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第39話 クラリスの新しい条件

「隣国の外交官から、私に縁談の申し入れがありましたの」


王立公証院の第一婚前契約相談室。

ソファに腰を下ろしたクラリス様は、ほんの少し頬を染めながら、照れくさそうにそう告げた。


王太子エドガーとの婚約が正式に解除されてから、数ヶ月。

外務省の外交補佐として新しい道を歩み始めたクラリス様は、以前の氷のように冷たく張り詰めた表情から一変し、生き生きとした柔らかい光を纏うようになっていた。

その優秀な仕事ぶりは他国にも知れ渡り、ついに隣国の若き外交官から熱烈なアプローチを受けたのだという。


「まあ、素晴らしいお話ですね! 心からお祝い申し上げます」

「ありがとうございます。……でも、少し迷っているのです」


クラリス様は、膝の上で両手をきゅっと握りしめた。


「以前の私なら、公爵家のため、国のためと、相手の顔も知らぬまま何も言わずにこの縁談を受け入れていたでしょう。それが貴族の娘の義務だと思い込んでいましたから」

「……はい」

「けれど、今は違います。私は私の足で立ち、自分の力で未来を切り拓く喜びを知ってしまいました。だからこそ……もう二度と、自分の意思を押し殺して誰かに従属するような結婚はしたくないのです」


クラリス様の真っ直ぐな瞳には、強い決意が宿っていた。

かつて、愛されない婚約者の理不尽な振る舞いにただ耐え忍ぶしかなかった彼女の姿は、もうどこにもない。


「私、今回は自分で条件を出したいのです。結婚しても今の外交の仕事を続けたいこと。それに伴い、生活の拠点をどうするのか。そして……万が一の時のことも」


彼女の言葉に、私は深く頷き、デスクから真っ白な羊皮紙を取り出した。


「わかりました。クラリス様の新しい人生のための、完璧な『条件書』を作りましょう」


私たちは額を寄せ合い、一つ一つの条件を丁寧に文字に起こしていった。

結婚後も外交補佐としての仕事の継続を認めること。居住地に関する柔軟な取り決め。各国の夜会や外交活動へ単独で出席する自由。

そして、かつての痛みを二度と繰り返さないための、破談時の名誉保全と慰謝料を保証する『協議解除条項』。


すべてを書き終えた後、クラリス様は「これを、彼に直接見てもらいます」と、凛とした笑顔で条件書を受け取って帰っていった。


* * *


数日後。

クラリス様は、一人の青年を伴って再び相談所を訪れた。

隣国の外交官であるというその青年は、誠実さを絵に描いたような、穏やかで知的な瞳を持つ人物だった。


「お招きいただき、光栄です。レティシア所長」

「ようこそおいでくださいました。さっそくですが、お二人の婚約契約についてご説明させていただきます」


私が書類を提示すると、青年は真っ直ぐに契約書に向き合った。


「では、破談時の手続きからご説明します」

「はい。よろしくお願いいたします」


かつての王太子が「縁起でもない」「女の長話は不要だ」と鼻で笑い、読み合わせを拒絶したまさにその条項。

しかし目の前の青年は、嫌な顔一つせず、文字を追い、私の説明に真剣に耳を傾けている。


「……なるほど。仕事の継続と、外交活動の自由ですね。そして、破談時の名誉保全」

「いかがでしょうか。もし、この条件が不服であるならば、縁談は――」


クラリス様が少し緊張した声で尋ねかけた、その時だった。


「素晴らしい条件書です」


青年は、契約書を最後まで丁寧に読み終えると、ふっと温かい微笑みを浮かべた。


「クラリス様。私は、外交の場で誰よりも気高く、誇りを持って自国の国益のために交渉するあなたの姿に惹かれました。その美しい翼を、結婚という籠で縛りつけるような真似は決してしたくありません」

「え……」

「この条件書のすべてに同意します。私は、妻となる者ではなく、私と対等に歩むパートナーとして、あなた自身を尊重したいのです」


青年の口から紡がれたのは、甘いだけの飾り立てた愛の言葉ではない。

クラリス様の尊厳と、これまでの努力をすべて肯定する、何よりも誠実な誓いだった。


「……っ」


クラリス様の瞳から、不意にポロリと涙がこぼれ落ちた。

それはかつての悲しい涙ではない。彼女はすぐに手で涙を拭うと、これまでで一番美しく、心からの穏やかな笑顔を咲かせた。


「……ありがとうございます。私も、あなたを心から尊重いたします」


二人はしっかりと見つめ合い、契約書にそれぞれの署名を記した。

そこにはもう、何の不安も、誤魔化しも存在しない。互いのすべてをさらけ出し、最悪の事態をも想定した上で、それでも共に生きたいと願う、真実の絆が結ばれた瞬間だった。


「レティシア様。本当に、ありがとうございました。あなたのおかげで、私は最高の幸せを掴むことができましたわ」

「おめでとうございます、クラリス様。どうか、末永くお幸せに」


相談所を出て行くお二人の背中は、光に満ち溢れ、どこまでも寄り添っていた。

私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、その背中をいつまでも見送った。


「……また一つ、良縁を守ったな」


不意に、背後から低く甘い声が聞こえ、私の腰に強い腕が回された。

振り返らなくてもわかる。王弟殿下であり、私の最愛の婚約者であるノア様だ。


「ノア様。執務室から抜け出してきて、よろしいのですか?」

「君の笑顔を見るためなら、どんな会議よりも優先する価値がある」


ノア様は私の耳元で囁き、そのまま私の首筋に顔を埋めるようにしてすり寄ってきた。

相変わらずの圧倒的な過保護と独占欲に、私は思わず苦笑してしまう。


「クラリス様、とてもお幸せそうでした」

「あぁ。だが、私と君の幸せには遠く及ばないがな」

「もう、殿下ったら……」


私は少しだけ赤くなった頬を隠すように、彼の温かい胸に背中を預けた。

かつては誰の目にも不幸で不吉に見えた私たちは、今、誰よりも確かな契約という盾に守られ、穏やかで甘い時間を生きている。


(本当に、不思議なものね)


契約書は、愛を疑うものではない。

愛を信じ、愛を守り抜くための、最も誠実な誓いなのだと、私は今なら心の底から言える。

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