第38話 番号札をお取りください
「レティシア様! どうか、我が家の娘の婚約契約もご指南いただけないでしょうか!」
「順番を守れ! 私の方が三時間も前から並んでいるのだぞ!」
王立公証院の『第一婚前契約相談所』。
その待合室は、今日も朝から、相談を求める貴族たちでごった返していた。
かつて私が「破談時の手続きからご説明します」と口にするたび、「縁起でもない」「不吉な破談屋め」と鼻で笑い、要約版を突き返していた者たち。
彼らが今、我先にと長蛇の列を作り、私を「縁守り令嬢」と呼んで崇め奉っているのだから、世間というものは本当に現金なものだ。
「皆様、どうか押さないでください。ご予約のない方は、こちらの番号札をお取りになって、順番にお待ちいただけますか」
私は内心の呆れを微塵も表に出さず、あくまで公証院の所長として、完璧に事務的な笑顔を貼り付けて対応を続けていた。
前世の法務部時代から学んだことだ。
クレームをつけてくる相手にも、手のひらを返してすり寄ってくる相手にも、等しく『システム』として対応するのが一番疲れない。
「次の方、ご用件を伺います。……あ」
受付カウンターの前に進み出てきた人物の顔を見て、私はほんの一瞬だけ瞬きをした。
目の前に立っていたのは、ヴィオラ様の元婚約者であるパトリックだった。
半年前、公開調停の場で当時の婚約者ヴィオラ様を捨て、愛人リリアを連れて堂々と婚約破棄を宣言し……そして、自らが『協議解除条項』を削っていたために違約行為に問われ、自爆した男。
現在の彼の姿は、あの時のような自信に満ちた傲慢な令息の面影はどこにもなかった。
仕立ての良かった服はどこかくたびれ、目の下には濃い隈ができ、すっかり落ちぶれた哀れな男の顔をしていた。
(……噂には聞いていたけれど)
パトリックはあの日、ヴィオラ様への莫大な違約金を背負わされ、社交界での資格を一時停止された。
愛人だったリリアは、すぐには再婚約できない(冷却期間)と知るや否や、彼からあっさりと離れていったという。
多額の負債を抱え、信用を完全に失ったパトリックの家に、まともな縁談など来るはずがない。
そこで彼は、どうにか家を立て直すための新たな政略結婚をまとめるために、『今、国中で最も信用されている縁守り令嬢のお墨付き(契約書)』という箔を求めて、恥を忍んでこの列に並んだのだろう。
「……レ、レティシア」
パトリックは、受付カウンター越しに私を見上げ、震える声で私の名前を呼んだ。
彼が見る私の姿は、もう「言いなりになる地味で不吉な伯爵令嬢」ではない。
最高級の特注椅子に座り、数名の有能な部下を従え、王宮から正式に任命された『相談所長』。
そして何より、この国で最も恐れられる王弟殿下ノア・ヴァルトハイムの愛する婚約者という、彼の手など一生届かない雲の上の存在だ。
パトリックの顔が、凄まじい屈辱と、惨めな劣等感に歪む。
「……なぁ、レティシア。その、俺たちには、昔のよししみがあるだろう? 少しだけでいい、俺の家の事情を汲んで、優先的に……」
パトリックが、未練がましく、そしてひどく情けない声で、特別扱いを乞うような言葉を紡ごうとした。
情に訴えかければ、いくらか融通してもらえるとでも思ったのだろう。
(……本当に、どこまでも自分の都合しか考えない人ね)
私は、一切の感情を排した、完璧な営業スマイルを彼に向けた。
「申し訳ありませんが、当相談所では、身分や過去の個人的なご縁による優先案内は一切行っておりません。すべての方に、平等に手順を踏んでいただいております」
私は、彼の言葉をピシャリと遮り、カウンターの上に置かれた木製の札を一枚手に取った。
「本日の飛び込み相談の枠は、かなり埋まっておりますので……。こちら、102番の番号札をお取りになって、待合室の最後尾でお待ちください」
パトリックの顔が、バチンと平手打ちを食らったように硬直した。
罵倒されるでもなく、哀れまれるでもなく。
ただひたすらに事務的に、「その他大勢のモブ客」の一人として処理されたこと。
それが、プライドだけは高い彼にとって、何よりも残酷で決定的なトドメとなったのだ。
「……っ、あ、あぁ……」
パトリックは、震える手で102番の番号札を受け取ると、逃げるように背を向け、大勢の貴族たちがひしめく待合室の隅へとトボトボと歩いていった。
もはや彼には、かつてのように「こんな紙切れは不要だ!」と書類を破り捨てる元気も残っていないらしい。
契約書を読む姿勢だけは、身にしみて理解したようだ。
「……お待たせいたしました。103番の番号札をお持ちの方、こちらへどうぞ」
私はすぐに視線を切り替え、次のお客様を笑顔で迎え入れた。
私の人生において、あの男の存在は、もはや処理すべきタスクの一つでしかなかった。
「……彼の相談時間は、五分で足りるな」
不意に、背後の執務室のドアの隙間から、ひどく冷ややかな、けれど私に向けた時だけは甘く響く呟きが聞こえた。
「五分ですか?」
私が振り返らずに小声で尋ねると、ノア様が鼻で笑う気配がした。
「あぁ。彼には守るべき財産も、名誉も、すでに何一つ残っていないのだからな。契約書に書き込む条件すら見当たらないだろう」
「……ふふっ。殿下、それはあまりにも辛辣すぎますよ」
私は、書類で口元を隠しながら小さく笑った。
私を不吉だと笑い、手順を削って自滅したかつて私の仕事を嘲笑った男。
彼が自分のしたことの代償を払い続ける中、私は、私を守ってくれる最高の盾(ノア様)と共に、新しい人生を歩んでいる。
「さて、次のお客様の書類を確認しなくては」
私は前を向き、背筋を伸ばして、誇りを持って仕事に向き合い続けた。




