第10話 女友達と浮気の境界線
「だから、彼女はただの友人だって言っているじゃないか。騎士団の同期で、戦友みたいなものなんだ。君がそんなに疑うなんて、僕を信用していないのか?」
「そうじゃないわ。でも、お休みの日に二人きりで食事に行ったり、私に内緒で高価な剣帯を贈ったりするのは……」
王立公証院の第一婚前契約相談室。
騎士の制服に身を包んだ青年オスカーが、苛立ったように声を少し荒げた。隣に座る彼の婚約者、子爵令嬢のネルは、涙目で自分の膝をきつく握りしめている。
オスカーは優秀で真面目な騎士だ。だが、それゆえに「自分は疚しいことはしていない」という自負が強く、ネルの抱く不安を「嫉妬深い」と片付けてしまっているようだった。
(前世でもよく見たわね、『ただの同僚』『ただの飲み友達』という言葉で、パートナーの不安を軽視して泥沼になるケース……)
レティシア・アーヴィングは、内心で静かにため息をつきながら、手元の資料を一枚抜き出した。
悪気がない、というのは時に悪意よりも厄介だ。明確な境界線がない限り、このすれ違いは将来必ず致命的な亀裂を生む。
「オスカー様。ネル様が抱かれているのは、あなたへの不信ではありません。あなたと、その『ご友人』との間にある境界線への不安です」
レティシアの静かで涼やかな声が、熱くなっていた室内の空気をスッと冷ました。
「境界線……?」
「ええ。当公証院の『不誠実交際条項』についてご説明します。これは、婚約者以外の異性との不適切な交際や、過度な贈与を制限するものです」
レティシアは二人の前に要約版を広げた。
「オスカー様は『ただの友人』と仰いますが、その認識は個人の主観に過ぎません。贈り物、二人きりの外出、夜間の私的な手紙のやり取り。これらが度重なれば、第三者からは『浮気』と見なされますし、何より婚約者であるネル様を深く傷つけます」
「しかし、僕は本当に何も……!」
「何もなくても、です」
レティシアは、オスカーの反論をぴしゃりと遮った。
「『不安に思わないのが信頼だ』というのは間違っています。不安を言葉にして、互いのためにルールを決め、それを守り抜くこと。それこそが本物の信頼関係を築くための土台です」
レティシアの言葉に、オスカーはハッとしてネルを見た。
ネルの目からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「ごめんなさい、オスカー。私、嫌われたくなくて……ずっと、我慢していたの。でも、あの人があなたと親しげにしているのを見るたびに、胸が張り裂けそうだったわ」
「ネル……」
オスカーは、自分が「ただの友人」という言葉を隠れ蓑にして、ネルの痛みに向き合うことから逃げていたことに初めて気がついた。
彼は己の鈍感さを恥じるように、深く頭を下げた。
「……僕が間違っていた。君を不安にさせるような真似をして、本当にすまない。レティシア様、どうかその条項を契約書に追加してください」
オスカーは真摯な顔でレティシアに向き直った。
「休日、仕事以外の用事で彼女と二人きりでは会わない。高価な贈り物はしない。私的な手紙のやり取りも控える。それを、ネルへの誓いとして明確に明記したい」
「オスカー……!」
ネルが嬉し涙を流しながら、オスカーの大きな手を両手で包み込んだ。オスカーも、今度こそ迷いのない優しい眼差しで彼女を見つめ返している。
こうして、境界線を明確にすることで、彼らは『破談』の危機を乗り越え、より深い絆を結ぶことができたのだ。
* * *
数日後。
無事にオスカーとネルの婚約契約書の作成を終え、レティシアは自席でほっと一息ついていた。
彼女の腰と背中は、ノアが手配してくれた最高級の特注椅子によって完璧に守られており、疲労感は以前とは比べ物にならないほど軽い。
「見事な対応だったな」
ふと、背後から落ち着いた低い声が降ってきた。
振り返ると、王立公証院総裁であり、王弟殿下であるノア・ヴァルトハイムが、静かな足取りでこちらへ歩み寄ってくるところだった。
「で、殿下……! あの、お聞きに……?」
「ああ。隣の執務室からな。不安を言語化し、境界線を引くことで信頼関係を築く。あの騎士は、君に救われた」
ノアは無表情のまま、しかしその氷のような瞳の奥に、確かな熱と優しさを滲ませてレティシアを見下ろした。
レティシアは、褒められることに未だ慣れず、少しだけ頬を赤らめて視線を彷徨わせた。
「私は、ただ公証院の規定に従って、条項の説明をしただけです。あのお二人が、互いに向き合う勇気を持っていたからこその結果ですよ」
「謙遜するな。君の言葉には、当事者を立ち止まらせる力がある。だからこそ、君を私の直轄に置いたのだ」
ノアはそう言いながら、黒革の手袋に包まれた手を伸ばし、レティシアのデスクの上に、小さな包みを置いた。
中から漂ってくるのは、王都で一番と噂される高級洋菓子店の、甘く芳醇な焼き菓子の香りだ。
「えっ、殿下、これは……」
「休憩の足しにしろ。……それにしても、あの騎士の鈍感さは褒められたものではないな。婚約者を不安にさせるなど、言語道断だ」
ノアは、ふと、独り言のようにつぶやいた。
その声はいつもより一段低く、どこか別の意味を孕んでいるように聞こえた。
「え……?」
「私ならば、絶対にそんな真似はしない」
ノアは、レティシアの目を真っ直ぐに射抜いた。
「私は、君を不安にさせるような女性を、君の視界にすら近づけさせない。私の隣にいる女性は、ただ一人で十分だからな」
「…………えっ?」
レティシアの思考回路は、完全に停止した。
ノアの言葉は、まるで――いや、どう聞いても、単なる上司と部下の会話の範疇を超えている。
(き、君って……え? 私、のこと? いやいや、そんなはずはないわ! これはきっと、総裁としての一般的な……コンプライアンスに関する、模範解答としての……!)
顔を真っ赤にしてフリーズし、激しく処理落ちを起こしているレティシアを見て、ノアはかすかに口角を上げた。
彼は、それ以上何も言わず、ただ優しくレティシアの頭をぽん、と撫でると、執務室へと戻っていった。
取り残されたレティシアは、甘い菓子の香りと、頭に残る大きな手の感触に包まれながら、しばらくの間、微動だにすることができなかった。




