第25話 破談条項で幸せになった証人たち
「証人を呼ぶだと? 誰を呼ぼうと、クラリスの悪逆非道な振る舞いと、私の真実の愛が覆ることはないぞ!」
五分の休憩が明けた大広間。
王太子エドガーは虚勢を張るように叫んだが、その声には先ほどまでの絶対的な自信は欠けていた。
レティシア・アーヴィングは、エドガーの言葉を完全に無視し、広間の入り口へと視線を送った。
扉が開き、緊張した面持ちながらも、しっかりと手を取り合った三組の男女が進み出てくる。
辺境伯子息ルカとマリナ。
男爵令息ユージーンとリアナ。
騎士のオスカーとネル。
いずれも、レティシアが作成した『婚約契約書』によって、破談の危機を乗り越え、確かな絆を結んだ者たちだ。
「彼らは皆様と同じく、当公証院で婚約契約を結ばれた方々です」
レティシアは広間に集う貴族たちに響くよう、通る声で告げた。
「エドガー殿下は、契約というものが愛を縛り、壊すと主張されました。ですが、果たして本当にそうでしょうか。……ルカ様、マリナ様」
「はい」
ルカが一歩前に出た。彼は国王と周囲の貴族に向かって深く一礼すると、力強い声で語り始めた。
「私は最初、レティシア様が提示した『協議解除条項』――破談の話を聞いて、激しく反発しました。真実の愛があれば別れることなどないと、本気で思っていたからです。ですが、最悪のケースを想定したからこそ、私たちは初めて、結婚後の居住地や仕事といった現実的な問題から逃げずに話し合うことができたのです」
「はい。愛だけでは解決できない問題に気づけたからこそ、私たちは今、心から安心して結婚の準備を進められています」
マリナがルカの言葉に微笑みながら同意する。
続いて、ユージーンとリアナが進み出た。
「私たちは、『持参金分別管理条項』によって救われました。もしこの契約がなければ、私の妻となる彼女の財産は、私の実家の借金返済に不当に流用され、私たちの愛は金銭のトラブルによって泥沼の中で壊れていたでしょう。契約という盾が、理不尽な干渉から私たちの未来を守ってくれたのです」
「私たちもです」
オスカーとネルも、しっかりと寄り添いながら証言した。
「『不誠実交際条項』によって境界線を明確にしたことで、私は自分の無自覚な振る舞いが婚約者を傷つけていたことに気づけました。不安を言葉にし、ルールを作ることは、決して相手を疑うことではありません。相手を大切に思うからこその、誠意の証明です」
彼らの真摯な言葉は、広間に集う貴族たちの心に深く染み渡っていった。
契約書は、愛を疑うための冷たい鎖ではない。
愛が壊れそうになった時、二人を守り、再び向き合うための『優しい盾』なのだ。
それを実証する彼らの姿は、エドガーの薄っぺらい「真実の愛」の暴論を、根本から木端微塵に粉砕していた。
「な、なんだお前たちは! 公証院に買収されたのか!」
エドガーが狼狽し、顔を引きつらせる。
だが、その見苦しい姿に同調する者は、もはやこの広間には一人もいなかった。
レティシアの仕事の正当性は、ここにいる全員の目の前で完全に証明されたのだ。
「……彼らの言う通りです」
静まり返った広間に、凛とした声が響いた。
群衆の中から、王太子の婚約者である公爵令嬢クラリスが、ゆっくりと中央へ歩み出たのだ。
「ク、クラリス……! お前、どの面下げて――」
「殿下。私は殿下の愛が別の女性に向いたことを責めるつもりはありません」
クラリスは、扇を閉じ、エドガーを真っ直ぐに見据えた。
その瞳には涙一つなく、ただ気高い公爵令嬢としての矜持だけが宿っていた。
「私が許せないのは、愛されなかったことではありません。ご自身の非を隠し、契約の手順から逃げるために、私に根拠のない罪を着せ、人としての尊厳を公衆の面前で踏みにじろうとした、その卑劣さです」
「なっ……! 根拠がないだと!? ミレーヌをいじめたのは事実だろうが!」
エドガーがわめき、ミレーヌもエドガーの腕にしがみついて泣き声を上げた。
「そ、そうです! 私、お茶会で嫌がらせをされて……階段からも突き落とされそうになって……! クラリス様が裏で手を回したに決まってます!」
「その件につきましても、公証院としての調査結果がございます」
ミレーヌの嘘泣きを、レティシアの冷徹な声がバッサリと切り捨てた。
レティシアは手元のバインダーから、数枚の書類を抜き出した。
「クラリス様がミレーヌ様に嫌がらせをしているという悪評。その『噂の流通記録』を徹底的に調査いたしました。結果、すべての噂の震源地は、二週間前にミレーヌ様ご自身が主催された茶会であることが判明しております」
「えっ……!?」
「そこに集まった数名の令嬢たちを通じて、意図的かつ計画的に虚偽の悪評が流されていました。すでに該当する令嬢のご実家には、当公証院より『名誉毀損禁止条項』違反に基づく厳重な警告書を送付済みです」
レティシアの言葉に、ミレーヌの顔からスッと血の気が引いた。
「ち、違います! 私はそんなこと! ねえ、あなたたちもあのお茶会にいたでしょう!? クラリス様が私を虐めたって、知っているわよね!?」
ミレーヌは、群衆の中にいた自身の取り巻きの令嬢たちに向かって叫んだ。
しかし、公証院からの警告書で震え上がっていた令嬢たちは、ミレーヌと目が合うや否や、一斉に顔を背け、サッと後ずさって彼女から距離を置いたのだ。
「あ……」
誰も、自分を助けてくれない。
資金を凍結され、嘘を暴かれ、取り巻きにも見捨てられた。
ミレーヌとエドガーは、大広間の中心で、誰一人味方のいない完全な孤立状態に陥っていた。
(これで、完全に詰みね)
レティシアは静かに息を吐いた。
連日の調査と書類作成、そしてこの大舞台での極度の緊張。勝利を確信した途端、急に肩が重くなり、視界がわずかに揺れた。
その時だった。
「……よくやった。あと少しだ」
背後に立っていたノアが、レティシアの耳元で極めて低く、甘い声で囁いた。
それと同時に、ノアの大きな手が、ドレス越しにレティシアの背中をそっと、しかし力強く支える。
「で、殿下……っ」
驚いて見上げると、ノアの氷のような瞳が、レティシアの疲労を正確に見抜き、これ以上ないほどの労わりと信頼の光を湛えて彼女を見つめ返していた。
「あちらにも椅子を出してやれ。証人には敬意を払わねばならない」
ノアは視線を外し、部下に命じてクラリスのためにも豪奢な椅子を用意させた。
公証院総裁としての公平で厳格な態度を崩さないまま、それでも彼の手は、密かにレティシアの背中を温かく支え続けている。
大舞台の真ん中で、これほどまでに自分だけを気遣い、守ってくれる人がいる。
その事実に、レティシアの胸は早鐘のように打ち鳴らされ、疲労など吹き飛ぶほどの熱が身体中に満ちていくのを感じていた。
「さて、エドガー」
レティシアを支えたまま、ノアが王太子に向かって死刑宣告のように冷酷な声を放つ。
「これですべての証拠は出揃った。お前の『真実の愛』とやらの底の浅さは、皆が十分に理解したことだろう」
逃げ場のない真実の刃が、ついに愚かな王太子の首元に突きつけられていた。




