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第2話 冷徹王弟殿下は契約書を最後まで読む

「その契約書――私にも、最後まで読ませてくれ」


王立公証院総裁であり、王位継承権を返上した冷徹なる王弟殿下、ノア・ヴァルトハイム。

彼の低く威厳に満ちた声が、凍りついた調停室に響き渡った。


レティシアは静かに一礼し、机上に整然と並べられた書類を彼の前に差し出した。


分厚い『婚約契約書原本』。

大きな文字で箇条書きにされた『要約版』。

そして、『読み合わせ記録』と『説明拒否記録』の束である。


ノアは長身をかがめ、黒革の手袋に包まれた指でペラペラと書類を捲っていく。

その静寂の中、完全に追い詰められたパトリックが、滝のような冷や汗を流しながら叫んだ。


「で、殿下! 誤解です、私は騙されたのです! あのような分厚い書類の、虫眼鏡でしか見えないような小さな文字で書かれた罠など、気づけるはずがありません!」


苦し紛れの、あまりにも見苦しい言い訳だった。

自分が「面倒だ」と削った条項の重大性を理解していなかった己の無知を完全に棚に上げ、公証院の書式に責任を転嫁しようとしているのだ。


レティシアは眼鏡の奥の瞳を冷やめかせ、一切の感情を交えずに口を開いた。


「パトリック様。当公証院では、そのような誤解や行き違いを防ぐため、必ず『要約版』をご用意しております」


レティシアが示した二枚目の書類。

そこには、老眼の高齢貴族でも裸眼で読めるほど極めて大きな文字で、契約の要点と例外解除の条件、そして違約時のペナルティが明記されていた。


「加えて、契約締結日である半年前の十月十二日。私はこの要約版を用い、一時間かけて読み合わせを行う予定表を組んでおりました。しかし――」


レティシアは最後の一枚、『説明拒否記録』をパトリックの目の前に突きつけた。


「あなたは『破談の話など縁起でもない』『女の長話は聞かん』と仰り、要約版を床に叩き落とし、読み合わせを完全に拒絶されました。ここにあるあなたの直筆署名が、その何よりの証拠です」


ぐうの音も出ない物的証拠の連続。

パトリックの唇がわななき、絶望に顔が歪む。


書類から顔を上げたノアが、絶対零度の視線でパトリックを見下ろした。


「騙されたのではない。お前が自ら、聞く機会を捨てたのだ」


その一言が、パトリックの息の根を止める決定打となった。


「ヴィオラ嬢の財産保全と、名誉回復のための公告準備を直ちに進めよ。また、パトリック・ローランをただちに退出させ、今後一切、正式な召喚または許可なき公証院敷地への立ち入りを禁ずる」


ノアの冷徹な命令により、待機していた近衛騎士たちが重い足音を立てて踏み込んでくる。


「放せ! 私は伯爵家の嫡男だぞ!」


パトリックは床に這いつくばりながら、すがりつくように愛人のリリアを見た。


「リリア! お前からも殿下にお願いしてくれ! 私たちが真実の愛で結ばれていると!」


しかし、先ほどまでパトリックの腕の中で勝ち誇っていたリリアは、さっと青ざめてドレスの裾を引き、あからさまに後ずさった。


「い、嫌よ! 私には関係ないわ! あなたが勝手にやったことじゃない!」


「なっ……リリア、お前……!?」


「私、騙されていたんです! この人が『自分は自由に婚約破棄できるから問題ない』って言うから……!」


醜い責任逃れと内輪揉めを始める二人に、ノアは虫けらを見るような目を向けた。


「見苦しい。二人まとめてつまみ出せ」


「ひぃっ!」「や、やめろおおおお!」


情けない悲鳴を上げながら、二人は騎士たちに両脇を抱えられ、調停室から引きずり出されていった。

一方的に婚約破棄を突きつけたはずの彼は、たった一日、いや、わずか数十分で莫大な負債を抱え、社交界での居場所を失うという破滅を迎えたのである。


嵐が去った調停室には、深い静寂が落ちた。


「レティシア・アーヴィング」


名を呼ばれ、レティシアは肩をびくっと震わせた。

ノアがゆっくりと振り返り、彼女を真っ直ぐに見つめている。


「見事な対応だった。隙のない書類管理、相手の挑発に乗らない冷静さ。公証院総裁として、君の働きを高く評価する」


「あっ……ええと……」


レティシアは完全に固まってしまった。


前世、大企業の法務部で働いていた頃は、どれだけリスクを回避し、完璧な契約書を作り上げても、褒められたことなど一度もなかった。

「理屈っぽい」「可愛げがない」「話を止めるな」と疎まれ、問題が起きた時だけ矢面に立たされて過労死したのだ。


だから、『正当に評価される』という経験に免疫が全くない。


(どうしよう、こういう時、何て返せばいいの? 『恐悦至極に存じます』? それとも『職務を全うしたまでです』?)


内心で激しく処理落ちを起こし、眼鏡の奥で瞬きを繰り返すレティシアを見て、ノアの冷徹な顔にわずかな戸惑いが混じる。


ノアは背後の従者に視線で合図を送った。

すぐに、温かい湯気を立てる最高級の紅茶と、黄金色の蜂蜜がたっぷりとかかった焼き菓子が、小テーブルに運ばれてきた。


「……まずは座れ。少し顔色が悪い。これを口にするといい」


「えっ……? 殿下、これは……?」


「私の執務室に用意させていたものだ。糖分をとれば落ち着く」


促されるまま椅子に座り、レティシアはおずおずと紅茶に口をつけた。

芳醇な香りと、蜂蜜菓子の優しい甘さが口いっぱいに広がり、強張っていた心がじんわりと解けていく。


(なるほど、これは業務上の労いね。激務の後の福利厚生というやつだわ。なんて素晴らしい職場なのかしら)


前世のブラック企業に毒された価値観で、レティシアは一人納得して小さく頷いた。

頬を少し赤くして菓子を頬張るその無防備な姿を、ノアは目を逸らすことなく見つめ続けていた。


先ほどまで、狂犬のように喚く伯爵令息を前にしても、彼女の指先は一切震えていなかった。

分厚い契約書の束から必要な書類を瞬時に抜き出し、相手の逃げ道を完璧に塞ぐ。その洗練された手技と、氷のように冷徹な瞳。

公証院という、貴族たちの感情と欲望が渦巻く泥臭い職場で、彼女は誰よりも正確に実務をこなしていた。


それなのに。

今、目の前で小さな口を開け、菓子を頬張る姿はどうだ。


少し赤らんだ頬。甘さに綻ぶ唇。先ほどの冷徹な説明係と同一人物とは思えないほどの無防備さだった。


(……実に、愛らしい)


常に冷徹で、他人に興味を示さないはずの王弟殿下の瞳の奥に、仄暗く、しかし確かな熱が灯る。


この有能で、不遇に慣れすぎている令嬢。

彼女が今まで正当な評価を受けてこなかったのは、公証院の怠慢であり、同時にノアにとっては幸運だった。


(他部署や、他人の手には決して渡さない)


ノアは心の中でそう確信し、黒革の手袋を外した。

そして、甘味に夢中になっているレティシアの前に立つ。


「レティシア」


「ふぁい?」


菓子を口に咥えたまま間抜けな声を出してしまった彼女に対し、ノアは一切の表情を崩さず、絶対的な命令を下した。


「今日から君は、私の直轄だ」

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