第27話 クラリスは自分の条件を持つ
「ようやく、私は本当の意味で自由になれましたわ」
王立公証院の第一婚前契約相談室。
窓から差し込む柔らかな午後の日差しの中、ソファに腰を下ろした公爵令嬢クラリスは、憑き物が落ちたような、どこまでも晴れやかな笑顔を浮かべていた。
建国祭での大断罪から数日。
国王の宣言通り、エドガーとクラリスの婚約は王家主導によって正式に解除された。解除の理由はエドガーの背信行為によるものとされ、クラリスには一切の非がないことを証明する『名誉回復公告』が国中に布告されたのだ。
「本当にお疲れ様でした、クラリス様。これで心置きなく、次の一歩を踏み出せますね」
レティシア・アーヴィングが温かい紅茶を差し出しながら微笑むと、クラリスは優雅な所作でカップを受け取った。
「ええ。お父様はすぐにでも次の縁談をと息巻いておりましたが、お断りしましたの」
「お断りしたのですか?」
「はい。私はすぐには次の結婚を選びません。公爵令嬢として、そして次期王妃として受けてきた厳しい教育を無駄にする気はありませんから。これからは、外務省の外交補佐として、国のために働くことを選びました」
クラリスの瞳には、かつてのエドガーに向けられていたような冷ややかな諦めはない。自分の足で歩き出す、一人の自立した女性としての強い光が宿っていた。
政略という鎖から解き放たれた彼女は、誰かに与えられる未来ではなく、自分で選び取る未来を生きようとしているのだ。
「素晴らしいご決断だと思います。クラリス様なら、間違いなく優秀な外交官になられるでしょう」
レティシアは心からの賛辞を贈りながら、机の引き出しから数枚の真新しい書類を取り出した。
「実は、クラリス様が新しい道へ進まれると伺いまして。少しお節介かとは思ったのですが、このようなものをご用意させていただきました」
「これは……?」
「クラリス様が外交補佐として就任される際の、『雇用条件および職務権限の確認書』です。いわば、クラリス様の『新しい人生の条件書』ですね」
レティシアが提示した書類には、公爵家の令嬢という身分に甘んじることなく、一人の実務官として正当な評価を受けるための条件が、理路整然と記載されていた。
勤務時間、報酬の規定、不当な異動を禁止する条項。そして、将来もし新たな縁談が持ち上がったとしても、本人の合意なしに職務を辞めさせられることのないよう、権利を保障する特約まで盛り込まれている。
クラリスは、その書類を手に取り、大きな文字で書かれた一つ一つの条項を丁寧に目で追っていった。
「……婚約破棄の調停だけでなく、このようなものまで作ってくださるとは」
「契約書は、何も結婚の時だけに必要なものではありません。働く上で、ご自身の身と尊厳を守るための最強の盾にもなりますから」
前世で、曖昧な労働条件と責任の押し付けによって過労死したレティシアにとって、働く環境を契約で守ることは、婚約契約と同じくらい重要なことだった。
クラリスは書類を胸に抱きしめ、ふわりと花が綻ぶように笑った。
「ありがとうございます、レティシア様。……私、これまでは親が用意した婚約契約書を、ただ言われるがままに受け入れるだけでした」
クラリスの声が、微かに震える。
「でも今、この紙に書かれた文字を読んで、初めて……自分の未来を、自分で読めている気がしますわ」
「クラリス様……」
「この盾があれば、私はもう何も恐れません。誇りを持って、新しい人生を歩んでいきます」
クラリスはレティシアに深く頭を下げ、光に満ちた足取りで相談室を後にした。
彼女の背中を見送りながら、レティシアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
(よかった。私の作った書類が、誰かの新しい人生の始まりを守ることができた……)
これまでの激務と、大舞台での極度の緊張が、クラリスの笑顔によってようやく報われた気がした。
フッと息を吐き、レティシアが自席に戻ろうとした瞬間。
「……あ」
気が緩んだせいか、急に足元がふらつき、視界がグラリと揺れた。
机の角を掴んで倒れるのだけは免れたが、ドッと重い疲労感が全身にのしかかってくる。
「――気を張っていた分の反動が、一気に来たようだな」
不意に背後から声が掛かり、レティシアの背中を、大きな手がそっと支え上げた。
「で、殿下……!」
振り返ると、漆黒の軍服を纏った王弟殿下ノア・ヴァルトハイムが、少し眉をひそめてレティシアを見下ろしていた。
隣の執務室から、彼女の様子をずっと見ていたのだろう。
「申し訳ありません。少し、立ち眩みがしただけで……」
「無理に強がるな。大舞台を終えたばかりだ、疲労が溜まって当然だろう」
ノアはレティシアをそっと特注の革椅子に座らせると、極めて自然な動作で、温かい紅茶を淹れて彼女の前に置いた。
「建国祭での見事な論破、そして先ほどのクラリス嬢への対応。公証院総裁として、君の働きを誇りに思う」
「もったいないお言葉です。……ですが、これで少しは相談所も落ち着くでしょうか」
レティシアが苦笑混じりに言うと、ノアは静かに首を横に振った。
「いや、逆だ」
「え?」
「君の活躍により、契約書が『不吉なもの』ではなく『己を守る盾』であることが、多くの貴族たちに知れ渡った。結果として、我が公証院に、これまでにない数の相談予約が殺到している」
ノアの言葉に、レティシアは目を丸くした。
「それを受け、王宮の上層部も動いた。本日付で、この『婚前契約相談窓口』の試験運用を終了し、常設の正式な部署として設置することが決定した」
「正式設置……! 本当ですか!?」
それは、レティシアが地道に続けてきた仕事が、国から正式な制度として認められたということに他ならない。
「あぁ。当然、その責任者には引き続き君を命じる」
「はい! 謹んでお受けいたします! ならば、予約の整理と新しい書式の準備を――」
喜び勇んで立ち上がろうとしたレティシアの両肩を、ノアの手が上からガシッと押さえ込んだ。
「待て。私が言いたいのはそういうことではない」
ノアの氷のような瞳が、至近距離でレティシアを真っ直ぐに射抜く。
その瞳の奥には、総裁としての冷徹さよりも、一人の男としての重く甘い執着がはっきりと渦巻いていた。
「正式設置となれば、当然業務量は跳ね上がる。今のままでは、君はすぐにでも限界を迎えて倒れるだろう。現に、今も目の下に微かな隈を作っているではないか」
「うっ……それは……」
「他人を守る契約には敏いくせに、自分を守ることにはひどく無頓着だ。……まったく、腹立たしいほど危なっかしい」
ノアの親指が、レティシアの目の下をそっと撫でる。
硬い手袋越しではなく、素手の温かな感触。ただの「上司と部下」の距離感を完全に超えたその甘い接触に、レティシアの顔が一気に火のように熱くなった。
(だ、だめ……っ。こんなの、絶対に意識してしまう……!)
「仕事が増えるなら、君の働く環境を根本的に作り直す必要があるな」
ノアは、レティシアの赤い頬から手を離すと、極めて過保護で、そして有無を言わせぬ絶対的な響きで告げた。
「君を守るためのルールは、私が決める」
新たな波乱――いや、王弟殿下からの逃げ場のない溺愛の気配に、レティシアはただ小さく頷くことしかできなかった。




