第5話 破談条項を入れた二人は、破談しませんでした
「レティシア様! 私たち、話し合いました。このまま婚約を継続いたします!」
王立公証院の第一面談室。
数日ぶりに訪れた辺境伯子息のルカ・ヴァンデルは、晴れやかな笑顔でそう宣言した。隣に座る子爵令嬢のマリナも、以前のような怯えた表情は消え、スッキリとした顔で深く頷いている。
レティシアは手元の記録用紙から顔を上げ、静かに二人を見つめた。
「よろしいのですか? 結婚後の生活基盤について、お二人の間には大きな認識のズレがありました。愛だけで乗り切れるほど、結婚後の現実は甘くありませんよ」
レティシアが敢えて厳しい言葉を投げかけると、ルカは真剣な表情になり、マリナの手をしっかりと握った。
「はい、わかっています。だからこそ、二人で何日もかけて徹底的に話し合いました。住む場所、お互いの仕事、親族との付き合い方、そして将来子どもが生まれた場合の教育環境まで」
「……ほう」
レティシアは少しだけ目を瞠った。
数日前まで「愛があれば大丈夫」と夢見ていた若者たちが、地に足のついた現実的な顔つきになっている。
マリナが、自ら持参したメモ書きをレティシアに差し出した。
「私の薬草院は、王都の管理人に実務を任せつつ、私が引き続き所有権と経営権を持つことにしました。ルカ様のご実家である辺境伯家は、私の事業には一切干渉しない。その代わり、私が生み出した新薬の優先卸先を辺境伯軍とする……という条件です。これなら、お互いの利益になります」
「それに、マリナが王都と辺境領を行き来するための護衛と馬車の費用は、私の個人資産から捻出すると約束しました。彼女のやりたいことを、私の家の都合で奪う権利はありませんから」
ルカの力強い言葉に、レティシアはメモ書きと二人の顔を交互に見比べた。
ただの感情論ではない。互いの権利を守り、妥協点を見出し、それを契約という形に落とし込もうとしている。これこそが、本来あるべき婚約の姿だった。
「……見事な着地点です。では、マリナ様の薬草院は特有財産として明記し、親族介入制限条項を付与。および、ルカ様からの活動支援について特約条項として契約書に追記いたします」
レティシアが流れるような手つきで羽ペンを走らせると、二人はホッと安堵の息を吐いた。
そして、すべての書類の手続きが終わった後。
マリナが立ち上がり、レティシアに向かって深く、本当に深く頭を下げた。
「レティシア様。本当に、ありがとうございました」
「……私は、ただ公証院の規定に従って説明業務を行っただけです。お礼を言われる筋合いは――」
「いいえ。あなたが最初に『破談』という最悪のケースを突きつけてくださったから、私たちは初めて、結婚後の現実から目を逸らさずに話し合うことができたのです」
マリナの瞳には、心からの感謝の光が宿っていた。
「破談条項を入れたからといって、破談するわけではない。むしろ、破談しないためにどう生きるべきかを、あの条項が教えてくれました。あなたは、私たちの未来を救ってくださった恩人です」
「あっ……ええと、その……」
レティシアは、完全に処理落ちを起こした。
前世の法務部時代から数えても、「リスクを説明して感謝される」などという経験は一度たりともない。常に「縁起でもない」「口うるさい」と疎まれてきたのだ。
向けられる純粋な好意と感謝にどう対応していいか分からず、レティシアはカァッと顔を赤くし、手元にあった分厚い契約書の束をバサッと持ち上げて、自分の顔を半分隠した。
「け、契約書は、ご自身の言葉で完成させるものです。お二人が逃げずに話し合った結果であって、私の功績ではありません……っ。本日の面談は以上です、お気をつけてお帰りください!」
早口でまくしたてて逃げるように面談室を後にするレティシアを、ルカとマリナは微笑ましく見送った。
* * *
「……はぁ、心臓に悪いわ」
自分の事務デスクに戻ったレティシアは、熱を持った頬を両手で挟みながら小さく息を吐いた。
まだ胸の奥がじんわりと温かい。自分の仕事が、誰かの幸せを守る役に立った。その事実が、前世から抱えていた氷のような徒労感を少しだけ溶かしてくれた気がした。
「さ、午後の書類作成を進めないと」
気を取り直して自分の席に座ろうとしたレティシアは、ぴたりと動きを止めた。
そこにあるはずのものがなく、あるはずのないものが存在していたからだ。
「……え?」
昨日までレティシアが使っていた、座るたびにギシギシと悲鳴を上げる古い木製の事務椅子が消え失せている。
代わりに鎮座しているのは、最高級のしなやかな黒革で覆われ、背中と腰の位置に極上のクッションが計算し尽くされて配置された、見た目からして明らかに高価な特注の椅子だった。
「な、なにこれ!? 誰の嫌がらせ!?」
「嫌がらせではない。私が手配した」
背後から降ってきた低い声に、レティシアはビクッと肩を跳ねさせて振り返った。
そこに立っていたのは、王立公証院総裁であり王弟殿下である、ノア・ヴァルトハイムだった。
「で、殿下!? あの、これは一体……!?」
「座ってみろ」
ノアに促されるまま、レティシアはおずおずと新しい椅子に腰を下ろした。
その瞬間、ふわりと体が包み込まれるような感覚に陥る。腰への負担が完全に分散され、まるで雲の上に座っているかのような極上の座り心地だった。
「あ……すごい、全然腰が痛くない……」
「そうだろう。職人に君の体格を目視させ、徹夜で調整させた特注品だ」
「て、徹夜で!? どうして私のような一介の事務官に、ここまで……!」
慌てて立ち上がろうとするレティシアの肩を、ノアの手袋に包まれた大きな手が軽く押さえ、再び椅子に座らせた。
「君の契約書は冷たいと言われる。だが私には、誰よりも優しい文章に見える」
ノアの氷のような瞳が、すぐ間近でレティシアを真っ直ぐに射抜いていた。
先ほどのルカとマリナとの面談を、彼もどこかで聞いていたのだろう。
「他人の未来を背負い、膨大な書類と向き合う君にとって、長時間座り続けるための椅子は単なる道具ではない。君の体を守るための『防具』だ」
「防具……」
「そうだ。私の直轄である君が、粗末な椅子で体を痛めることなど、この私が許さない。ありがたく使え」
有無を言わせぬ絶対的な命令。しかしその声の響きは、不器用なほどの過保護さに満ちていた。
「……っ、ありがとうございます、殿下」
レティシアの頬は、先ほどマリナに感謝された時よりも、さらに熱く、真っ赤に染まっていた。
自分の仕事の在り方を肯定し、さらに自分の体調まで気遣い、強引に環境を整えてくれる。そんな上司(?)の存在に、レティシアの胸の高鳴りはしばらく収まりそうになかった。




