第32話 読み合わせの誓い
「『第九条、破談時の名誉保全……。万が一、本契約が解除に至った場合、理由の如何を問わず甲が全責任を負い、乙の名誉回復と独立に必要な慰謝料の支払いを無条件で保証する』」
深夜の第一婚前契約相談室。
静寂の中、私が読み上げる契約書の条文だけが、静かに、そして確かに響いていた。
普通の貴族であれば、婚約の場で破談の話をするなど「縁起でもない」と激怒するだろう。
けれど、ノア様は私の正面に座り、まるで国家の重要法案を聞くような真剣な眼差しで、私の言葉の一つ一つに深く頷いている。
「……本当に、よろしいのですか」
私は一度書類から顔を上げ、彼の氷のように澄んだ瞳を見つめた。
「理由の如何を問わず、ということは、仮に私が一方的に心変わりをして婚約を破棄したいと申し出たとしても、ノア様が世間的な責任をすべて被るということですよ? 王弟殿下の経歴に、いらぬ傷がつくかもしれません」
「構わない」
ノア様は、一切の躊躇いなく即答した。
「君が私から離れたいと願ったのなら、それは私が君を不快にさせ、安心させられなかった結果だ。責任を負うのは当然だろう」
「ですが……」
「それに、そんな事態には絶対にさせない。私は君を手放すつもりなど、微塵もないからな」
揺るぎない自信と、私に対する重い執着。
彼がこの条項を入れたのは、別れることを前提としているからではない。
私がいつでも逃げられる『出口』を明確に用意することで、私から一切の不安を取り除こうとしているのだ。
彼の誠実さに胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、私は次の条項に目を落とした。
「『第一条、就業の自由。婚姻後も、乙が王立婚前契約相談所長としての職務を継続する権利を完全に保障する』。……『第二条、財産の独立。乙の特有財産および将来得る報酬は甲の財産と完全に分離し、乙の自由な管理を認める』」
読み進めるたびに、驚きと温かい感情が押し寄せてくる。
私が大切にしている仕事。私が自立して生きるための財産。
それらを奪わず、家という枠に閉じ込めることなく、一個人としての私を徹底的に尊重する内容だった。
「『第十条、就業保護。同居後も、二十二時以降の書類仕事の持ち込みを固く禁ずる』」
そこまで読んだところで、私は思わず苦笑してしまった。
「この条項だけは、本当に私を縛るためのものですね」
「当然だ。君は放っておけば限界まで働こうとする。健康管理だけは、総裁として、そして夫となる者として、絶対に譲れない」
ノア様も微かに口角を上げ、柔らかく微笑んだ。
(ああ……なんて、不思議な感覚だろう)
前世の私にとって、契約書を読むことは常に恐怖と隣り合わせだった。
小さな見落としが会社に莫大な損害を与え、その責任すべてが自分の肩に重くのしかかってくる。
文字の羅列は、私を追い詰め、縛り付ける冷たい鎖でしかなかった。
現世で公証院の仕事に就いてからも、契約書は『最悪の事態を防ぐための武器』として扱ってきた。
誰かの悪意や理不尽から身を守るための、冷たくて硬い盾。
けれど今、私の手の中にあるこの契約書は、まったく違う。
恐ろしくなくて、痛くもなくて、ただひどく温かい。
条文を一条読み合わせるごとに、ノア様がどれほど私を大切に思い、私の尊厳を守ろうとしてくれているのかが、痛いほどに伝わってくるのだ。
「……以上で、全条項の読み合わせを終わります。修正点や、疑義はございませんか」
少しだけ潤んでしまった声を誤魔化しながら、私は書類を机に置いた。
「ない。君の厳しい審査を通過した、完璧な契約書だ」
ノア様はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、私の前に跪いた。
「えっ……ノ、ノア様!?」
王弟殿下が、一介の伯爵令嬢の前に膝をつくなど、あってはならないことだ。
私が慌てて立ち上がろうとすると、ノア様は私の右手をそっと取り、その動きを制した。
彼は黒革の手袋を外し、素手で私の指先を優しく包み込む。
ひどく温かい体温が、肌越しにじんわりと伝わってくる。
「この契約書には、君を強制的に私に縛り付ける効力は一つもない。君はいつでも、自分の意思で私を捨てて、自由に羽ばたくことができる」
ノア様は、私を見上げるようにして、静かに、けれど熱烈に囁いた。
「君を力で縛れない以上……私は毎日、君に選ばれる努力をする」
「ノア様……」
「君が明日も、明後日も、十年後も。ずっと私の隣にいたいと思えるように、私は君に誠意を尽くし、愛し続けると誓おう」
そして彼は、ひどく恭しく、私の手の甲に熱い口づけを落とした。
リップ音とともに、手の甲から伝わる熱が、一気に全身を駆け巡る。
心臓が破裂しそうなほど脈打ち、視界が涙でぐにゃりと歪んだ。
「……ずるいです」
私は、震える声で零した。
「そんな風に大切にされて……こんなに甘やかされてしまったら、もう、絶対に離れられなくなってしまいます」
「あぁ。そうなるように仕向けているからな」
ノア様はふっと甘く笑うと、立ち上がり、私をその腕の中へ優しく引き寄せた。
「レティシア。私と共に生きてくれるか」
その問いに、もう迷いは一切なかった。
前世のトラウマも、不吉な令嬢と呼ばれた孤独も、彼が作ってくれたこの温かい契約書が、すべて浄化してくれたのだ。
「はい。……毎日、私もノア様を選びます」
私は彼の広い背中に腕を回し、顔を胸に埋めながら、はっきりと告げた。
「喜んで、この求婚をお受けいたします」
深夜の相談室。
二人の間に交わされたのは、決して壊れることのない、世界で一番甘くて確かな誓いだった。




