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第3話 愛が永遠なら、この条項は一生使われません

「最初から破談の話をするなんて! これだからお前は『不吉な令嬢』だと言われるのだ! 縁起でもない!」


王立公証院の第一面談室。

顔を真っ赤にした中年の男爵が、吐き捨てるように怒鳴って部屋を出て行った。

勢いよく閉められた重厚な木の扉の音が、室内に虚しく響き渡る。


「……本日、三件目の途中退室ですね」


レティシア・アーヴィングは、感情を完全に殺した無表情のまま、机に残された白紙の『婚約契約書』を静かに回収した。


前世、大企業の法務部で働いていた頃から何も変わらない。

どれだけ相手の未来を守るためにリスクを説明しようとも、「話を腰を折るな」「縁起でもない」と嫌がられる。

そして問題が起きた時だけ、「なぜもっと強く止めなかった!」と理不尽に責任を押し付けられるのだ。


現世において、レティシアは貴族たちから『破談屋』『不吉な令嬢』と陰口を叩かれている。

婚約契約の説明において、必ず『協議解除条項』――つまり、円満に別れるための例外手順から話をするためだ。


(でも、出口のない契約ほど恐ろしいものはないのに)


小さくため息をつき、レティシアは次の面談者の資料に目を通した。

辺境伯子息、ルカ・ヴァンデル。

子爵令嬢、マリナ・チェルト。


コンコン、と控えめなノックの音が響き、若い男女が入室してきた。

大柄で日焼けした、いかにも誠実そうな青年のルカ。

そして、少し緊張した面持ちで彼に寄り添う、可憐なマリナだ。


二人は席につくと、互いに見つめ合い、微かに微笑み合った。

先日のパトリックとは大違いの、純粋に互いを想い合っていることが伝わってくる空気感だった。


(良い方たちのようね。……だからこそ、ちゃんと説明しなければ)


レティシアは居住まいを正し、分厚い契約書と要約版を机に並べた。


「本日は王立公証院へようこそ。早速ですが、婚約契約の読み合わせを始めます。まずは第一項『協議解除条項』――すなわち、婚約を円満に解消する際の手続きと、財産分与についてです」


その瞬間。

マリナの肩がビクッと跳ね、ルカの顔からスッと血の気が引いた。


「えっ……あの、破談、ですか?」


マリナが潤んだ瞳でルカを見上げる。ルカも慌ててレティシアに身を乗り出した。


「お、お待ちください! 私たちは真実の愛を誓い合っています。別れることなど絶対にありません! なのになぜ、最初からそのような不吉な話を……」


やはり、同じ反応だ。

レティシアは内心の徒労感を押し隠し、澄んだ冷たい声で告げた。


「ルカ様、マリナ様。当公証院の標準契約において、一方的な婚約破棄は法的に無効です。だからこそ、万が一の際に互いの名誉を守り、泥沼の争いを避けるための『出口』として、この条項が存在します」


「しかし、私たちは――」


「愛が永遠なら、この条項は一生使われません」


静寂の中、レティシアの言葉が真っ直ぐに二人の胸に落ちた。


「これはお二人を疑うものではなく、お二人の未来の退路を守るための『盾』なのです。一生使わない盾の重さを、今のうちに確認しておくだけのことです」


「一生使わない、盾……」


ルカは目を見開き、マリナと顔を見合わせた。

二人の目から先ほどの恐怖が消え、真剣な光が宿る。


「……わかりました。説明を続けてください」


レティシアは一つ頷き、要約版のページを捲った。


「では、将来の生活基盤に関する項へ移ります。結婚後の居住地ですが、ヴァンデル辺境領への移住ということでよろしいでしょうか」


「はい。私は長男ですので、領地へ戻り父を助けます。マリナには苦労をかけますが、必ず幸せにします」


ルカが力強く宣言する。しかし、隣のマリナの顔が、今度は別の意味で真っ青になっていた。


「え……ルカ様? 王都に残るのでは、ないのですか?」

「えっ? いや、私は次期辺境伯だから……」


「でも、私の薬草院は……! 亡き母から受け継いだ王都の薬草院は、どうなるのですか? 結婚しても続けて良いと、以前……」


「あ、あれは結婚前の話だろう!? 辺境の厳しい冬に、君の細腕で薬草など育てられるはずがない!」


面談室の空気が、一気に張り詰めた。

互いを深く愛している。しかし、「愛しているから、相手は当然自分に合わせてくれるはずだ」という、若さゆえの無意識のすれ違い。


破談の話をしたからこそ、彼らは初めて『リアルな結婚後の生活』の致命的なズレに気づいたのだ。


「……申し訳ありません、レティシア様。少しだけ、時間を頂けませんか」


ルカが頭を抱えながら言う。マリナも、泣きそうな顔で薬草の入った小さな鞄を握りしめていた。


「もちろんです。契約は、今日すべてを決める必要はありません。お二人が納得のいくまで話し合ってください。それが、この盾の本来の役割ですから」


レティシアが席を外し、二人は深刻な顔で、しかし逃げることなく話し合いを始めた。


面談室を出て、薄暗い廊下を歩いていたレティシアは、ふと視線を感じて立ち止まった。

少し離れた場所にある総裁執務室。その少しだけ開いた重厚な扉の奥から、冷徹な氷の瞳が、レティシアの働きぶりを静かに見つめていた。


王弟殿下であり、この公証院のトップであるノア・ヴァルトハイムだ。


(……監視されているのね。問題を起こさないか)


レティシアは深く頭を下げ、足早に自分の事務デスクへと戻った。

連日の理不尽な苦情対応と、膨大な書類仕事で、彼女の肩は石のように重かった。早く次の書類を作らなければ。


しかし、自席に戻ったレティシアは、目を丸くして固まった。


殺風景な彼女の机の上に、昨日と同じ、最高級の焼き菓子が小箱に入って置かれていた。

そしてその隣に、一枚の真新しい決裁書類が置かれている。


『婚前契約説明係への追加事務補助員・二名の配置案』


そこには、流麗で力強い字で、ノア本人の承認サインが記されていた。


ただ甘いお菓子を与えるだけではない。

彼女がどれほどの業務量を抱え、どれほど疲弊しているかを見抜き、実務としての助けを無言で差し出してきているのだ。


「……どうして」


前世でも現世でも、どれだけ働いても、疎まれるだけで正当に評価されたことなど一度もなかったのに。


レティシアは誰もいない執務エリアで、焼き菓子の甘い香りに包まれながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

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