第35話 王弟殿下の独占は契約範囲内ですか
「レティシア様! 本日は殿下とお出かけですか? ご婚約、本当におめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます……!」
王都のメインストリート。
雲一つない青空が広がる休日の昼下がり、行き交う人々で賑わう大通りの真ん中で、私は顔を真っ赤にしながらペコペコと頭を下げていた。
ノア様との婚約式を無事に終え、私たちは今日、婚約後初めてとなる二人きりの街歩き――いわゆる、お忍びのデートに来ていた。
隣を歩くノア様は、普段の威圧感のある軍服や夜会服ではなく、仕立ての良いシンプルな濃紺のコートを羽織っている。
それでも、彼が生まれ持つ隠しきれない王族の気品と、彫刻のように整った冷徹な美貌は、すれ違う人々の視線を次々と釘付けにしていた。
そんな完璧な王弟殿下のエスコートを受けながら歩いているだけでも緊張で倒れそうなのに、私をさらに戸惑わせているのは、街の人々からの予期せぬ『声援』だった。
「所長! 先月はありがとうございました。冷却期間条項のおかげで、一度頭を冷やして、無事に仲直りできましたよ!」
「レティシア様! これ、うちの店で焼いた新作のクッキーです。お祝いに受け取ってください!」
建国祭での大断罪と、その後の婚約式での一件は、王都の新聞でも大々的に報じられた。
その結果、私が王立公証院の相談所長として行ってきた仕事が広く認知され、かつて私を「不吉な令嬢」と遠ざけていた街の空気は一変したのだ。
道を歩くたびに、以前相談に乗ったカップルや、新聞を読んで私の仕事を応援してくれている市民たちが、次々と笑顔で声をかけてくれる。
「おめでとうございます!」
「縁守り令嬢、万歳!」
「どうかお幸せに!」
温かい祝福の言葉と、手渡される小さな花束や焼き菓子の数々。
前世の法務部時代、どれだけ完璧な契約書を作って会社を守っても、誰一人として私に感謝の言葉を向けてくれることはなかった。
それなのに今、私はこんなにも大勢の人から、仕事の成果を認められ、祝福されている。
(嬉しい……。でも、まさかこんなに声をかけられるなんて……)
私は両手に抱えきれないほどの贈り物を受け取りながら、隣を歩くノア様を見上げた。
「も、申し訳ありません、ノア様。せっかく二人きりでお出かけに出たのに、立ち止まってばかりで……」
「……」
ノア様は、無表情のままスッと目を細めた。
怒っているのだろうか。王弟殿下という立場でありながら、私の立ち話に何度も付き合わされているのだから、無理もない。
「そろそろ、人混みを抜けよう」
ノア様はそう言うと、私の腰にそっと手を回し、周囲の喧騒から私を庇うようにして、大通りから一本外れた静かな並木道へと誘導してくれた。
そのまま歩き続け、人気の少ない公園のベンチに腰を下ろす。
噴水の水音が心地よく響く、静かで穏やかな空間だった。
「ふう……。皆様のお気持ちは本当にありがたいのですが、少し驚いてしまいました」
私が安堵の息を吐くと、ノア様が私の隣に座り、私の手から荷物をいくつか受け取ってくれた。
「君の仕事が正当に評価された結果だ。誇っていい」
「はい。……でも、ノア様には退屈な思いをさせてしまいましたよね」
「退屈はしていない。ただ……」
ノア様はそこで言葉を切ると、少しだけ不機嫌そうに、形の良い眉を寄せた。
「私の婚約者がこれほどまでに人気者だと、少し計算が狂うなと思っただけだ」
「えっ?」
「街に出れば、誰も彼もが君に笑顔を向け、君の時間を奪っていく。私だけを見てほしい日に、随分と多くの邪魔者が入ったものだ」
ノア様の氷のように澄んだ瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。
その底に揺らめいているのは、隠しきれないほどの独占欲と、ほんの少しの……嫉妬。
(ノア様が、妬いている……?)
いつも冷静沈着で、どんな事態にも動じないあのノア様が。
私と街の人たちが話していただけで、そんな風に拗ねたような感情を抱いていたなんて。
その事実が、私の心臓をドクンと大きく跳ねさせた。
照れくささと、なんだか彼がひどく愛おしく思える気持ちが混ざり合い、私はつい、前世の法務部時代に培った『理屈』で彼をからかってみたくなった。
「ふふっ……。ノア様、もしかして私のことを独り占めしたかったのですか?」
「そうだと言ったら?」
「それは困りますね。私たちが交わしたあの完璧な婚約契約書の中に、『乙を独占する権利』なんて条項は、どこにも記載されていませんでしたよ?」
私が悪戯っぽく微笑んでそう言うと、ノア様は一瞬だけ目を丸くし、それから低く、甘い声で喉の奥で笑った。
「……なるほど。確かに、あの契約書には独占欲についての記載が抜け落ちていたな」
ノア様はゆっくりと私に顔を近づけ、逃げ場を塞ぐように、ベンチの背もたれに腕を回した。
「なら、今すぐ『追加協議』を申し入れるとしよう」
「えっ? ついか……」
「あぁ。条項の不備は、当事者間の合意によって直ちに修正されなければならない。違うか、所長殿?」
ノア様はそう囁くと、黒革の手袋を外し、素手で私の右手をそっと取った。
そして、ただ手を握るだけではなく、私の指と彼の長い指を、一本一本深く絡め合わせるようにして――いわゆる『恋人繋ぎ』の形で、しっかりと握り込んだのだ。
「ひゃっ……!」
「君の時間を私だけのものにする権利。……これで、合意をもらえるか?」
指の隙間から伝わってくる、ひどく熱い体温。
肌と肌が密着し、お互いの脈打つ鼓動が直接伝わってくるような、甘くて、逃げられない絶対的な拘束。
(だめ、これ……頭が、真っ白に……っ)
ノア様にこんな風に甘く迫られると、私の脳内の処理能力は一瞬で限界を超えてしまう。
前世の論理も、公証院の規則も、すべてが熱で溶かされていくような感覚だった。
「の、ノア様……外、ですから……誰かに見られたら……」
「見られればいい。君が私のものだと、国中に知らしめる絶好の機会だ」
顔を真っ赤にして俯く私に、ノア様は容赦なく追撃をかけてくる。
「返事は? ……合意して、くれるな?」
耳元で甘く囁かれ、指先にキュッと力を込められる。
こんなの、ずるい。断れるはずがないじゃないか。
「……はい。合意、いたします……」
私が消え入りそうな声で頷くと、ノア様は満足そうに微笑み、絡めた手にそっと口づけを落とした。
「契約成立だ」
その後、私たちは絡めた指を一度も離すことなく、並木道をゆっくりと歩いて王宮へと戻った。
契約書は、私たちの人生を守るための冷たくて硬い盾だ。
けれど、ノア様が私に向けるこの大きくて熱い独占欲は、どんな契約書にも書ききれないほど、甘くて、私を芯から溶かしてしまうものだった。
すれ違う人々の視線が私たちの繋がれた手に集まるのを感じながら、私は恥ずかしさで俯きつつも、その温もりをぎゅっと握り返したのだった。




