第26話 愛ではなく責任逃れです
「私は……私は、ただ真実の愛を選んだだけだ!!」
すべての証拠と証人を前にして、完全に逃げ道を失った王太子エドガーの、血を吐くような絶叫が広間に響き渡った。
味方は誰一人いない。愛を誓ったはずのミレーヌですら、いまや自分の保身のために泣き喚いている状態だ。
それでもエドガーは、自分の過ちを認めようとはしなかった。
「愛のために、古い因習を打ち破ろうとした! それのどこが悪いというのだ! 私が選んだ道は、決して間違ってなどいない!」
(……本当に、呆れるほど成長のない人)
レティシア・アーヴィングは、哀れなピエロを見下ろすような、極めて冷ややかな視線をエドガーに向けた。
どれだけ言葉を飾ろうと、本質は変わらない。
「いいえ。殿下が選んだのは、愛ではなく責任逃れです」
レティシアの澄んだ声が、エドガーの叫びを真っ向から切り裂いた。
「なっ……!」
「契約の手順を面倒だと拒み、話し合いという責任から逃げた。ご自身の資金流用を隠すために、相手に虚偽の罪を着せて責任を転嫁した。……そんなものは、愛ではありません。ただの卑怯な現実逃避です」
静まり返った広間に、レティシアのロジカルで無慈悲な宣告が響く。
「愛を言い訳にして、人としての誠実さを投げ捨てたあなたを、この国の誰も、もはや支持することはありません」
エドガーは大きく目を見開き、そして糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
自分が英雄でもなんでもなく、ただの無責任な愚か者であったという現実を、ついに突きつけられたのだ。
「……そこまでだ」
玉座から、国王の重く威厳に満ちた声が下された。
国王は、崩れ落ちた愚息を冷徹に見下ろし、最終的な裁定を告げる。
「王立公証院の提出した証拠、および証人たちの言葉。しかと聞き届けた。これより、王家としての判決を申し渡す」
広間に集うすべての貴族が、固唾を呑んで国王の言葉を待った。
「エドガーの行った公開婚約破棄宣言は、契約の原則に反し、無効とする」
エドガーの肩がビクッと跳ねた。
「ただし、被害者であるクラリス嬢を保護するため、王家の権限をもって両者の婚約を正式に解除する。その理由は、エドガーの度重なる重大な背信行為によるものとし、クラリス嬢には一切の非がないことを、国中へ名誉回復公告として布告する」
クラリスが、静かに、そして深く頭を下げた。
彼女の気高い尊厳は、契約書という盾によって完璧に守り抜かれたのだ。
「さらに」
国王の瞳に、国を統べる者としての厳しい光が宿る。
「エドガー。貴様は次期国王たる資格を自ら捨てた。よって本日この時をもって、貴様の王太子位を廃し、王位継承権を永久に剥奪する」
「あ……ああぁ……っ、父上……!」
「黙れ! 王族の署名の重みすら理解できぬ者に、国を背負う資格などない!」
エドガーは床に両手をつき、むせび泣くことしかできなかった。
「公金横領および虚偽の悪評流布を主導したミレーヌ男爵令嬢は、王都より追放し、社交界への出入りを永久に禁ずる。また、私利私欲のために契約の解釈を捻じ曲げ、公証院の権威を失墜させようとしたボルトン次長については、即刻罷免とし、その身柄を拘束せよ!」
「ひぃぃっ! お許しを、お許しをぉっ!」
「いやよ! 私は騙されただけなのに! 離して!!」
国王の厳命により、近衛兵たちが次々と足を踏み鳴らして進み出た。
泣き叫ぶミレーヌ、見苦しく命乞いをするボルトン、そして魂が抜け殻のようになった元王太子エドガー。
彼らは皆、両脇を屈強な兵士たちに抱え上げられ、無様に引きずられながら大広間から姿を消していった。
自らの傲慢さゆえに契約を軽んじ、他者を踏みにじった者たちが、自業自得の破滅を迎えた。
広間には、正当な裁きが下されたことへの深い安堵の空気が広がっていた。
「…………っ」
彼らが完全に退場したのを見届けた瞬間。
レティシアの身体から、急激に力が抜け落ちた。
(終わった……。ちゃんと、証明できた。契約書が、正しい人たちを守ったわ……)
これまでの激務と、大舞台での極度の緊張。
それが一気に解け、レティシアの足から崩れ落ちそうになった、その時。
「――っ」
ガシッ、と。
力強い腕がレティシアの腰を抱き留め、彼女の身体をしっかりと支え上げた。
「殿下……」
見上げると、そこには漆黒の夜会服を纏ったノア・ヴァルトハイムがいた。
彼は大勢の貴族の目が注がれていることなど全く意に介さず、レティシアを自身の胸元へ引き寄せると、自身が羽織っていた温かい外套を、彼女の震える肩にふわりと掛けた。
「よくやった」
ノアの低く、甘く、熱を帯びた声が、レティシアの耳元に降り注ぐ。
「完璧な立証だった。お前の作った契約書が、我が国の未来と、一人の令嬢の尊厳を救ったのだ」
「殿下……私、は……」
「もういい。もう、お前が一人で立っている必要はない」
ノアのその言葉が、レティシアの胸の最も深い場所に突き刺さった。
前世。法務部でたった一人で矢面に立ち、誰からも感謝されず、守られずに過労死した記憶。
『契約書なんて縁起でもない』と笑われ続けた日々。
そのすべての呪いとトラウマが、ノアの掛けてくれた外套の温もりと、絶対的な肯定の言葉によって、サラサラと音を立てて溶け去っていく。
「……っ」
大粒の涙が、レティシアの瞳から溢れ落ちた。
それは悲しみの涙ではない。報われたことへの、そして、自分をこれほどまでに守り、大切にしてくれる人がいることへの、心からの喜びの涙だった。
「泣きたいなら、私の胸で泣け。誰にも見せはしない」
ノアはそう囁くと、外套ごとレティシアをすっぽりと包み込み、周囲の視線から彼女を完全に隠してしまった。
王弟殿下の圧倒的な独占欲と溺愛を前に、誰も彼らに声をかけることなどできない。
不吉な令嬢と呼ばれたレティシアの戦いは、いまここに、完全な勝利と至上の甘さの中で幕を下ろしたのだった。




