第4話 要約版を破り捨てた元婚約者
「女の長話など聞かん! こんな紙切れ、時間の無駄だ!」
王立公証院の面談室に、ビリビリと乱暴に紙を引き裂く音が響き渡った。
――それは半年前。パトリック・ローラン伯爵令息と、ヴィオラ・チェンバレン子爵令嬢が、婚約契約の締結に訪れた日のことである。
床に散らばったのは、レティシアが老眼の貴族でも読めるようにと、あえて極めて大きな文字で作成した『契約要約版』の無惨な残骸だった。
「パ、パトリック様! いけませんわ、公証院の書類を破るなんて……!」
「うるさいぞヴィオラ! 最初から『別れる時の手順』など聞かされる身にもなってみろ。私に対する侮辱だ!」
怯えてすがりつく婚約者を冷たく振り払い、パトリックはふんぞり返った。
(あぁ……利用規約を一切読まずに『同意する』にチェックを入れ、問題が起きてから『そんなの聞いてない!』と喚き散らすタイプの人ね)
レティシア・アーヴィングは、内心でひっそりと冷ややかな評価を下していた。
前世、大企業の法務部で働いていた頃、この手の人間は山ほど見てきた。彼らは自らの無知を「大らかさ」や「特権」だと勘違いし、後始末をすべて他人に押し付ける。
レティシアは破られた紙屑を一瞥もせず、引き出しから別の一枚の書類を取り出した。
「かしこまりました。では、説明は不要ということでよろしいですね。手続きを省略するため、こちらの『説明拒否記録』にご署名をお願いいたします」
「ふん、最初からそうやって手短に済ませればいいのだ。理屈っぽい女は可愛げがないぞ」
パトリックは書類のタイトルすらろくに確認せず、流れるような筆跡で自身のサインを書き殴った。
隣でヴィオラが不安そうにレティシアを見つめていたが、パトリックの威圧感の前に、彼女は何も言い出せないままうつむくしかなかった。
――それが、半年前の出来事である。
「……レティシア様。あの、私は……」
現在の王立公証院、第一面談室。
目の前のソファに座るヴィオラは、温かい紅茶の入ったカップを両手で包み込むように持ちながら、小刻みに震えていた。
数日前、パトリックは公開調停の場で一方的な婚約破棄を宣言し、レティシアの提示した『説明拒否記録』によって完全な違約行為と認定され、公証院から追放された。
現在、ヴィオラ側への莫大な違約金請求と、名誉回復のための公告手続きが粛々と進められている。
しかし、当の被害者であるヴィオラの顔に晴れやかな色はなかった。
「私は、守られますか……?」
絞り出すような、か細い声だった。
「あの時、彼が書類を破るのを止められなかった。説明を聞くべきだと、強く言えなかった。サインを許してしまった。……パトリック様は、きっと私を逆恨みするはずです。お前が罠に嵌めたのだと、私や私の家族に報復してくるのではと、夜も眠れなくて……」
自分の落ち度を責め、見えない恐怖に怯える令嬢。
レティシアは、音を立てずにティーカップをソーサーに置き、ヴィオラを真っ直ぐに見つめた。
「ヴィオラ様。一つ、誤解を解かせてください」
「え……?」
「半年前、パトリック様が破り捨てたのは、私が手元用に用意した『要約版のコピー』です。あなた方両家が署名した契約書の原本は、現在も公証院の地下金庫に、無傷のまま厳重に保管されています」
ヴィオラがハッと息を呑む。
レティシアは淡々とした、しかし決して冷たくはない声で言葉を紡いだ。
「そして、あなたが止められなかったあのサイン。パトリック様の直筆が残る『説明拒否記録』こそが、今のあなたを守る最強の盾です。あの記録がある限り、彼が『騙された』と主張しても法的には一切通用しません。公証院が、王国の法が、彼からあなたを完全に保護します」
「私を、保護……」
「ええ。契約書は、あなたを責めるためではなく守るためにあります。あなたは何も間違っていません。どうか、安心しておやすみください」
レティシアのその言葉に、ヴィオラの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ずっと抱えていた自責の念と恐怖が、分厚い盾によって防がれ、溶けていく。彼女は何度も何度もレティシアに頭を下げた。
* * *
「……『契約書は、責めるためではなく守るためにある』か」
面談室の少し開いた扉の死角。
薄暗い廊下で、ノア・ヴァルトハイムは腕を組み、静かに目を閉じていた。
王立公証院の総裁として、彼は数多くの事務官や契約担当者を見てきた。
彼らの多くは、契約書を「相手を縛り付ける鎖」として使い、あるいは「責任を回避するための逃げ道」として扱う。
だからこそ、周囲の貴族たちは契約を嫌う。レティシアのことも「不吉な破談屋」と忌み嫌っていた。
しかし、ノアの耳に届いた彼女の言葉は、どうだ。
(あの冷徹に見える令嬢が、誰よりも深く、契約というものの本質と優しさを理解している)
強者であるパトリックの傲慢を記録という鎖で縛り上げ、弱者であるヴィオラには、法という名の絶対の盾を差し出す。
己への悪評など意にも介さず、ただ淡々と、人知れず他人の人生を守り続けているのだ。
ノアはゆっくりと目を開けた。
氷のように冷たいと評される彼の瞳の奥に、かつてないほど濃密な熱と、明確な執着の色が渦巻いていた。
「……ますます、他人の手には渡せなくなったな」
誰に聞かせるでもない、低い呟き。
ノアは踵を返し、自らの執務室へと歩き出す。あの有能で愛らしい直轄の部下に、どのような労働環境の改善――という名の過保護な報酬――を与えるべきか、その計算を巡らせながら。




