第31話 求婚契約書
「これは……殿下と、私の……?」
震える手で受け取った羊皮紙の表題には、美しい金糸の装飾と共に『婚約契約書』と記されていた。
深夜の第一婚前契約相談室。ランプの仄かな灯りの中、ノア・ヴァルトハイム王弟殿下から差し出されたそれは、紛れもなく私への求婚だった。
普通、貴族の求婚といえば、大粒のダイヤモンドが輝く指輪や、色とりどりの宝石が詰まった箱を差し出すのが常識だ。
しかし、目の前の冷徹で美しき王弟殿下は、宝石箱の代わりに、完璧に製本された契約書を私のデスクにそっと置いた。
そしてそれは、元法務部であり、婚約契約説明係である私にとって、世界中のどんな宝石よりも誠実で、価値のある贈り物だった。
「中を、読んでもよろしいでしょうか」
「あぁ。君の厳しい目で、隅々まで審査してほしい」
ノアが深く頷くのを確認し、私はペーパーナイフで封を切った。
一枚目をめくり、その内容に目を通した瞬間、私は思わず息を呑んだ。
『第一条・就業の自由:婚姻後も、乙が王立婚前契約相談所長としての職務を継続する権利を完全に保障する』
『第二条・財産の独立:乙の特有財産および将来得る報酬は甲の財産と完全に分離し、乙の自由な管理を認める』
『第三条・同伴の拒否権:甲の出席する夜会などの公式行事について、乙は自身の体調や意思により、これを自由に拒否する権利を有する』
(な、何これ……?)
ページを捲る手が止まらない。
そこに記されていたのは、一般的な貴族の婚約において女性側が強いられる「家への従属」や「自由の制限」を、すべて覆すような条項ばかりだった。
さらに、最も重要な条項に差し掛かり、私は目を丸くした。
『第九条・破談時の名誉保全:万が一、本契約が解除に至った場合、理由の如何を問わず甲が全責任を負い、乙の名誉回復と独立に必要な慰謝料の支払いを無条件で保証する』
『第十条・就業保護:同居後も、二十二時以降の書類仕事の持ち込みを固く禁ずる』
最後まで目を通し終えた私は、バインダーを閉じ、信じられないものを見る目でノアを見上げた。
「殿下……これは、おかしいです」
「どこか、君の意に沿わない条項があったか?」
「逆です。私に有利すぎます。私を縛る条項が何一つありません!」
私は法務部の本能を刺激され、思わず声を荒げてしまった。
「結婚後も自由に働け、財産も奪われず、嫌な夜会は断れて、もし別れることになっても慰謝料が保証される……これでは、殿下にとってリスクしかありません。契約として、あまりにも不平等です!」
普通の貴族なら、妻を家に縛り付け、その財産も実家との繋がりもすべて自分の管理下に置こうとする。
それなのに、この契約書には、私から自由を奪う鎖が一つも用意されていなかったのだ。
私の抗議を受け、ノアは静かに、けれどどこまでも熱を帯びた瞳で私を見つめ返した。
「君を縛る契約は作らない。君が安心して私の隣にいられる契約を作る」
その低く甘い声が、夜の相談室に響き渡る。
「私の隣は、王弟の妻という重責が伴う。だからこそ、君を無理に縛り付けたくはない。仕事でも、夜会でも、嫌な時は嫌だと、君に安心して断れる自由があってこそ、私は君に隣にいてほしいのだ」
「殿下……」
「それに、破談の責任を私が負うのは当然だ。私が君を手放すことなど、天地がひっくり返ってもあり得ないのだからな」
断言するノアの言葉に、私は胸の奥がきゅうっと締め付けられるのを感じた。
前世では、会社のためにどれだけ尽くしても、誰も私を守ってくれなかった。
トラブルが起きれば『お前の確認不足だ』と責任を押し付けられ、使い捨ての駒として過労死した。
だから私は、契約という盾で自分や他人を守るしかなかった。言葉だけの愛情や約束なんて、信じるのが怖かったから。
けれど、目の前にいるこの人は違う。
私の恐れていること、私の大切にしているものをすべて理解した上で、私が一番安心できる『契約』という形で、永遠の愛を誓おうとしてくれている。
「……っ」
視界が歪み、ぽろポロと大粒の涙が頬を伝って落ちた。
「レティシア……」
「申し訳、ありません。私、こんなに……こんなに私を大切にしてくれる契約書、見たことがなくて……」
涙を拭おうとする私の手に、黒革の手袋を外したノアの大きな手がそっと重なった。
彼の指先が、私の濡れた頬を優しく撫でる。
「レティシア。……抱きしめてもいいか?」
その言葉に、私はハッとして彼を見た。
彼は王弟という絶対的な権力を持っている。力ずくで私を抱き寄せることなど、造作もないはずだ。
それなのに彼は、私の意思を尊重し、まるで契約の同意を得るかのように、真っ直ぐに私の目を見て『許可』を求めてくれたのだ。
(どこまで、誠実な人なんだろう……)
「……はいっ」
私が涙声で頷いた瞬間、ノアの長い腕が私の背中と腰に回り、その広く温かい胸の中に、私をすっぽりと閉じ込めた。
「っ……殿下」
「もう、総裁や殿下と呼ぶ必要はない。……ノアと呼んでくれ」
耳元で囁かれる震えるような低い声と、私を絶対に手放さないと告げるような力強い抱擁。
初めて触れた彼の体温はひどく温かく、彼の纏う落ち着いた香水と夜の冷気が混ざった香りが、私の頭をくらくらとさせた。
前世のトラウマも、不吉な令嬢と呼ばれた孤独も、ノアのこの腕の中ではすべてが遠い過去の幻のように溶けていく。
「……ノア、様」
「あぁ。……愛している、レティシア」
どれくらい、そうしていただろうか。
ノアの心音を聞きながら、私は今世で初めて、心からの絶対的な安心感と幸福に包まれていた。
やがて、ノアが少しだけ腕の力を緩め、私と額を合わせた。
「……では、返事を聞かせてもらおうか」
「はい。ですが……」
私は照れ隠しに小さく笑い、ノアの胸を軽く押し返して、デスクの上に広げられたままの羊皮紙に目を向けた。
「私、公証院の相談所長ですので。どんなに条件が良くても、しっかりと一条ずつ『読み合わせ』をしなければ、サインはできません」
「……ふっ、君らしいな」
ノアは可笑しそうに吹き出すと、私の隣に椅子を引き、肩が触れ合うほどの距離で並んで座った。
「もちろんだ。朝までかかろうと、君が納得するまで付き合おう」
「朝までかかったら、第十条の『二十二時以降の書類仕事禁止』に違反してしまいますよ?」
「それは困ったな。ならば、総裁権限で今夜だけは特別に許可を下そう」
冗談を言い合いながら、私たちは契約書に手を伸ばした。
二人の未来を縛る鎖ではなく、二人の愛を守るための、優しくて温かい盾。
「では、破談条項から読み合わせをお願いいたします」
「あぁ。望む通りに」
深夜の公証院。
私たちは肩を寄せ合いながら、世界で一番甘く、そして誠実な契約書の読み合わせを始めた。




