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第37話 契約書は愛を疑うものではありません

「もし、二人の気持ちがすれ違ってしまったら……そう考えるだけで、とても恐ろしかったんです」


王立公証院の第一婚前契約相談室。

目の前に座る若い令嬢が、震える両手をきゅっと握りしめながら、ポツリと本音を零した。

その隣では、彼女の手を包み込むように握った若い令息が、真剣な眼差しで私を見つめている。

彼らは新しい人生を共に歩むため、ここに婚約契約を結びに来たカップルだ。


「お気持ちはわかります。未来のことは、誰にも約束できませんから」


私は彼らに微笑みかけ、手元の契約書の束を指し示した。


「だからこそ、最悪の事態を想定し、あらかじめルールを決めておくのです。それは決して、お二人の今の愛を疑う行為ではありません」


私は、不安げな二人の目を見ながら、一つ一つの条項を丁寧に説明し始めた。


「万が一、愛が壊れてしまった時でも、相手を傷つけず、円満に別れるための『協議解除条項』。破談になった場合でも、互いに一方を責めるような噂を流さず、事実のみを記した声明を公表する『共同声明条項』。これらは、お互いの名誉を守り、泥沼の争いを防ぐための出口なのです」


私の言葉に、令息が深く頷いた。


「……実は、私の実家は少しばかり事業を広げすぎていまして。彼女の持参金まで当てにするのではないかと、密かに危惧していたのです。だからこそ、『持参金分別管理条項』をしっかり結んでおきたかった」

「テオ様……。私のために、そこまで考えてくださっていたのですね」

「当然だよ。愛する君を、実家の都合で振り回したくはない」


二人は見つめ合い、ようやく安堵の笑みを浮かべた。

さらに令嬢が、「結婚後、私の両親が私たちの生活に過度に干渉してこないか不安だった」と打ち明けると、私は『親族介入制限条項』を提案した。


「この条項があれば、ご両親も一定の距離を保たざるを得ません。結婚後の生活に親族が過度に介入することを防ぐ盾になります。お二人の新しい家庭は、お二人だけのものです」

「ありがとうございます、レティシア様! これで、何の不安もなく結婚の準備を進められます」

「ええ。怖いと思って蓋をしていた問題と正面から向き合えたことで、かえって彼女との絆が深まりました」


若いカップルは、来店時の緊張した面持ちとは見違えるほど、晴れやかな顔で相談室を後にした。

不安や懸念を言葉にして契約書に落とし込むことで、彼らは初めて、本当の意味での信頼関係を築くことができたのだ。


二人の背中を見送りながら、私は小さく息を吐き、静かに目を閉じた。


かつての私は、貴族たちから「不吉な令嬢」「破談屋」と呼ばれ、忌み嫌われていた。

幸せの絶頂にあり、愛が永遠だと信じて疑わないカップルに対し、淡々と冷たい声で破談時の手続きから話し始める私のやり方は、社交界の常識から大きく外れていたからだ。


前世で大企業の法務部に勤めていた私は、契約のリスクを説明するたびに「営業の邪魔だ」「縁起でもない」と煙たがられた。

そして、実際に問題が起きた後には、説明を拒絶した者たちは保身のために逃げ出し、私だけが残業で潰され、誰にも守られずに孤独な過労死を迎えた。


現世でも同じように疎まれ、後ろ指を指され、自分のやり方が本当に正しいのか、心が折れそうになることもあった。


けれど、今は違う。


私が提案した『破談条項』を受け入れ、現実から目を背けずに真剣に話し合ったカップルたちは、次々と幸せを掴んでいった。

辺境伯領で暮らすルカ様と、薬草院を続けるマリナ様。

親族の借金問題から財産を守り抜いた、リアナ様とユージーン様。

不誠実な交際の境界線を明確にし、信頼を取り戻したオスカー様とネル様。

そして、王太子の身勝手な破棄宣言を自らの署名で論破し、新しい人生を力強く歩み始めたクラリス様。


私が作ってきた冷たい文字の羅列は、間違いなく彼らの未来を守る強固な盾となっていた。

いまや、誰も私を不吉だとは呼ばない。


「……今日も、いい仕事をしたな」


不意に、背後から低く甘い声が掛かった。

振り返るよりも早く、漆黒の軍服を着崩した王弟殿下ノア・ヴァルトハイムの大きな手が、私の腰をふわりと抱き寄せた。


「ノア様……。お隣の執務室から、見ておられたのですか?」

「あぁ。私の有能な婚約者が、今日も迷える者たちを救っている姿を、特等席で眺めさせてもらった」


ノア様は私の耳元で低く囁き、そのまま私の肩にそっと顎を乗せた。

彼の温かい体温と、微かに香る高貴な香水の匂いが、私を甘く優しく包み込む。


「ノア様、ここは公証院の相談室ですよ。誰かに見られたら……」

「構わん。私の直轄で、私が私の婚約者を甘やかして何が悪い。独占欲は契約の範囲外だと言ったのは君だろう。文句があるなら、追加の協議を申し入れてくれてもいいぞ」


相変わらずの過保護っぷりに、私は苦笑しながらも、彼に寄りかかるように少しだけ体の力を抜いた。


彼に出会うまで、私は自分を守ることを知らなかった。

他人のための盾を作るばかりで、自分自身はボロボロになるまで働き続けていた。


そんな私を見つけ出し、特注の椅子を用意し、護衛をつけ、強制的に休息を与え……最後には『私を絶対に縛らず、傷つけない』という完璧な求婚契約書をもって、私のすべてを肯定してくれた。

私が倒れそうな時、一番に駆けつけて、冷たい過去の呪縛から救い出してくれた。


ノア・ヴァルトハイムという存在こそが、私にとっての最大の『盾』であり、かけがえのない『愛』なのだ。


「レティシア」


ノア様が、愛おしそうに私の髪を撫でながら、もう一度甘く囁いてきた。


「今日も君は、縁を守っているな」


「はい」


私は、彼の胸に背中を預けたまま、窓の外に広がる王都の澄み切った青空を見つめて、誇りを持って答えた。


「はい。最悪の話から始めています」


愛は素晴らしいものだ。

けれど、愛だけでは守れないものがある。

すれ違い、傷つけ合い、理不尽な干渉や暴力によって、その愛が壊れてしまいそうになった時。

最後の最後に二人の尊厳を守るのは、冷たくて、そしてどこまでも優しい契約書なのだ。


だから。


今日も私は、誰かの幸せが壊れないように、最悪の話から始める。

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