第23話 王族にも契約は効きます
「契約書がどうであれ、私は次期国王! この国の王太子だぞ!! 私の決定こそが絶対なのだ!!」
建国祭の祝賀で賑わっていたはずの大広間に、エドガーの幼稚な絶叫が木霊した。
自らが署名した契約書によって退路を断たれ、言い逃れができなくなった結果、自らの身分と権力にすがりついたのだ。
あまりにも見苦しい次期国王の姿に、周囲の貴族たちは扇で口元を隠し、あるいは露骨に眉をひそめて冷ややかな視線を送っている。
玉座の国王に至っては、頭痛を堪えるように額を押さえていた。
「……己の非を認めず、身分を盾にするか、エドガー」
氷のように冷たく、しかし王太子の絶叫よりも遥かに重い声が響いた。
レティシアの傍らに立つ、漆黒の夜会服を纏った王弟殿下ノア・ヴァルトハイムだ。
彼は王立公証院総裁としての絶対的な威厳を纏い、一歩前に出た。
「王族の署名は、平民の署名より軽いのか」
「っ……! 叔父、上……」
「国を統べる王族の言葉や署名は、法そのものに等しい。自ら署名し、契約の形として残した約束を、『自分は王太子だから』という理由で反故にする。そのような軽薄な男の署名など、紙屑ほどの価値もないと、他国の使節たちの前で自ら証明するつもりか」
ノアの言葉は、正論という名の鋭い刃となってエドガーを容赦なく切り刻んだ。
顔面を蒼白にさせ、わななくエドガー。
彼がこれ以上言い返せないと踏んだその時、群衆を掻き分けて一人の小太りな男が進み出た。
「お、お待ちください、総裁閣下!」
額に大量の汗を浮かべた公証院次長、ボルトンだった。
彼は恭しく頭を下げながら、これ見よがしに一通の書類を掲げてみせた。
「王太子殿下のご判断は、決して契約をないがしろにするものではございません! わたくしが作成した、こちらの『契約解釈意見書』をご覧ください!」
「……ほう」
「エドガー殿下とクラリス様の契約書からは、『協議解除条項』が削除されております。つまり、円満な話し合いによる解除の手順が定められていない状態です。……定められていない以上、解除の手続きに制限はないと解釈できます! ゆえに、王太子殿下による自由な破棄宣言は、法的に適法であると存じます!」
ボルトンは得意げに高笑いした。
自分が王太子を救い出し、公証院総裁の鼻を明かしてやったとでも言わんばかりの態度だ。
エドガーも、ボルトンの加勢を得て途端に息を吹き返した。
「そ、そうだ! その通りだ! 手順がない以上、どう解除しようと私の自由だろう! それを違約だと騒ぎ立てたその事務官の小娘こそ、王太子たる私を不当に貶めた罪で捕らえるべきだ!」
ミレーヌも「さすがエドガー様ですわ!」と安堵の笑みを浮かべてエドガーの腕にしがみつく。
(……本当に、どこまでも愚かな人たちね)
ノアの命令で椅子に座らされていたレティシアは、冷ややかな瞳で彼らを観察していた。
しかし、これ以上好き勝手に喋らせておくわけにはいかない。
レティシアは静かに椅子から立ち上がり、真っ直ぐにボルトンを見据えた。
「ボルトン次長。あなたのその解釈は、王立公証院の定める『標準婚約契約』の基本原則を根底から覆す暴論です」
静まり返った広間に、レティシアの澄んだ声が響き渡る。
「なんだと? 小娘の分際で、次長である私に口答えをする気か!」
「口答えではなく、事実の指摘です」
レティシアは手元のバインダーを閉じ、彼らの詭弁を木端微塵に打ち砕くためのロジックを展開した。
「貴族の婚約において、『一方的な解除は禁止する』というのが絶対の原則です。そして『協議解除条項』は、その原則に対する『例外的な出口』として機能しています」
これは、公証院の事務官であれば誰でも知っている基礎中の基礎だ。
「原則に対する例外を削ったのです。ならば、自由になるのではなく、元の『一方的解除禁止』という強い拘束状態に戻るだけです。手順がないから自由だなどという法解釈は、無知な平民の口約束レベルの暴論であり、決して公証院が認めるものではありません」
「なっ……!?」
「公証院次長でありながら、相手に取り入るために基本原則を無視した意見書を作成するなど、職権濫用と虚偽解釈に他なりません」
レティシアの完璧な論破の前に、ボルトンはカエルが潰されたような悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。
頼みの綱だった『解釈の逃げ道』すらも塞がれ、エドガーの顔が屈辱と怒りで赤黒く染まり上がる。
「き、貴様ぁっ! 詭弁だ! どこまでも私をコケにしおって、黙れ小娘ぇっ!!」
完全に理性を失ったエドガーが、腰の装飾剣に手をかけながら、レティシアに向かって怒り狂ったように突進してきた。
「きゃっ……!」
だが、エドガーがレティシアに近づくことなど、初めから許されるはずがなかった。
レティシアのすぐ傍に立っていたノアが、瞬時に彼女を背後に庇うように立ち塞がったのだ。
ノアは微動だにせず、ただ一瞥するだけで、放たれた絶対零度の殺気によって王太子をその場に縫い留めた。
「そこまでだ、エドガー。一歩でも彼女に近づけば、王太子であろうと容赦はしない」
「ひっ……! お、叔父上……っ」
ノアの厚い背中が、レティシアの視界からエドガーの狂気を完全に遮断する。
大広間の真ん中、大勢の視線が集中する舞台で、王弟殿下が身を挺して一介の事務官を庇い、完璧なまでの保護を見せつけている。
その背中の頼もしさと、自分だけを守ってくれる圧倒的な特別扱いに、レティシアの胸は破裂しそうなほど早鐘を打っていた。
(だめ、今は仕事中よ……! 落ち着きなさい、私……!)
レティシアは必死に赤くなる頬を引き締め、ノアの背中の後ろから、さらなる追撃の言葉を放った。
「エドガー殿下。あなた方の契約違反は、婚約破棄の宣言だけではありません」
レティシアの視線が、エドガーの後ろで震えているミレーヌへと向けられた。
正確には、彼女の白い首元を飾る、大粒のダイヤモンドが輝く豪奢な首飾りへと。
「ミレーヌ様が現在身につけておられるその宝飾品をはじめとする、数々の高額な贈与。それらが王太子費、およびクラリス様との婚約財産から不当に流用されている疑いがあり、現在、当公証院の重大な調査対象となっております」
「な、なんだって……!?」
「そ、そんな……! これはエドガー様が私にプレゼントしてくださったもので……!」
公の場で、王太子の金遣いの不正と、愛人の「真実の愛」が横領された金で作られていたことが暴露された瞬間だった。
広間は今日一番の大きなどよめきに包まれ、エドガーとミレーヌは、自分たちが完全に逃げ場のない包囲網の中にいることを、ようやく悟り始めていた。




