第29話 他人を守る契約、自分を守らないあなた
「――なぜ、まだこんな時間までランプが点いているのだ?」
ノア・ヴァルトハイムの冷たく、静かな怒りを孕んだ声が室内に響いた。
その声にハッとして振り返ろうとした瞬間、レティシア・アーヴィングの視界が、ぐにゃりと大きく歪んだ。
「あ……」
立ち上がろうとした足から力が抜け、膝が崩れる。
連日の激務。極度の緊張状態だった大舞台からの解放。そして、深夜の孤独な残業。
限界を超えていた身体が、主人の意思を無視してついに悲鳴を上げたのだ。
床へと倒れ込む刹那、レティシアの脳裏に、ひどく冷たくて暗い、あの前世の最期の記憶がフラッシュバックした。
『休めば、お前の居場所はなくなるぞ』
『法務の責任だろう。明日までに全部チェックしておけ』
誰にも助けてもらえない、深夜のオフィス。
鳴り響く時計の秒針の音。息苦しさ。急に胸を締め付けた激痛。
冷たい床に倒れ伏し、薄れゆく意識の中で『どうして私だけが』と絶望しながら死んでいった、あの日の感覚。
(また……私は、独りで倒れて……)
冷たい床に打ち付けられる。そう覚悟して、レティシアは強く目を閉じた。
しかし、彼女の身体を打ち付けたのは、冷たい床ではなかった。
ガシッ、という力強い衣擦れの音と共に、レティシアの身体は、分厚く温かい胸板の中にすっぽりと抱き留められていた。
「レティシア!!」
耳元で、切羽詰まった声が響く。
恐る恐る目を開けると、そこには、いつもの冷徹な仮面を完全に剥ぎ取られ、焦燥に顔を歪めたノアがいた。
彼は床に片膝をつき、倒れ込んだレティシアの細い身体を、自身の腕の中にきつく抱き抱えていた。
「で、殿下……? 私……」
「喋るな。息を整えろ」
ノアの手が、レティシアの背中をさする。
前世で感じた孤独な冷たさはどこにもない。ノアの体温と、微かに震える彼の腕の力が、レティシアを過去の呪縛から現世へと強く引き戻していた。
「……申し訳、ありません。急に、目眩が……でも、まだ書類が残って――」
レティシアが朦朧とする頭で、机の上の書類に手を伸ばそうとした時だ。
「いい加減にしろ!!」
ノアの激しい怒鳴り声が、静かな室内に轟いた。
ビクッと肩を跳ねさせたレティシアから、ノアは強引に羽ペンを取り上げ、机の上の書類を乱暴に横へ追いやった。
「君は、他人を守る契約は作れるのに、自分を守る契約は作らないのか」
ノアの氷のような瞳が、怒りと、それ以上の深い悲痛を湛えてレティシアを射抜いていた。
「他人の不幸にはあんなにも敏感に気づき、盾を用意するくせに! なぜ自分のこととなると、倒れるまで自分を追い詰める! 君が壊れてしまったら、君に救われた者たちが……私が、どれほど絶望するか、分からないのか!」
レティシアは、息を呑んだ。
反論できなかった。
(そうよ……私は、ただ『必要とされること』に依存して、自分の限界から目を背けていただけだわ……)
前世で誰にも認められなかったトラウマ。だからこそ、求められれば倒れるまで応えようとしてしまう。
それは立派な責任感などではなく、ただの自己犠牲という名の呪いだった。
「……申し訳、ありません……っ」
ノアの腕の中で、レティシアの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ノアは小さく息を吐き出すと、レティシアを抱きしめていた腕の力を少しだけ緩め、自身の大きな手で彼女の涙を乱暴に、けれど優しく拭った。
「謝罪は聞きたくない。君に必要なのは、反省ではなく『保護』だ」
ノアはそう言うと、自らの懐から、三つ折りになった数枚の羊皮紙を取り出し、レティシアの目の前に広げた。
そこには、王立公証院の総裁印が既に押されている。
「これは……?」
「『第一婚前契約相談所長・就業保護規程』だ」
ノアが読み上げるその内容に、レティシアは目を丸くした。
一、所長は週に一回、完全な休日を取得すること。
一、所長は毎日十分な食事と休息の時間を確保すること。
一、所長の執務は原則として定時までとし、いかなる理由があろうとも二十二時以降の書類業務を固く禁ずる。
一、所長が疲労していると判断された場合、総裁権限において強制的な休憩を命じる。
一、緊急時の決裁権は、すべて総裁であるノア・ヴァルトハイムが代理執行する。
「これは……私のための、規程ですか?」
「当然だ」
戸惑うレティシアに、ノアは間髪入れずに断言した。
「君が自分の身を守れないというのなら、私が規程を作って君を縛る。君の健康と安全を最優先とする、君のためだけの絶対の契約だ」
そこには、有無を言わせぬ王弟殿下としての威厳と、レティシアという一人の女性を何としても守り抜くという、執念にも似た愛情が込められていた。
前世で、法務部の自分を書類の山から助け出してくれる人は誰もいなかった。
けれど今、目の前にいるこの人は、自らの権力を使って、レティシアの自己犠牲の呪いを断ち切り、彼女を休ませるための完璧な盾を作ってくれたのだ。
「殿下……」
涙でぼやける視界の中、ノアの不器用で、ひどく過保護な優しさが胸に染み渡る。
「君に、この規程を拒否する権利はない。……分かったな?」
「……はい。従い、ます」
レティシアが泣き笑いのような表情で頷くと、ノアは心底ホッとしたように息をつき、もう一度、彼女の頭をポンと撫でた。
「よろしい。これで、君の労働環境の問題は解決した」
ノアはレティシアをゆっくりとソファに座り直させると、就業保護規程の書類を横に置き、今度は自らの上着の内ポケットから、全く別の、真新しい羊皮紙の束を取り出した。
先ほどの公的な書式とは違う。
最高級の紙に、美しい金糸の装飾が施された、極めて私的な書面だった。
「では、労働環境が整ったところで。……次は、私個人の契約書を読んでほしい」
「……え?」
ノアの瞳が、静かな、けれど逃げ場のない熱を帯びてレティシアを見つめる。
深夜の相談室。二人きりの空間に、先ほどまでの張り詰めた空気とは全く違う、甘く濃密な気配が満ち始めていた。




