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第6話 婚前相談所は王弟殿下の直轄です

「この苦情状の山をどう説明するつもりだ、レティシア君!」


王立公証院の執務室。

ボルトン次長のヒステリックな怒鳴り声と共に、数十枚の便箋がレティシアのデスクに乱暴に叩きつけられた。


「『最初から破談の話をされて不愉快だった』『縁起でもない』『あの令嬢は破談屋だ』……! 我が公証院の重要な顧客である高位貴族の方々から、君へのクレームが殺到しているのだぞ!」

「……申し訳ありません、次長」


レティシアは立ち上がり、静かに頭を下げた。

しかし、彼女の心の中に反省の色は一切ない。


(あぁ、前世の営業部長と全く同じだわ……)


前世の法務部時代。「リスクを説明すると取引先が渋い顔をするから、細かい規約の説明は飛ばしてさっさとハンコをもらえ」と怒鳴り散らしていた上司の顔が、目の前のボルトンと完全に重なった。


「いいか、我々の仕事は貴族様方に気持ちよくサインをしていただくことだ! 余計な波風を立てて、契約を遅らせるなど言語道断! これ以上、我が公証院に泥を塗るつもりなら、君には窓際部署へ異動してもらうしかないな。そもそも、君のような不吉な令嬢が相談に乗るなど――」


「――説明を怠り、後から違約問題に発展した際、その巨額の調停費用と公証院の信用失墜は、ボルトン次長。お前がすべて個人的に補填するということで間違いないな?」


氷の刃のような、低く絶対的な声。

執務室の空気が一瞬にして凍りつき、ボルトンはカエルが潰されたような悲鳴を上げて振り返った。


「そ、総裁閣下……っ!? で、殿下、なぜこのような一般執務室に……!」


ノア・ヴァルトハイム王弟殿下。

漆黒の軍服を纏った長身の男は、周囲で慌てて平伏する職員たちには目もくれず、真っ直ぐにレティシアのデスクへと歩み寄った。


ノアはデスクに散らばった苦情状を、黒革の手袋に包まれた指で無造作に拾い上げる。


「破談の話をされて不愉快だった、か。なるほど。自ら例外解除の出口を塞いでおきながら、いざという時に『公証院の罠だ』と騒ぎ立てる愚か者たちの自白記録としては、実に優秀な証拠品だ」

「で、殿下……? そ、それはあくまでクレームでして……」

「ボルトン次長。貴族の機嫌を取るために法と契約を蔑ろにする者を、私はこの公証院に置いた覚えはない」


ノアの絶対零度の視線に射抜かれ、ボルトンは滝のような冷や汗を流して後ずさった。

ノアは彼を一瞥するだけで見切りをつけると、周囲の全職員に響き渡る声で宣告した。


「本日をもって、王立公証院内に『婚前契約相談窓口』を試験設置する。正式な契約前の調整と、リスク説明に特化した専門部署だ。そして、その責任者にはレティシア・アーヴィングを任命する」


「なっ……!? で、殿下! お待ちください!」


ボルトンが慌てて声を上げた。


「そ、そのような重要な窓口の責任者を、クレームだらけの彼女に任せるなど! 公証院の品位に関わります!」

「クレームが懸念か? ならば問題ない」


ノアは薄く、ひどく冷酷な笑みを浮かべた。


「レティシア・アーヴィングが担当する婚前契約相談窓口は、今後、王弟である私の『直轄』とする」

「ちょ、直轄……っ!?」

「そうだ。今後、彼女の業務に対する不満、文句、および苦情状は、すべて私個人の執務デスクに直接届けろ。私が直々に目を通し、判断を下そう」


執務室が、水を打ったように静まり返った。


『直轄』。

それはつまり、彼女に文句がある者は、直接王弟殿下に喧嘩を売らなければならないという絶対的な防壁の構築を意味していた。

ボルトンはもちろん、周囲の職員たちも、今後一切レティシアに手出しできなくなったことを悟り、顔を青ざめさせてうつむく。


(……すごい。クレーム対応を総裁トップの権限で中央集権化して、末端の事務官の精神的負担をゼロにするなんて。前世のブラック企業にも見習わせたい、完璧なリスクマネジメントだわ!)


当のレティシア本人は、ノアの行動を「超ホワイトな業務環境の改善」と解釈し、密かに感動で打ち震えていた。

王弟殿下が、一介の伯爵令嬢を自分の庇護下に囲い込み、外部の虫をすべて物理的に排除しようとしている――という、彼の重すぎる独占欲には微塵も気づいていない。


「……というわけだ。レティシア」

「は、はい!」

「私の直轄にふさわしい働きを期待している」

「承知いたしました、総裁閣下。粉骨砕身、職務に励みます!」


ピシッと背筋を伸ばして一礼するレティシアを見て、ノアは満足げに頷き、執務室を後にした。

その場に残されたボルトンは、魂が抜けたような顔でへたり込んでいる。


* * *


数日後。

『王立公証院・第一婚前契約相談室』という真新しいプレートが掲げられた個室。


「王弟殿下の直轄」という恐ろしい威光により、理不尽な苦情を言いに来る貴族は完全に姿を消し、レティシアはノアが手配した最高級の特注椅子に座りながら、極めて快適に業務をこなしていた。


「……次のご相談者様、どうぞ」


コンコン、と控えめなノックの音が響く。

おずおずと扉を開けて入ってきたのは、上質なドレスを身に纏いながらも、どこか思い詰めたような顔をした令嬢だった。


「あの、レティシア様でいらっしゃいますか? 私、新興商会を営む家の娘で、リアナと申します」


リアナは、縋るような目でレティシアを見つめた。


「結婚後の……『持参金』の扱いについて、ご相談に乗っていただけないでしょうか」

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