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第34話 婚約式は破談条項から

「これより、我々の婚約契約書の読み合わせを行う。――第九条、破談条項からだ」


王宮の大広間。天井で輝く無数のシャンデリアの光の下、ノア様の低く通る声が響き渡った瞬間、祝賀ムードに包まれていた会場の空気がピタリと凍りついた。


数秒の空白の後、参列している貴族たちの間から、波のようなざわめきが巻き起こる。


「は、破談条項だと……? 婚約式のおめでたい席で、別れの話から始めるというのか?」

「いくらなんでも非常識すぎる。やはり、あの令嬢は『不吉』なのだわ」


扇の陰から向けられる、戸惑いと非難の視線。

前世からずっと、そして現世でも、私が何度も浴びてきたものだ。

空気を壊す、縁起でもない、和を乱す。そんな風に後ろ指を指され、私はいつも俯いて、ただ書類の山に逃げ込むしかなかった。


けれど今の私は、一人ではない。


「……恐れるな」


私の隣に立つノア様が、微かに私の腰に添えた手に力を込めた。


「君の正しさを、ここにいる全員に証明してやれ」


ノア様の氷のように澄んだ瞳には、私に対する絶対的な信頼が宿っていた。

私は大きく深呼吸をし、背筋を伸ばして、手元に用意した羊皮紙を開いた。


「『第九条、破談時の名誉保全。……万が一、本契約が解除に至った場合、理由の如何を問わずノアが全責任を負い、レティシアの名誉回復と独立に必要な慰謝料の支払いを無条件で保証する』」


私の声は、驚くほど澄んで、広間の隅々にまで真っ直ぐに届いた。

ひそひそと非難を囁いていた貴族たちが、その条文の内容を聞いて一様に目を丸くする。


「な、なんだあの条項は……王弟殿下の方から一方的に責任を被るというのか?」

「それに、女性側の独立を無条件で保証するなんて……」


ざわめきの質が、戸惑いから「驚愕」へと変わっていくのを感じながら、私は次々と読み合わせを進めた。


就業の自由。財産の独立。公式行事への同伴の拒否権。

そして、二十二時以降の書類仕事の禁止という、私のためだけの過保護なルール。

それは、貴族の婚姻につきまとう「家への従属」という鎖をすべて断ち切り、私という一人の人間を尊重し、守り抜くための完璧な盾だった。


やがて、広間は水を打ったように静まり返った。

誰もが、私とノア様の交わしている契約が、相手を縛り付けるものではなく、ただひたすらに相手を大切にするためのものであると悟ったのだ。


ふと視線を前に向けると、最前列には、私を信じてくれた人たちが並んでいた。


ルカ様とマリナ様。

リアナ様とユージーン様。

オスカー様とネル様。

そして、新しい道を踏み出したクラリス様。


彼らは皆、私の晴れ姿を、まるで自分のことのように誇らしげな、温かい微笑みを浮かべて見守ってくれていた。


「……以上で、全条項の読み合わせを終わります」


私が最後の条文を読み終え、ゆっくりと羊皮紙を閉じると、静寂に包まれた広間に向かって、私は一歩前に出た。


「皆様。婚約式の席で、破談の話など不吉だと思われたことでしょう」


私の声に、数人の貴族が気まずそうに目を伏せる。


「ですが、愛が永遠に続くことを祈るだけでは、守れないものがあります。万が一、二人の道が分かたれてしまった時。相手を傷つけず、尊厳を守り、きれいな形で手を離すという約束を事前に交わしておくこと。……破談の話は、決して相手を疑うものではありません。最悪の事態を想定し、それでもあなたを守りたいと願う、縁を大切にするための話なのです」


私は、かつて法務部で過労死し、現世でも不吉だと笑われ続けた自分自身を、ようやく心から肯定できた気がした。


「この契約書は、私の人生のすべてを懸けて作られた、愛を守る盾です。私は、この契約と共に、ノア殿下の妻となることを誇りに思います」


私が深く一礼すると、隣に立っていたノア様が、ゆっくりと私の前に進み出た。


そして、数百人の貴族が見つめる大舞台の真ん中で。

王弟殿下である彼は、私という一介の伯爵令嬢の前に、静かに跪いたのだ。


「えっ……ノア様……」

「レティシア」


ノア様は黒革の手袋を外し、素手で私の指先を優しく包み込んだ。


「君を縛る契約は作らない。君が安心して私の隣にいられる契約を作る」


彼が私にくれた、一番最初の約束の言葉。

それをもう一度口にしてから、彼は私の手の甲に、敬愛を込めた熱いキスを落とした。


「私は毎日、君に選ばれる努力をする。……君が明日も、十年後も、私と共に生きることを選んでくれるように、生涯をかけて君を愛し抜くと誓おう」


その低く甘い声は、私の心臓を激しく打ち鳴らし、視界を熱い涙で滲ませた。


「……はいっ。私も、毎日ノア様を選びます」


私が涙声で答えた、その瞬間。


パチ……パチパチパチッ!


最前列のクラリス様たちから始まった拍手が、瞬く間に広間全体へと広がっていった。

それは儀礼的なものではない、心の底からの称賛と祝福の嵐だった。


「素晴らしい……! なんという誠実な愛の形だ!」

「縁守り令嬢、万歳!」


割れんばかりの拍手と歓声が、私たちの頭上に降り注ぐ。

もう誰も、私を不吉だとは呼ばない。


「ノア様……っ」

「泣くな。今日は君が、世界で一番祝福されている日だ」


ノア様が立ち上がり、涙ぐむ私の肩を優しく抱き寄せる。

私は彼の温かい胸の中で、これまでの人生で感じたことのない、最高の幸福に包まれていたのだった。

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