第1話 婚約破棄ですか?残念、その手順は削除済みです
「私は真実の愛を見つけた! ゆえに、ヴィオラとの婚約を破棄する!」
王立公証院、第一公開調停室。
高い天井に豪奢なシャンデリアが輝く厳粛な空間に、パトリック・ローラン伯爵令息の朗々とした、そしてひどく場違いな声が響き渡った。
本来ここは、当事者同士が冷静に契約関係を整理するための場だ。
しかし今のパトリックは、婚約者であるヴィオラ・チェンバレン子爵令嬢を冷たく見下し、あろうことか隣に侍らせた愛人リリアの腰を抱き寄せていた。
「パトリック様……嘘でしょう……? 私たちは、両家の正式な……」
ヴィオラは信じられないものを見る目で青ざめ、小刻みに震えている。
その痛々しい姿を鼻で笑い、パトリックはさも自分が悲劇から解放された主人公であるかのように胸を張った。
(あぁ、まただ……。どうしてどこの世界にも、契約書を読まない人間がいるのだろう)
少し離れた記録席。
そこに座るレティシア・アーヴィングは、手元の分厚い書類の束に視線を落としたまま、内心で深く、ひどく深くため息をついた。
『契約書なんて読んでいません』
『そんな面倒な説明は聞いていません』
『でも、問題が起きたからといって私が責任を取るわけではありません』
前世、大企業の法務部で契約審査担当として働いていたレティシアは、そんな言葉を吐く営業部や取引先に幾度となく遭遇してきた。
リスクを説明し続けた挙句に「話を長引かせるな」と煙たがられ、いざ問題が発生すれば全責任を押し付けられて、連日の徹夜の末に過労死した。
それがレティシアの前世の最期だ。
現世では伯爵令嬢として生まれ変わり、今は王立公証院の婚約契約説明係として働いている。
しかし、ここでも「破談の話など縁起でもない」「愛があれば契約など不要だ」と、肝心な説明を嫌がる貴族は後を絶たなかった。
「……不毛ですね」
レティシアは感情を殺した淡々とした手つきで、三つの書類を机に並べた。
『婚約契約書原本』。
大きな文字で書かれた『要約版』。
そして、パトリック本人の署名が入った『説明拒否記録』だ。
「パトリック様。今、『婚約破棄』と仰いましたか?」
静寂を切り裂くような、一切の熱を持たない声。
レティシアが立ち上がると、パトリックは心底鬱陶しそうな顔で彼女を睨んだ。
「そうだ、破棄だ! 不吉な『破談屋』の令嬢には理解できないだろうが、私とリリアは真実の愛で結ばれているのだ。親同士が勝手に決めた窮屈な契約など、もう真っ平ごめんだ」
「なるほど」
レティシアは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、淡々と告げた。
「しかしパトリック様。当公証院の記録によりますと、あなたは半年前の契約締結時、『協議解除条項』『共同声明条項』『冷却期間条項』の三つを、ご自身で削除されておりますが」
パトリックは勝ち誇ったように笑った。
「当然だ! 自分たちに別れなどありえないし、面倒な手順など不要だと私が自ら削ってやったのだ。つまり、私を縛る手順は一つもない。ゆえに、私はいついかなる時でも、自由に婚約を破棄できるはずだ!」
調停室の空気が、パトリックの無知ゆえの傲慢さによって異様なものに変わる。
レティシアは憐れみすら浮かべず、事実だけを突きつけた。
「いいえ。大きな勘違いをされています」
「なんだと?」
「条項を削ったから、自由になるのではありません。むしろ、あなたが今求めている『円満に婚約を解消するための出口』を、あなた自身が削り落として塞いだのです」
パトリックの顔から、僅かに余裕が消えた。
レティシアは通る声で、貴族婚約の絶対原則を口にする。
「この世界の貴族婚約は、一方的な口頭での破棄は原則として無効です。だからこそ、例外的な出口として『協議解除条項』が存在する」
手順を踏めば、名誉を傷つけずに別れられる。それが契約の優しさだ。
しかし彼は「縁起でもない」と、その安全な出口を自ら塞いだのだ。
「な、なんだと……? ならば、どうなるというのだ! 私はもうこの女を愛していないのだぞ!」
「簡単です。パトリック様の一方的な公開破棄宣言は、法的に無効です。しかし――」
レティシアは分厚い契約書の該当箇所を、白魚のような指で叩いた。
「現在、隣に別の女性を伴い、公開の場で婚約者を公然と侮辱し、破棄を宣言した。その発言と振る舞い自体が、契約上の『重大な背信行為』に該当します」
「は……?」
「あなたは婚約を破棄したのではありません。婚約者であるヴィオラ様に、あなたを『正式に解除』し、莫大な賠償を請求する権利を与えたのです」
パトリックの顔から血の気が引いていく。
レティシアは息をつく間も与えず、あらかじめ準備していた通達書類をパトリックの前に滑らせた。
「これにより、ヴィオラ様側には法定解除請求権が発生。また、隣におられるリリア様が身につけている高額な宝飾品は、婚約財産の不当流用と見なし、即刻『財産保全の対象』として差し押さえます」
「なっ! 嘘でしょ、これを奪う気!?」
リリアが悲鳴のような声を上げ、自分の首飾りを両手で庇った。
「さらに」
レティシアの追撃は止まらない。法務の人間は、リスクを顕在化させた相手に容赦しない。
「パトリック家には、概算での違約金請求書が即時発送されます。また、重大な違約行為による調停中につき、パトリック様の社交資格は、本日から一時停止となります。王城への登城も、夜会への参加も不可能です」
「ふ、ふざけるなッ!!」
パトリックの顔が怒りで赤黒く染まった。
真実の愛を語る悲劇の主人公を気取っていたはずが、ただの契約違反者として莫大な負債と社会的制裁を突きつけられたのだ。その落差を受け入れられるはずもない。
「たかが公証院の下働きが、特権階級である私を陥れる気か! 契約書など引き裂いてやる!」
逆上したパトリックが、レティシアに向かって真っ直ぐに詰め寄る。
ヴィオラが悲鳴を上げ、パトリックの振り上げられた腕が、レティシアを打ち据えようとした。
――その瞬間だった。
「……そこまでだ」
低く、しかし絶対的な権力を孕んだ声が、調停室の空気を一瞬にして凍りつかせた。
入り口に立っていたのは、漆黒の軍服に身を包んだ長身の男。
冷徹な面差しと、氷の刃のような瞳。王位継承権を返上し、王立公証院総裁を務める王弟殿下、ノア・ヴァルトハイムだった。
「で、殿下……!?」
パトリックは振り上げた腕を止め、怯えたように後ずさった。
ノアは無表情のままゆっくりと歩み寄り、パトリックを一瞥すらせず、レティシアの前に庇うように立つ。
その広く分厚い背中が、レティシアの視界からパトリックの悪意を完全に遮断した。
「見事だ」
ノアの声は、怒りに震えるパトリックではなく、背後のレティシアに向けられていた。
「一切の隙のない論立てだ。私の公証院で、正当な職務を行った説明係を責めることは、この私が許さない」
その圧倒的な威圧感と冷気に当てられ、パトリックは膝から崩れ落ちそうになっていた。愛人のリリアに至っては、顔を伏せてガタガタと震えることしかできない。
ノアは背後を振り返り、レティシアが整然と並べた書類へと視線を落とした。
「レティシア・アーヴィングと言ったな」
「は、はい」
「その契約書――」
ノアは、冷徹な瞳の奥にわずかな熱と興味の光を宿し、彼女を見下ろした。
「私にも、最後まで読ませてくれ」




