第28話 不吉な令嬢から縁守り令嬢へ
「レティシア様! どうか、どうか我が愚息の婚約契約も、あなたの手で確認していただけないでしょうか!」
「順番を守れ! 私の方が先に並んでいたのだぞ!」
王立公証院の廊下に、悲痛とも言える切実な声と、貴族たちの言い争う声が響き渡っていた。
かつては閑古鳥が鳴き、訪れる者といえば渋々やって来るカップルばかりだった『第一婚前契約相談室』の前に、今は身なりの良い貴族たちがズラリと長蛇の列を作っている。
「申し訳ありません、本日の予約枠はすでに……」
「ならば明日! いや、一ヶ月後でも、半年後でも構いません! どうか、我が家の縁を強固なものにする『盾』をお授けください!」
彼らの手には、一様に今朝発行された王都の大手新聞が握られていた。
一面を飾っているのは、先日の建国祭での大断罪劇の顛末と、王太子側の不正を見事に暴いた公証院の華々しい活躍だ。
そして、その記事の最後には、このような見出しが踊っていた。
『契約書は愛を疑うものではない。不吉と呼ばれた令嬢は、真実の愛を守る“縁守り令嬢”であった』――と。
(え、縁守り令嬢……っ。いくらなんでも、大袈裟すぎないかしら)
レティシア・アーヴィングは、新聞の文字が目に入るたびに、顔から火が出そうになるのを必死に堪えていた。
つい数日前まで「破談屋」「不吉な令嬢」と鼻で笑い、避けていた者たちが、今度は手のひらを返したように彼女を神聖視し、こぞって契約の相談を求めてきているのだ。
建国祭での一件を受け、王宮の上層部は直ちに動いた。
婚前契約における事前の説明とリスク確認の重要性が国として正式に認められ、試験運用だった窓口は、王立公証院の常設部署として正式に制度化されたのである。
そしてレティシアは、ノアの強い推薦により、その正式な『相談所長』に任命されることとなった。
「……ええと、では、最短で来月の上旬に枠をお取りしますね。それまでに、お互いの希望条件や、将来の生活設計などを洗い出しておいてください」
「おお、ありがとうございます! さすがは縁守り令嬢様だ!」
感謝の言葉と崇拝の眼差しをシャワーのように浴びながら、レティシアは休む間もなく面談と書類作成をこなしていく。
前世では、どれだけ完璧な契約書を作ってリスクを未然に防いでも、誰からも感謝されることなど一度もなかった。
だからこそ、「自分の仕事が正当に評価され、人から頼られている」という今の状況が、レティシアにとっては麻薬のように嬉しかったのだ。
(皆さんが、契約の大切さを理解してくださっている。私が頑張れば、もっとたくさんの人が悲しい思いをせずに済むわ!)
その純粋な使命感が、結果として、レティシアの前世から骨の髄まで染み付いた『社畜精神』に火をつけてしまった。
「所長、こちらの持参金に関する特約案ですが、いかがいたしましょうか……」
「あ、私がすべて確認します! それと、明日の面談用の資料も、今夜中に私が個別のフォーマットを整えておきますね」
「しかし、レティシア様。それではお昼の休憩を取るお時間が……」
「大丈夫です! 書類を読みながらでもパンは齧れますから!」
レティシアは完全に仕事の波に呑まれ、嬉々として自分のキャパシティを超えようとしていた。
そんな彼女の異常な働きぶりに、もちろんあの男が黙っているはずはなかった。
「……随分と楽しそうに自らをすり減らしているな、レティシア」
お昼過ぎ。当然のように執務室に現れた王弟殿下ノア・ヴァルトハイムは、山積みの書類に埋もれるレティシアを見て、氷のように冷たく、けれど深い憂いを帯びた瞳でため息をついた。
「で、殿下。あの、これは……」
「ただちに、この書類の山を他の者に振り分けろ。……入れ」
ノアが指を鳴らすと、扉の外から十数名の男女がぞろぞろと入室してきた。
いずれも、公証院の他部署から引き抜かれた優秀な補佐官と、事務処理能力に長けたベテランの事務員たちだった。
「彼らを君の直属の部下として配置する。窓口の一次対応や定型書類の作成はすべて彼らに任せ、君は最終的な決裁と、特例の判断のみに集中しろ。所長自らが手を動かしてすべてを抱え込むことは、総裁として許可しない」
ノアは圧倒的な権力と財力をもって、レティシアの労働環境を強制的に、かつ劇的に改善させたのだ。
「こんなに優秀な方々を……。ありがとうございます、殿下!」
「感謝はいい。君はとにかく、無理をしないことだ。……いいな?」
念を押すように低く甘く囁き、レティシアの頭をぽん、と優しく撫でてから、ノアは自室へと戻っていった。
これで、レティシアの負担は大幅に減るはずだった。
――しかし。
夜の二十二時。
王立公証院の執務室のほとんどが消灯し、静けさに包まれる中、第一婚前契約相談所の奥の部屋だけは、まだ煌々とランプの灯りが点いていた。
「……よし、この冷却期間条項の文面は、これでもう少し分かりやすく書き直して……と」
誰もいない部屋で、レティシアは一人、机に向かってカリカリと羽ペンを走らせていた。
ノアが手配してくれた特注の革椅子に深く腰掛けながらも、彼女の目は書類から全く離れない。
優秀な部下たちが日中の業務をこなしてくれたおかげで、通常の処理は滞りなく終わっていた。
しかし、レティシアはどうしても「明日の分」「明後日の分」、さらには「来月の面談予定者の事前調査」と、未来の仕事を前倒しで片付けようとしてしまうのだ。
(だって、皆さんが私を頼ってくれているのだから。完璧な状態で応えなければ……)
前世のトラウマが、暗闇の中で彼女の耳元に囁きかける。
『休めば、お前の居場所はなくなるぞ』
『期待されているうちが華だ。倒れるまで働け』と。
レティシアは微かな頭痛と、目の奥の重さを感じながらも、それを無視して再びインク壺にペンを浸した。
その時だった。
「――なぜ、まだこんな時間までランプが点いているのだ?」
カチャリ、と。
静かに扉が開く音と共に、恐ろしく低く、冷気を帯びた声が室内に響いた。
「えっ……?」
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ったレティシアの視界に映ったのは、夜の闇のような漆黒のコートを羽織り、帰宅する道すがらであったはずのノアの姿だった。
彼の氷のような瞳が、机の上に広げられた膨大な書類の山と、目の下に隈を浮かべたレティシアの青白い顔を、静かに、そして鋭く捉えていた。




