第9話 私の直轄に触れるな
「ふざけるなッ! こんな莫大な金額、払えるわけがないだろう!」
王立公証院の第一調停室。
パトリック・ローラン伯爵令息の悲鳴のような怒声が、冷たい石造りの壁に虚しく響き渡った。
彼の目の前のテーブルには、絶望的な事実を記した数々の書類が山積みになっている。
ヴィオラ側が請求する正式な『法定解除』に伴う莫大な違約金。
彼女の名誉回復のために国中へ発行される公告の費用。
そして、調停が長引くほど雪だるま式に増えていく公証院の調停手数料。
レティシア・アーヴィングは、それらの書類を淡々と指し示しながら、感情のない声で告げた。
「パトリック様がご自身の署名で『協議解除条項』を削除した以上、この手続きを省くことは不可能です。また、ヴィオラ様との婚約の清算が法的に完了するまで、あなたは新たな婚約を結ぶことはできません」
「なんだと……!?」
「加えて、隣におられるリリア様への高額な宝飾品の贈与は、婚約財産の不当な流用としてすでに保全対象となっています。直ちに返還していただきます」
レティシアの言葉に、パトリックの隣で寄り添っていた愛人、リリアの顔からスッと血の気が引いた。
「え……ちょっと待って。パトリック様、私とすぐに結婚してくれるって言ったじゃない!」
「あ、ああ! もちろんそのつもりだ、リリア! こんな不当な請求、私が伯爵家の力で必ず――」
「伯爵家の力って、あなた、お父様から勘当寸前だって噂よ!? しかも借金まみれで、このネックレスも取り上げられるなんて……話が違うわ!」
リリアはパトリックの腕を乱暴に振り払った。
彼女の瞳に浮かんでいたのは、少し前まで口にしていた「真実の愛」の熱など微塵もなく、ただの冷酷な計算と失望だけだった。
「私、貧乏な平民に落ちぶれるのは真っ平ごめんだわ。さようなら、パトリック様」
「り、リリア!? 待ってくれ、私たちは真実の愛で結ばれていたはずだろう!?」
すがりつこうとするパトリックを汚いものを見るような目で一瞥し、リリアは足早に調停室から去っていった。
バタン、と冷たい扉の閉まる音が、パトリックの完全な孤立を告げていた。
彼が「面倒だ」と削り落とした契約の手順。
それが回り回って、彼の家、金、社会的地位、そして信じていた愛のすべてを、ものの数日で完全に破壊し尽くしたのだ。
「……本日の通達は以上です。今後の連絡は、すべて公証院を通じて行われますので」
レティシアが書類をまとめ、席を立とうとした瞬間だった。
「お前の……お前のせいだッ!!」
パトリックの目が、血走った獣のようにレティシアを睨みつけた。
全てを失った現実を受け入れられない彼は、その責任を目の前の事務官に転嫁しようと完全に理性を失っていた。
「お前がこんなふざけた書類を作ったから! 私が全てを失ったのだ! たかが『破談屋』の小娘の分際でええええッ!!」
狂乱したパトリックがテーブルを蹴り飛ばし、レティシアに向かって飛びかかってきた。
その太い腕が、レティシアの華奢な手首を乱暴に掴もうと伸びてくる。
(――あ)
避けられない。そう直感したレティシアが、痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じた、その時だった。
「――私の直轄に触れるな」
ドンッ!という重い衝撃音と共に、パトリックの体が後方へと大きく弾き飛ばされた。
床に無様に転がり、咳き込むパトリック。
レティシアが恐る恐る目を開けると、そこには漆黒の軍服の背中があった。
王立公証院総裁であり、王弟殿下であるノア・ヴァルトハイム。彼が自らレティシアの前に立ち塞がり、彼女に伸ばされたパトリックの腕を、容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
「で、殿下……!」
ノアはパトリックを見下ろし、文字通り氷点下の殺気を放っていた。
普段の冷徹な無表情から一変し、その瞳には明確な怒りと、底知れない暴力の気配が渦巻いている。
「その手を失いたいなら別だが。……貴様、私の部下に触れる許可を、いつ誰から得た?」
「ひっ……! あ、ああぁ……ッ!」
絶対的な権力者からの本物の殺意。
パトリックは恐怖のあまり歯の根を合わすこともできず、床を這って後ずさった。
「近衛を呼べ。この男を地下牢へ放り込め。調停室での職員に対する殺人未遂だ」
ノアの冷酷な命令により、駆けつけた近衛騎士たちがパトリックを拘束する。
「離せ! 私は、私はただ……ッ!」と情けない悲鳴を上げながら、彼は無様に引きずられていく。
(ああ……)
両脇を抱えられ、暗い廊下へと引きずり出されていくパトリックの脳裏に、ふと、半年前の光景が蘇った。
『パトリック様。こちらの要約版をお読みください。破談時の手順について――』
あの時、目の前の令嬢は、老眼の老人でも読めるほど大きな文字で書かれた紙を差し出してくれていた。
それを「女の長話は聞かん」「縁起でもない」と破り捨てたのは、他でもない自分自身だ。
(あの時……あの時、契約書を読んでさえいれば……!)
もし読んでいれば、こんなことにはならなかった。
出口のない契約の恐ろしさを知っていれば、公開の場で婚約者を罵倒するなどという愚かな真似は絶対に避けたはずだ。
自分の傲慢さが招いた取り返しのつかない破滅。
パトリックは初めて、血の滲むような、しかしもう二度と届かない激しい後悔の涙を流しながら、暗闇へと消えていった。
* * *
「……怪我はないか、レティシア」
調停室に静寂が戻ると、ノアは先ほどの殺気が嘘だったかのように、静かで低い声で問いかけた。
振り向いた彼の瞳には、痛いほどの熱を帯びた感情が揺らいでいる。彼がどれほどレティシアの安全を最優先にし、彼女を独占しようとしているか、誰の目にも明らかな態度だった。
しかし、当のレティシアはと言えば。
「は、はい……! 殿下が庇ってくださったおかげで、無傷です……っ」
激しく瞬きを繰り返し、パニックになりかけた頭で必死に現状を処理しようとしていた。
(すごい……! クレーム対応で逆上した顧客から、総裁トップが身を挺して末端の事務官を庇うなんて! どれだけコンプライアンス意識が高いの!?)
前世の法務部時代、取引先に胸ぐらを掴まれそうになった時、上司たちは皆、見て見ぬふりをして蜘蛛の子を散らすように逃げた。
『契約の話でお客様を怒らせた君の責任だ』と、全ての暴力をレティシア一人に背負わせていたのだ。
それが、この職場ではどうだ。
総裁自らが物理的な暴力(労災)の防波堤となり、職員の安全を完璧に保障してくれる。
「本当に、素晴らしい職場です……! 総裁閣下の下で働けることを、心から誇りに思います!」
「……。……そうか」
尊敬と感動の眼差しを向けてくるレティシアに対し、ノアは少しだけ絶望したように眉間を押さえた。
彼が隠す気すらない重い独占欲と愛情を、この有能で愛らしい令嬢は、またしても『優良企業における完璧なトップの振る舞い』として片付けてしまったらしい。
「まぁいい。君が無事ならそれで。……少し休め、顔色が悪い」
ノアは小さくため息をつきながらも、不器用な優しさでレティシアの肩をそっと叩き、執務室へと促すのだった。




