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第36話 新しい二人は、破談の話を聞きに来た

「……あの、本日はよろしくお願いいたします」


王立公証院に正式設置された、真新しい『第一婚前契約相談所』の朝。

私の目の前のソファに座る若い令嬢は、隣に座る婚約者の令息とギュッと手を繋いだまま、ガチガチに緊張した面持ちで挨拶をした。


柔らかな日差しが差し込む室内には、ノア様が手配してくださった座り心地の良い特注の椅子や、温かみのある調度品が揃えられている。それでも、公証院というお堅い役所へ足を踏み入れたこと、そして何より『不吉な話から始まる』という噂が、彼らの肩を強張らせていた。


「おはようございます。こちらこそ、本日はお越しいただきありがとうございます」


私は彼らの緊張を少しでも解すように、極めて穏やかな、営業スマイルではない心からの微笑みを向けた。


「お茶はお口に合いましたか? そちらの焼き菓子は、私が個人的に懇意にしているお店のもので、とても甘くて美味しいのですよ。どうぞ、リラックスしてお召し上がりくださいね」

「あ、ありがとうございます……」


令息に促され、令嬢が少しだけお茶に口をつける。その表情が微かに和らいだのを確認してから、私は手元に用意した大きな文字の『婚約契約書(要約版)』を、二人の前のテーブルにそっと広げた。


「では、破談時の手続きからご説明します」


私は、いつもと全く同じ、静かで淡々とした声で告げた。


(……この言葉を口にするのは、いつになっても少しだけ勇気がいるわね)


内心で、私は小さく息を吐いた。

前世の大企業法務部時代、最悪の事態を想定してリスクを提示するたびに、「縁起でもない」「営業の邪魔だ」と疎まれ、怒鳴られた。

そして現世でも、この言葉を口にするたびに、多くの貴族たちから「不吉な令嬢」「破談屋」と忌み嫌われ、扇で顔を隠されたり、あからさまに舌打ちをされたりしてきた。


ヴィオラ様の元婚約者であるパトリックも、浮気王太子であったエドガーも、この言葉を聞いた途端に「女の長話は不要だ」と怒り出し、説明を拒絶した。


いくら私の仕事が国に認められ、相談所が正式に設置されたとはいえ、結婚という人生で最も幸せな絶頂にいるカップルに向かって「別れる時の話」をするのは、冷や水を浴びせるような行為だ。

怒られるかもしれない。不快な顔をされるかもしれない。

そんな過去のトラウマが、いまだに心の奥底でチリッと疼く。


けれど。


「……はい」


目の前の若い二人は、決して怒鳴り散らしたり、要約版を突き返したりはしなかった。


「……怖いけれど、聞きたいです」


若い令嬢が、震える声でポツリと言った。

彼女の瞳には明確な不安が浮かんでいた。それでも、彼女は決して目を逸らさず、逃げることなく私を真っ直ぐに見つめていた。


「私たちは、これから夫婦として長く共に生きていくことになります。だからこそ……もしもの時にどうなるのか、お互いをどうやって守ればいいのか、きちんと知っておきたいのです」


令息もまた、彼女の小さな手を両手でしっかりと包み込みながら、真剣な眼差しで私に同意した。


「彼女の言う通りです。私たちは、愛し合っています。ですが、愛だけで乗り越えられない現実的な問題が起きた時、無知ゆえに彼女を傷つけてしまうようなことは、絶対に避けたい。……どうか、私たちにその『盾』の作り方を教えてください」


彼らの真摯な言葉に、私の胸の奥が、じんわりと熱くなった。


世の中は、確かに変わったのだ。


かつては「不吉」と笑われ、誰も聞こうとしなかった最悪の事態への備え。

それが今、建国祭での大断罪や、私が担当したルカ様やリアナ様たちの幸せな姿を通じて、貴族たちの間に「契約書は縁を守る盾である」という認識として確実に広まっている。


彼らはもう、破談の話を「愛を疑うもの」だとは捉えていない。

愛しているからこそ、相手を傷つけないために、あえて怖い話に耳を傾けようとしてくれているのだ。


「……はい。かしこまりました」


私は、過去の呪縛が完全にふっと軽くなるのを感じながら、満面の笑みで頷いた。


「お二人のそのお覚悟があれば、どんな困難が訪れても、きっと大丈夫です。では、一つ一つの条項を、丁寧に確認していきましょう」


私が書類の第一ページを開こうとした、その時だった。


ふと、微かな気配を感じて視線を上げる。

私の背後にある、総裁執務室へと通じる重厚なオーク材のドア。そのドアがほんの数センチだけ開いており、隙間から、漆黒の軍服を纏ったノア様が静かにこちらを見つめていた。


ノア様の氷のように澄んだ瞳は、普段の冷徹な総裁としてのそれではなく、この上なく優しく、温かい光を湛えていた。

『今日も、立派に仕事をしているな』。

声には出さずとも、彼の眼差しがそう語りかけてくれているのが痛いほどに伝わってくる。


(ノア様……)


私が無理をして倒れないように、こうして隙あらば見守り、少しでも危険な客がいれば即座に飛び出してこられるように待機してくれているのだろう。

相変わらずの過保護っぷりに呆れつつも、その圧倒的な存在感が、私にどれほどの勇気と安心感を与えてくれているか知れない。


私は、彼にだけ見えるように小さく微笑み返し、小さく頷いた。

『大丈夫です。私、今とても幸せに働いていますから』と念を込めて。


ドアの向こうのノア様が、満足そうにフッと目を細め、静かに気配を消したのを感じる。


「レティシア所長?」

「あ、申し訳ありません。では、まず第九条の『協議解除条項』からお話ししますね。これは、お二人が万が一お別れすることになった際、名誉を傷つけず、円満に婚約を解消するための出口となる取り決めです――」


私は再び前を向き、目の前の若い二人のために、淀みなく説明を始めた。


前世で過労死し、現世でも不吉と呼ばれた私。

けれど今は、愛する人に守られながら、誰かの幸せを守るための仕事ができている。

この新しく設置された相談室には、今日もまた、自分たちの未来を真剣に守ろうとする誠実な人たちが訪れる。


世の中は少しずつ、だけれど確実に、優しく温かい方向へと変わり始めていた。

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