第7話 持参金は愛の証ではなく、あなたの財産です
「あの、レティシア様。結婚後の……『持参金』の扱いについて、ご相談に乗っていただけないでしょうか」
王立公証院の『第一婚前契約相談室』。
そう言って控えめに頭を下げたのは、新興の豪商の娘であるリアナだった。
彼女の隣には、婚約者であるユージーン・ダルベリー男爵令息が、どこか申し訳なさそうな顔で座っている。そしてその後ろには、豪奢な扇をバサバサと仰ぐ彼の母親、ダルベリー男爵夫人が陣取っていた。
ダルベリー家は歴史ある貴族だが、近年は事業の失敗で資金繰りが悪化しているという噂がある。新興商会であるリアナの家との縁談は、あからさまな「持参金目当て」だった。
「私の実家からは、かなりの額の持参金が用意されています。それは私の将来の生活を守るためのものだと父は言うのですが……男爵夫人からは、結婚と同時にすべてダルベリー家の事業資金として差し出すようにと求められておりまして……」
「お母様、やはりそれは……」
ユージーンが止めようと口を開いたが、男爵夫人がピシャリとそれを遮った。
「当然でしょう! 平民上がりの商会の娘が、由緒正しきダルベリー家に嫁いでくるのです。家を豊かにするために全財産を差し出すのは、嫁として当然の務めです。それを出し渋るなど、ユージーンへの愛がない証拠ではありませんか!」
(出たわ。前世の同族経営企業で一番タチが悪かった『会社の金も社長の金も全部一緒』タイプだ……)
レティシアは内心で深いため息をつきながら、手元の資料を一枚抜き出した。
「愛」という言葉を盾にして、他人の財産を搾取しようとする論理。前世の法務部時代、こういう公私混同を指摘するたびに「家族のような会社なのに水臭い!」と逆ギレされたものだ。
「男爵夫人、申し訳ありませんが、当公証院の標準契約においてその主張は通りません」
レティシアは感情を排した声で、二人の前に分厚い契約書の要約版を広げた。
「本日は、こちらの『持参金分別管理条項』についてご説明いたします。貴族法において、妻の持参金はあくまで彼女個人の『特有財産』です。これを夫やその家族の事業資金、あるいは借金の返済などと混同させることは固く禁じられております」
「なっ……!?」
「もちろん、リアナ様ご自身の意思で投資として事業に出資することは可能です。しかしその場合でも、明確な貸付契約や株式の譲渡契約を別途結ぶ必要があります。家計の財布と事業の財布を完全に分ける。これがこの条項の目的です」
男爵夫人の顔が、屈辱と怒りで真っ赤に染まった。
「ふざけるな! 家族になるのだから、金に色をつける必要などないでしょう! そんな水臭い条項を入れるということは、うちの家を信用していないということですか! やはり商人の娘はがめつい……!」
「お母様、やめてください! 僕はリアナの財産など目当てではありません!」
気弱なユージーンが必死に声を上げるが、怒り狂った母親の耳には届かない。リアナは怯えてうつむき、自分のドレスの裾をきつく握りしめていた。
「信用や愛の問題ではありません。事実と法律の問題です」
騒ぎ立てる男爵夫人に対し、レティシアの冷ややかな声が空気を切り裂いた。
「愛と所有権は別です。持参金は愛の証ではなく、リアナ様自身の財産なのです」
「なんだと……っ!」
「お金の境界線を曖昧にすることは、愛を証明することにはなりません。むしろ、将来事業が傾いた際、リアナ様の特有財産まで共倒れになるリスクを生み出します。明確な線引きこそが、いざという時の金銭トラブルによる愛の崩壊を防ぐ『盾』になるのです」
レティシアの理路整然とした反論に、男爵夫人はぐうの音も出ない。
ユージーンはハッとしたように顔を上げ、リアナの手を優しく、しかし力強く握りしめた。リアナも、その温もりに少しだけ顔を上げる。
「き、貴様……たかが公証院の窓口係の分際で、貴族である私に説教をする気か!」
論破された男爵夫人が、逆ギレしてレティシアに詰め寄ろうとした。
しかし、レティシアは微動だにしない。彼女の背後、この部屋のすぐ隣にある『直轄専用執務室』から、恐ろしいほどの冷気と威圧感が漏れ出しているのを確信していたからだ。
「……今日はここまでにしましょう。ユージーン様、リアナ様。この条項を外すことは公証院としてお勧めできません。ご実家ともよくご相談の上、改めてお越しください」
レティシアが淡々と面談を打ち切ると、男爵夫人は「絶対にそのふざけた条項は外させるからな!」と捨て台詞を吐き、ユージーンとリアナを急き立てるようにして部屋を出て行った。
* * *
その頃、隣の執務室。
「……見苦しいな。愛を口実に他人の財産を貪ろうとするとは」
総裁用の重厚なデスクで書類にサインをしていた王弟殿下ノア・ヴァルトハイムは、冷ややかな声で呟いた。
壁越しに聞こえていたやり取り。レティシアの的確な法的説明と、ヒステリックな夫人の怒声。
ノアは羽ペンを置き、部屋の隅に控えていた影のような部下に向かって顎をしゃくった。
「ダルベリー男爵家の事業帳簿と、近年の資金繰りを徹底的に洗え」
「はっ。しかし殿下、一介の男爵家の内情を、なぜ総裁閣下自らが……?」
「彼女の相談窓口は、私の直轄だ。あの夫人が再度訪れて私の部下に怒鳴り散らす前に、物理的に口を塞ぐ材料を揃えておきたい」
部下は深く頭を下げ、足音もなく退室していった。
そして数時間後。
ノアがレティシアを休ませるための口実を考えていたところに、先ほどの部下が足早に戻ってきた。
「……殿下。男爵家の帳簿ですが、ただの資金難ではありませんでした。不自然な『穴』が見つかりました」
「ほう」
報告書の束を受け取ったノアの氷の瞳に、獲物を見つけた肉食獣のような鋭い光が宿る。
「なるほど……持参金の分別管理をあそこまで激しく拒絶した理由が、よく分かる内容だ」




