第24話 大きな字でも、三度読みました
「ええい、黙らぬか!!」
大広間の喧騒を切り裂くような、雷鳴の如き怒号だった。
玉座から立ち上がった国王が、顔を怒りで赤黒く染め上げながら、広間の中央で醜態を晒す王太子エドガーを睨みつけていた。
「これ以上、他国の賓客の御前で我が国の恥を晒す気か! 公証院の記録が事実であるならば、お前の破棄宣言などただの違約行為に過ぎん!」
「ち、父上! これは誤解です! 私はこのような理不尽な契約の仕組みなど――」
「言い訳は聞かん! 直ちにこの場で事の真偽を明らかにする。これより、即時の公開審理を執り行う!」
国王の厳命により、祝賀の場は一転して、王太子の罪を問う公開の法廷へと姿を変えた。
ざわめいていた貴族たちは息を潜め、広間の中央にはエドガー、ミレーヌ、クラリス、そしてレティシアとノアだけが残された。
ノアは国王に向かって、静かに一礼した。
「陛下。私は当事者の身内であり、公証院の総裁という立場にあります。ゆえに裁定は陛下に委ね、私はあくまで契約解釈を補佐する証人としてのみ立ちましょう」
「うむ。頼むぞ、ノア」
ノアの宣言は、「王弟としての権力で王太子を陥れた」という後々の批判を完全に封じるためのものだった。あくまで、エドガー自身の署名と客観的事実のみで彼を完全に追い詰めるという、冷酷なまでの包囲網である。
「騙されたのだ! 父上、私は騙されたのです!」
エドガーが、すがるような声で叫んだ。
「あのような分厚い書類の、複雑な法律用語など私は聞いていない! 協議解除条項が例外だなどと、この小娘が私に意図的に隠していたに違いないのです!」
(……出たわね、『聞いてない』『騙された』。自分の不注意を他人のせいにする、クレーマーの最終手段)
レティシア・アーヴィングは、内心で深くため息をついた。
前世の法務部時代、契約の重要性をいくら説いても無視した挙句、トラブルになれば「法務の説明が足りなかった」と責任転嫁する営業担当者を、彼女は星の数ほど見てきたのだ。
レティシアは手元のバインダーから、数枚の書類を取り出し、エドガーの前に広げた。
「エドガー殿下。当公証院では、専門用語に不慣れな方のために、極めて大きな文字で箇条書きにした『契約要約版』を必ずご用意しております。殿下にも、契約締結日の半年前、間違いなくこちらを提示いたしました」
それは、老眼の貴族でも離れた場所から読めるほど、大きく見やすい文字で書かれた書類だった。
「その上で、私は殿下に三度、説明の機会を設けております」
レティシアは、二枚目の書類を指で叩いた。
「一度目。読み合わせ予定表を提示した際、殿下は『破談など縁起でもない』と書類を突き返されました」
「なっ……」
「二度目。要点だけでもお耳に入れたいと申し上げた際、殿下は『女の長話は不要だ』と私の説明を遮られました」
「……っ!」
「三度目。最後に質問受付記録をお渡しし、不明点がないか伺った際、殿下は『さっさとその面倒な条項を削れ』と命じられました」
レティシアの声は、一切の感情を排した、冷徹な事実の羅列だった。
彼女が示す『説明拒否記録』には、その時の状況が詳細に記載され、最後にエドガー本人の流麗な署名が、証拠としてしっかりと残されていた。
「これでもまだ、私が意図的に隠したと仰いますか?」
レティシアの氷のような視線が、エドガーを射抜く。
「小さな文字で読めなかったのではありません。殿下は、ご自身の傲慢さゆえに、聞く機会を完全に拒否されたのです」
致命的な、最後の一撃だった。
広間は水を打ったように静まり返り、誰もがエドガーの愚かさを確信した。
自分が「因習を壊す英雄」だと思い込んでいた男は、ただ説明を聞くことすら面倒臭がって自分の首を絞めただけの、滑稽なピエロだったのだ。
玉座の国王は、あまりの情けなさに深く頭を抱えている。
「ふ、ふざけるな……ふざけるなッ!!」
完全に逃げ道を失ったエドガーの顔が、怒りと羞恥で赤黒く膨れ上がった。
「私が悪いというのか! 私が愚かだというのか! たかが平民上がりのような小娘が、王太子である私を公衆の面前で愚弄するなど、万死に値するぞ!!」
「発言を控えよ、エドガー」
狂犬のように喚き散らすエドガーの声を、ノアの低く絶対的な声が押し潰した。
「ここは陛下の御前だ。自らの無知を棚に上げ、正当な職務を行った公証院の事務官に当たり散らすなど、見苦しいにも程がある」
「お、叔父上……っ!」
「陛下。激しい論戦で、私の部下も少々喉が渇いたようです。真実を明確にするためにも、ここで五分ほどの短い休憩を挟むことを提案いたします」
王太子が怒り狂っているその真ん中で、ノアは極めて事務的な、しかし有無を言わせぬトーンでそう言い放った。
国王が力なく頷くと、ノアはエドガーから視線を外し、レティシアの元へと歩み寄った。
「で、殿下……? あの、私は全く疲れてなど――」
レティシアが戸惑いながら見上げると、ノアは部下が持って控えていた銀の盆から、温かい湯気を立てるティーカップを取り出し、レティシアの両手にそっと握らせた。
「少し休め。声が張っていたからな、喉を労れ」
「あ……ありがとうございます……」
カップから伝わる温もりが、レティシアの強張っていた指先をじんわりと解かしていく。
大勢の貴族が固唾を呑んで見守る公開審理の真っ最中に、総裁自らが一介の令嬢に温かいお茶を手渡し、休息を命じている。
そのあまりにも過保護で異常な光景に、周囲の者たちは目を丸くしていた。
(まただわ……こんなに大勢の人が見ているのに、どうして殿下はこんなに甘やかしてくださるの……っ)
ただでさえ張り詰めた空気の中で、ノアから向けられる熱を帯びた眼差しと特別扱いは、レティシアの心臓を別の意味で破裂させそうになっていた。
顔が熱くなるのを感じながら、レティシアはお茶を一口飲み、小さく深呼吸をして心を落ち着かせた。
そして、五分の休憩が終わり、再び静寂が戻った広間。
息を吹き返したように、レティシアは真っ直ぐに国王へと向き直り、凛とした声で告げた。
「陛下。エドガー殿下は、契約というものが愛を縛り、壊すものだと主張されました。しかし、それは誤りです」
レティシアは、広間の端で静かに待機していた者たちへと視線を向けた。
「契約が愛を壊すのではなく、愛を守る盾であるという事実を証明するため。これより、三組の証人を喚問いたします」
大舞台での反撃は、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。




