第33話 不吉と呼ばれても、もう俯かない
「あのような地味で不吉な令嬢が、王弟殿下の妃だなんて……」
「ええ。しかも、婚約式の式次第に『破談条項の読み合わせ』を組み込んでいるとか。おめでたい席に、なんという非常識」
王宮の庭園。手入れの行き届いた生垣の向こうから、扇で口元を隠した貴族令嬢たちのひそひそ話が聞こえてきた。
数日後に控えた、ノア様と私の婚約式。
公証院の窓口で細々と働いていた伯爵令嬢が、王位継承権を返上し現在は王弟大公として王立公証院総裁を務めるノア・ヴァルトハイム殿下に見初められたという事実は、社交界に大きな波紋を呼んでいた。
ましてや、その婚約式の場で「契約書の公開読み合わせ」――それも、破談時の条件から読み始めるという前代未聞のプログラムが予定されているのだから、保守的な貴族たちが顔を顰めるのも無理はなかった。
(まあ、言いたい気持ちはわかるわ)
私は手に持っていた書類の束を抱え直し、小さく息を吐いた。
前世でも現世でも、私は「縁起でもない最悪の事態」を想定し、それを言葉にして口に出す仕事をしてきた。
だから、他人の目に自分がどう映るか、嫌というほど理解している。かつての私なら、こうした陰口を聞いても、波風を立てないよう黙ってその場を立ち去り、ただ仕事に打ち込むだけだっただろう。
けれど。
「あら、ごきげんよう」
私は生垣の角を曲がり、令嬢たちの前に堂々と姿を現した。
「ひっ……!」
「あ、アーヴィング令嬢……」
悪口の標的が突然現れ、令嬢たちは気まずそうに扇で顔を隠し、後ずさった。
私は彼女たちを責めるような鋭い視線は向けず、ただ穏やかに、けれど決して譲らない強い意思を込めて微笑んだ。
「おっしゃる通り、私は不吉な令嬢かもしれません。ですが、一つだけ訂正させてください」
私は、かつて幾度となく浴びせられた「不吉」という言葉の意味を、私自身の言葉で塗り替える。
「不吉なのは、別れる時に相手を傷つける前提で何も決めないことです」
令嬢たちが、ハッと息を呑んだ。
「愛が永遠に続くことを祈るのは素晴らしいことです。けれど、万が一その愛が壊れた時、相手の尊厳を踏みにじり、財産を奪い、名誉を傷つけ合うような別れ方しかできないのであれば……それは最初から、愛などではなかったのだと私は思います」
「そ、それは……」
「破談の話を恐れず、互いを守るための取り決めを交わせる。それこそが、最も誠実で、最も祝福されるべき愛の形だと、私は公証院の所長として、そして殿下の婚約者として信じております」
私の言葉に、令嬢たちは反論できず、完全に黙り込んだ。
「レティシア様の仰る通りですわ」
その時、背後から明るく凛とした声が響いた。
振り返ると、そこにはマリナ様とルカ様、リアナ様とユージーン様、そしてネル様とオスカー様の姿があった。
「私たちも、レティシア様に『破談の話』をしていただいたからこそ、お互いの本音を知り、強い絆で結ばれました」
マリナ様が、力強く頷く。
リアナ様もユージーン様の腕に寄り添いながら、令嬢たちをスッと見据えた。
「見ないふりをして蓋をした不安は、いつか必ず爆発します。最悪の事態を想定して、それでも一緒にいたいと思えるお二人だからこそ、レティシア様と殿下の婚約は素晴らしいのです」
私を支持し、私の仕事を誰よりも理解してくれている彼らの言葉に、胸の奥が熱くなる。
保守派の令嬢たちは、彼らの堂々たる態度と反論に完全に気圧され、「し、失礼いたします……」とそそくさとその場から逃げ去っていった。
「皆様……ありがとうございます」
私が深く頭を下げると、ルカ様が「頭を上げてください、所長殿」と快活に笑った。
「我々は事実を言ったまでです。それに、レティシア様の婚約式ですぞ。我々『第一婚前契約相談室・卒業生』一同、全力でお祝いに駆けつけるに決まっているじゃないですか」
「皆さん……」
「式当日は、我々が一番前の席で拍手をお送りしますからね!」
彼らの温かい言葉と笑顔に、私は泣きそうになるのを必死に堪え、「はい、お待ちしております」と笑顔で返した。
「……随分と頼もしい味方が増えたな」
彼らを見送った後、背後から低く、聞き慣れた声が掛かった。
振り返らなくてもわかる。私の愛してやまない、そして私をこの上なく甘やかしてくれる人だ。
「ノア様」
「あぁ」
ノア様は私の隣に並ぶと、令嬢たちが逃げていった方向を冷ややかに一瞥し、それから私を見てふっと表情を和らげた。
「昔の君なら、今の陰口も一人で抱え込んで、黙って耐えていただろう」
「……そうですね。波風を立てるのが怖かったですし、私の仕事は嫌われて当然だと思っていましたから」
「だが今は違う。君は堂々と自分の信念を語り、あの保守派どもを黙らせた。……君はもう、自分のための『契約書』も、きちんと読めるようになったのだな」
ノア様の大きな手が、私の頭をぽんと優しく撫でる。
その言葉の意味を理解して、私は照れくささと嬉しさで胸がいっぱいになった。
前世からずっと、私は他人のリスクを指摘し、他人のために盾を作るだけの存在だった。
自分の幸せを願うことも、自分を守るための条件を口にすることも、許されないと思っていた。
けれどノア様が、私に私だけの『求婚契約書』を与えてくれた。
私が安心して生きられるように。私が私らしくいられるように。
「はい。ノア様が作ってくださった契約書のおかげで、私はもう、何も怖くありません」
私は彼の目を見て、はっきりと笑った。
「どんな不吉な言葉を投げかけられても、この盾があれば跳ね返せます」
「そうか。……なら、もっと分厚い盾にしてやろう」
ノア様は悪戯っぽく笑うと、周囲に人がいないことを確認し、私の腰をグッと引き寄せて、額に軽くキスを落とした。
「式での読み合わせ、楽しみにしている。私の愛の重さを、国中の貴族に思い知らせてやろう」
「ふふっ。殿下のリスクが大きすぎる、不平等な契約だと呆れられるかもしれませんよ?」
「構わん。君を独占できるなら、どんな不平等条約でも喜んでサインするさ」
甘い囁きに、私は幸せなため息をついた。
あの時、私を『不吉』と呼んだ人たちは、もう去っていった。けれど、たとえまた同じ言葉を投げられても、私はもう俯かない。
これからは、二人で一緒に『最悪の話』から始まる、最高の幸せを紡いでいくのだ。




