が自分に触れている。
「大丈夫ですか?」
そう問われてもよく分からずに首を横に振った。
「わからない……でも怖い」
たくましい腕の中にすがり付く。素肌に触れるレイモンドの手は暖かく、その目は優しい。髪を撫でられて唇を重ね、揺れている感情とそれを包み込む優しさが入り混じって融けていく。そっと背中を支えられてベットに横たわるとレイモンドの体重がほんの少し乗りかかった。
「ナツキ様、今ここにいるのはあなただけです。感じているのはあなたです」
「……うん」
そうだ、共感している。ナツキの体は今ミズナギと繋がっている。それでもレイモンドの言葉は嘘だろうか?それともただの優しさだろうか?
「ナツキ様」
自分なのか、それとも違うのか……手が震えている。
レイモンドの大きな手がナツキの手を包むと指が重なった。ギッと大きな音と共にレイモンドの重さがナツキに加わる。体温の熱さに息を吐くと一定の速さで心臓を叩いていく。不安に混じっていた感情が愛しさに変わって、ナツキはレイモンドの顔に触れた。
こんな風にミズナギ様も触れたんだろうか?
「痛くないですか?」
優しい言葉にナツキは何度も頷き、涙が溢れ続ける。
「レイモンドさん……」
「うん?」
耳元に響く声にナツキは彼の首に噛み付いた。じわりと汗が滲んでいる。頭の中にかすかにイツカの姿が見えて、息を吐き、その姿をかき消した。
ナツキはねだるように唇を近づける。
「……今だけでいいから」
この感情は自分だけのものだろうか?
「様じゃなくて……ちゃんと名前で、呼んで」
微笑むレイモンドの体がゆっくりと動いて、ナツキの核心に触れる。ポッと熱が灯ると体中を暖かな水が流れ出した。
「……ナツキ」
小さな声が優しく耳に響く。お互いの息がかかりあうと熱は高まっていった。
暗闇の中、護摩の炎が高く高く舞い上がる。ミサと称される何かは何時間も続いていた。恐ろしいのは信者たちは盲目に祈りを捧げ、隣で人が倒れようともそれが当たり前のようになっていることだ。
三号は後ろでじっと黙ってそれを見ていた。倒れた人はそのままに、狂ったように何かを呟き空を睨みつけている人の間を、気味の悪い紫と黒が混じった色の煙がたち込めて、人々は頭を揺らして一心不乱に読経を挙げている。
三号を案内してくれた信徒も中に入って、おかしく体を揺らしていた。
読経は倍音となり、耳の奥深くまで響いてくる。ウオンウオンと鳴り始めた音は言葉を持たない何かになろうとしている。
人間の耳には心地よいはずだ。三号は鬼だから特には問題ないが、ここになにか暗示のような言葉が入っていたとすれば、大変危険だ。例えば、自殺を仄めかすような言葉が入っていたとすれば、倒れている信者は、まさしく命を失い倒れている可能性が高くなる。
それでも三号は彼らに干渉はしない。けして。
雨はしとしと降り続けている。




