第30話 王弟殿下は甘やかし条項を追加したい
「……次は、私個人の契約書を読んでほしい」
深夜の第一婚前契約相談室。
静まり返った部屋に、ノア・ヴァルトハイムの恐ろしく甘く、熱を帯びた声が響いた。
レティシア・アーヴィングは、先ほど彼が提示してきた『就業保護規程』によって強制的に休息を命じられたばかりだった。
過労死のトラウマから自分を救い出してくれたその公的な書類の横に、今度は美しく装飾された私的な羊皮紙が並べられたのだ。
「で、殿下……個人の契約書、とは……?」
レティシアの声は、かすかに震えていた。
前世で散々見てきたビジネスの契約書とは違う。これは明らかに、個人の人生と感情に深く踏み込むためのものだ。
目の前に座るノアの氷のような瞳は、普段の冷徹な総裁としてのそれではなく、一人の男としての強烈な執着と愛情を隠そうともしていなかった。
「その前に、一つ確認だ。レティシア」
ノアは羊皮紙に手を置いたまま、レティシアの目を真っ直ぐに見据えた。
「先ほどの『就業保護規程』だが、君はあれで納得しているか?」
「は、はい。週一回の休暇も、二十二時以降の書類業務禁止も、私にとっては……その、もったいないくらい、ありがたい規程です」
「そうか。では、私から追加の条項を一つ提案したい」
ノアは微かに口角を上げると、極めて真面目な声で、とんでもないことを言い出した。
「疲労時の強制休憩に加えて、『所長が不安や孤独を感じた際は、総裁が直ちに精神的保護(抱擁、またはそれに準ずる行為)を提供する』という条項を加えたいのだが。どうだろうか」
「……はい?」
レティシアは、自分の耳を疑った。
あまりにも堂々と、かつ事務的なトーンで告げられたその内容は、完全に「甘やかし」を通り越して「公私混同」の極みだったからだ。
「で、殿下! いくらなんでも、それは規程としておかしいです! 私に有利すぎますし、何より殿下のご負担が……っ」
「有利すぎることはない。私にも明確な利益がある」
ノアは事も無げに断言した。
「君が健やかでいること。君が安心して私の隣で笑っていること。それが、私にとっての最大の利益だ。君に触れ、君を守ることが私の負担になるはずがないだろう」
「っ……!!」
あまりにもストレートな愛情表現に、レティシアの顔は瞬く間に林檎のように真っ赤に染まった。
第十六話あたりからうすうす感じていた「これは本当に業務命令なのだろうか」という疑念は、もはや完全に吹き飛んでいた。
これは業務命令などではない。王弟殿下ノア・ヴァルトハイムという一人の男性からの、明確な愛の言葉だ。
「……ずるいです、殿下」
レティシアは、熱くなった頬を両手で覆いながら、うつむき加減で抗議した。
「そんな風に言われたら……私が、どれだけ図に乗ってしまうか……」
「存分に図に乗ればいい。私は君を甘やかすために、この公証院の総裁という権力を使っているのだから」
(公言してしまったわ、この人……!)
前世でコンプライアンスを遵守し続けてきたレティシアの常識が、ノアの圧倒的な溺愛の前に音を立てて崩れ去っていく。
しかし、その崩壊は決して不快なものではなく、むしろ心の奥底から温かい幸福感が込み上げてくるような、くすぐったい感覚だった。
「さて。労働環境と、精神的保護の同意は得られたな」
ノアは満足げに頷くと、いよいよ本題とばかりに、金糸の装飾が施された羊皮紙をレティシアの目の前へと押し出した。
「では次に、こちらの『婚約契約書』を読んでほしい」
「っ……!」
その言葉が出た瞬間、レティシアの鼓動が再び大きく跳ねた。
婚約契約書。それは、レティシアが毎日、数え切れないほどのカップルに向けて説明し続けてきたものだ。
けれど、自分がその「当事者」として、しかも王弟殿下から提示される日が来るなど、想像もしていなかった。
「これは……殿下と、私の……?」
「あぁ。私が、君の隣に立ち続けるために作ったものだ」
ノアの瞳が、いつになく真剣な光を帯びている。
彼は、レティシアが契約というものをどれほど重く、そして神聖なものとして扱っているかを誰よりも理解している。だからこそ、ただ甘い言葉を囁くだけではなく、彼女が最も信頼する「契約書」という形で、自身の覚悟を示そうとしているのだ。
「レティシア。君はいつも、相談者に対して『破談条項から説明します』と言っているな」
ノアは、羊皮紙の一枚目をめくりながら言った。
「私の作ったこの契約書も、まずはそこから君の厳しい目で審査してほしい。……私と君が、もし別れることになった時の手順から」
それは、かつてレティシアを「不吉だ」と嘲笑った者たちとは対極の、彼女の仕事に対する最大級の敬意と理解だった。
レティシアはゆっくりと顔を上げ、ノアの真摯な瞳を見つめ返した。
彼女の目はもう、過労に怯える事務官のものではない。愛する人の覚悟に真っ向から応えようとする、一人の気高い令嬢の目に変わっていた。
「……はい、喜んで。殿下の作成された契約書、私が誰よりも厳しく審査させていただきます」
深夜の相談室。
二人の未来を結ぶ、最も甘く、そして最も誠実な契約の読み合わせが、いま始まろうとしていた。




