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第8話 帳簿の穴は愛では埋まりません

「結論から言います。あの忌々しい『持参金分別管理条項』は外すことに決めました」


王立公証院の第一婚前契約相談室。

再び訪れたダルベリー男爵夫人は、ふんぞり返るようにしてソファに腰掛け、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

隣に座るユージーンは暗い顔でうつむき、リアナは不安そうに自分の手を握りしめている。


「ユージーンの言う通り、リアナの持参金目当てだと思われたくはありませんからね。ですが、家族になる以上、財産は『男爵家の財布』として一つにまとめるべきです。それが嫁としての誠意というものでしょう?」


あくまで「愛」や「家族の絆」という言葉を盾にして、リアナの特有財産である持参金を自分たちの支配下に置こうとする強弁。


しかし、レティシア・アーヴィングの氷のような無表情が崩れることはなかった。

彼女は机の引き出しから、分厚い一冊の書類の束を取り出し、ドサリと机の中央に置いた。


「男爵夫人。一つ確認ですが、ダルベリー家の主要事業である貿易会社の経営は、現在『黒字』ということでよろしいですね?」

「……え、ええ、当然です! 歴史ある我が男爵家の事業ですもの。少しばかりの一時的な投資は必要ですが、基本は順調そのものです」


少しだけ目が泳いだ夫人を見て、レティシアは眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細めた。


「それは奇妙ですね。当公証院が、結婚前の財産調査として開示請求を行ったダルベリー家の事業帳簿の写しによりますと……」


レティシアが帳簿のページを開く。

そこには、赤インクで無数に引かれた線と、目を疑うような莫大なマイナス額が記されていた。


「過去三年間、事業は一度も黒字化しておらず、多額の短期借入金が膨れ上がっています。さらに、来月末には大規模な返済期日が迫っている。……この不自然な帳簿の『穴』を、リアナ様の持参金で一括返済するご予定だったのではありませんか?」


「なっ……!?」


男爵夫人の顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「ど、どうして公証院が我が家の帳簿を……! それは機密事項です!」

「婚前契約において、財産の虚偽申告は重大な背信行為に該当します。この相談窓口は、王弟殿下の直轄です。調査権限は十分に有しております」


実際には、王弟殿下ノア・ヴァルトハイムが裏で即座に部下を動かして徹底的に洗わせた結果なのだが、レティシアはそれを「公証院の正当な事前調査」だと解釈していた。


「愛だの家族だのと美しい言葉を並べておいででしたが、要するに、リアナ様の持参金を、ご自身の事業の失敗と借金隠しのための『財布』にするつもりだったのですね」


「ち、違う! 一時的に借りるだけで……!」


「母上!!」


バンッ!とテーブルを叩く音が響いた。

立ち上がったのは、今まで気弱にうつむいていたユージーンだった。彼の顔は怒りと羞恥で真っ赤に染まっている。


「ユ、ユージーン……?」

「事業がそこまで悪化していたなんて、僕は聞いていません! それに、リアナの持参金で借金を返すつもりだったなんて……僕たちの結婚を、母上の見栄のための道具にするおつもりですか!」


「お黙りなさい! 男爵家を守るためです! この小娘の金で穴を埋めれば――」


パチン、と乾いた音が響いた。

ユージーンが、自分の頬を強く平手打ちした音だった。夫人も、リアナも、驚いて息を呑む。


「……僕は、リアナを愛しています」


ユージーンは痛む頬を抑えながら、真っ直ぐにリアナを見た。


「彼女のお金が目当てではありません。母上がどうしても彼女の財産を奪うというのなら、僕はダルベリー家の籍を抜けます。爵位継承権も捨てて、彼女の商会で一から働きます!」

「ユージーン様……っ」

「な、何を馬鹿なことを! 由緒正しき貴族の地位を捨てるなど!」


パニックに陥って叫ぶ母親に対し、ユージーンは冷たく言い放った。


「借金まみれで、愛する人の財産に寄生しなければ維持できない地位など、何の価値もありません」


そしてユージーンは、レティシアに向かって深く頭を下げた。


「レティシア様。先日の『持参金分別管理条項』に加えて、もう一つ条項を追加してください」

「どのような内容でしょうか」

「『結婚後のダルベリー家の事業において、義母である男爵夫人の一切の介入を禁ずる』。そして、『リアナの特有財産への不当な要求があった場合、即時に婚約・婚姻を解除し、違約金を請求できる』という条項です」


それは、母親から実権を奪い、リアナの安全を完全に保障するための絶対的な盾だった。


「……承知いたしました。ただちに契約書へ追記いたします」


「ふ、ふざけるな! 認めませんよ、私は絶対に認めませんからね!」


完全に目論見が外れ、息子からも見放された男爵夫人は、怒りで顔を夜叉のように歪ませた。


「たかが公証院の受付係の分際で、我がダルベリー家をめちゃくちゃにして! この小賢しい女狐めッ!」


叫びながら、夫人がレティシアに向かって真っ直ぐに掴みかかろうと手を伸ばした。


――しかし、その手がレティシアに届くことはなかった。


「そこまでだ」


低く重い声と共に、金属が擦れる冷たい音が室内に響く。

レティシアの背後の壁際に、まるで彫像のように静かに立っていた二名の屈強な男たちが、瞬時にレティシアの前に立ち塞がった。


王家の紋章が刻まれた甲冑。その腰の剣には、今まさに手がかけられている。

泣く子も黙る、王立騎士団の『専属近衛騎士』だった。


「ひぃっ……!?」


本物の殺気を向けられ、男爵夫人は悲鳴を上げて腰を抜かした。


「そ、総裁閣下からの命令を執行する」


騎士の一人が、地を這うような声で告げた。


「『王弟直轄であるこの相談室において、職員に対し声を荒げ、危害を加えようとする者は身分を問わず即刻退出させよ』とのことだ。ダルベリー男爵夫人、貴殿には当公証院の敷地内への立ち入りを一切禁ずる」

「そ、そんな……! 離しなさい、私は男爵夫人よ!」


両脇を屈強な騎士に抱え上げられ、夫人は情けない声を上げながら面談室の外へと引きずり出されていった。

これほど無様な姿を公証院の中で晒せば、あっという間に社交界に噂が広まり、ダルベリー家の信用は完全に失墜するだろう。


嵐が去った室内には、静寂が降りていた。


「……あ、あの。レティシア様、お怪我はありませんか?」


リアナが心配そうに声をかける。

しかし、レティシアは眼鏡の奥で激しく瞬きを繰り返し、完全に処理落ちを起こしていた。


(き、騎士様? どうして近衛の騎士様が、私の後ろに……?)


前世の法務部時代、取引先に怒鳴られ、胸倉を掴まれそうになった時、上司や同僚は皆、目を逸らして逃げた。

『契約書やルールの話をして相手を怒らせたお前が悪い』と、すべての責任を一人で押し付けられてきた。


それが当たり前だと思っていた。嫌われ役は、一人で矢面に立つしかないのだと。


(なのに、どうして……。こんな、こんな過剰なまでの防壁を……っ)


ただの事務官である自分のために、王弟殿下がわざわざ専属の近衛騎士を配置し、物理的な暴力を未然に防いでくれた。

その事実が、レティシアの凍りついていた心の一番深い部分を、熱く、激しく揺さぶっていた。


「い、いえ……私は無事です。それより、契約書の仕上げを急ぎましょう」


レティシアは、羽ペンを握る自分の指先が、微かに、しかし確かに震えているのを必死に隠しながら、書類に向き直った。

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