第22話 その手順、あなたが契約書から削りましたよね
「殿下、婚約破棄ですか?」
王宮の大広間に響き渡った、平坦で氷のように冷たい声。
その問いに対し、王太子エドガーは鼻で笑い、不快げに眉をひそめた。
「そうだ。公証院の不吉な令嬢がなぜ出しゃばってくるのか知らんが、私の決意は変わらない。古い因習を捨て、私は真実の愛を選ぶのだ!」
周囲の貴族たちが息を呑み、玉座の国王が苦渋の表情を浮かべる中、レティシア・アーヴィングは表情を一つも変えることなく、手にしていた分厚いバインダーを開いた。
「かしこまりました。では、お二人の『婚約契約書原本』に基づき、現在の状況を確認いたします」
レティシアの白魚のような指が書類のページを捲り、ある一箇所でピタリと止まった。
「エドガー殿下。当公証院の記録によりますと、殿下は契約締結時、『協議解除条項』を自らの意思で削除されておりますね」
「当然だ!」
エドガーは、自身の正当性を疑いもしない傲慢な態度で胸を張った。
「王族の婚約において、平民のような面倒な話し合いや手順など不要だからな。私を縛る鎖は自ら削り落とした。ゆえに、私はいつでも自由に、この場で婚約を破棄できるというわけだ!」
「いいえ」
エドガーの勝ち誇った演説を、レティシアの無慈悲な声が切り裂いた。
「殿下は大きな勘違いをされています。条項を削ったから、自由になるのではありません」
「なんだと?」
「この国の貴族婚約において、一方的な口頭での破棄は原則として無効です。だからこそ、例外的に名誉を傷つけず円満に別れるための『協議解除条項』が存在します」
レティシアは眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細め、言葉を紡いだ。
「あなたが削ったのは、自由に別れる権利ではありません。双方が名誉を守って別れるための、唯一の『円満解除の手順』です。ご自身で、安全な出口を塞いだのです」
広間が、ざわめきに包まれた。
エドガーの顔から、微かに余裕が消える。
「な、ならばどうなるというのだ! 手順がどうであれ、私が破棄すると言えば――」
「法的に無効です。しかし、殿下」
レティシアは、エドガーに反論の隙を与えなかった。
「先ほど、殿下はクラリス様に対し、『陰湿な嫌がらせをした』『階段から突き落とそうとした』と、大勢の賓客の前で声高に主張されましたね」
「事実だからな! クラリスがミレーヌを虐げたのだ!」
「その明確な証拠はございますか?」
「そ、それは……ミレーヌが怯えて泣いていたのだ! 愛する者の涙が何よりの証拠だ!」
(証拠なしの感情論。見事なまでの不当解釈と責任転嫁だわ)
レティシアは内心で呆れ果てながら、契約書の該当条項を指し示した。
「明確な証拠なき公開断罪は、本契約における『虚偽告発』および『名誉毀損禁止条項』に抵触します。さらに、公開の場で別の女性を伴い、婚約者を公然と侮辱した行為は……」
「……っ!」
「重大な違約行為として、『背信行為加重違約条項』の対象となります」
レティシアの通る声が、広間の隅々にまで響き渡った。
「殿下は婚約を破棄したのではありません。ご自身が契約違反を犯し、クラリス様に『あなたを正式に解除し、莫大な違約金と名誉回復を請求する権利』を与えたのです」
「なっ……!?」
自分が因習を打ち破る英雄だと思っていたエドガーにとって、突きつけられた現実はあまりにも無慈悲だった。
真実の愛の証明どころか、ただ契約違反を犯して自滅した愚か者だという事実を、大勢の貴族の前で白日の下に晒されたのだ。
隣に立つミレーヌも、想定外の事態に青ざめ、エドガーの腕にすがりついている。
「ふ、ふざけるなッ!!」
恥辱と怒りで顔を真っ赤に染め上げたエドガーが、獣のような咆哮を上げた。
「たかが公証院の小娘が、私に説教をする気か! 屁理屈をこねて私を陥れようとするなど、絶対に許さんぞ!」
激高したエドガーが、レティシアに向かって腕を振り上げ、数歩踏み出そうとした。
――その瞬間だった。
「声量を落とせ」
広間の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
レティシアの背後から、漆黒の夜会服を纏った王弟殿下ノア・ヴァルトハイムが、ゆっくりと歩み出たのだ。
その瞳に宿る、底知れない暴力の気配と絶対的な威圧感。
エドガーは振り上げた腕を止め、恐怖のあまり喉を引き攣らせた。
「お、叔父、上……っ」
「彼女に怒鳴る許可は、誰が出した?」
ノアの低く這うような声に、エドガーは一歩後ずさった。
ノアは王太子を一瞥するだけで見切りをつけると、背後に控えていた部下に向かって顎をしゃくった。
「椅子を持て。それと、喉を潤す水もだ」
「はっ」
指示を受けた部下が即座に動き、豪奢な装飾が施された一脚の椅子と、銀の盆に乗せられたクリスタルグラスが、大広間の中央――レティシアのすぐ真横に恭しくセットされた。
「え……? で、殿下、これは……?」
突然の展開に、レティシアは目を丸くしてノアを見上げた。
「これだけ広い空間で響く声を出せば、喉も乾き、足も疲れるだろう。座って水を飲め」
「いや、あの、ここは建国祭の大広間のど真ん中でして! 私が座るなんて、そんな……!」
「私の直轄に、無理をさせる気はない。座れ」
周囲の貴族たちが、信じられないものを見る目でその光景を見つめていた。
国王や他国の賓客が見守る大舞台の真ん中で、王弟殿下が、ただ一人の事務官の令嬢を過保護すぎるほどに世話し、守り抜いているのだ。
(まただわ……! こんな公の場で、こんなに甘やかされたら……っ)
ただの「業務上の保護」という言い訳は、もうレティシア自身の中でも通用しなくなっていた。
ノアの瞳に浮かぶ深い愛情と執着に当てられ、レティシアの顔は瞬く間に真っ赤に染まる。彼女は逃げ場を失い、おずおずと用意された椅子に腰を下ろし、水に口をつけるしかなかった。
その圧倒的な特別扱いと、自分が完全に蚊帳の外に置かれている屈辱。
エドガーのプライドは、もはやズタズタに引き裂かれていた。
「ば、馬鹿にするな……っ!」
エドガーは、血走った目でレティシアとノアを睨みつけた。
契約書で論破され、叔父の権力に押し潰されようとしている今、彼に残された武器はただ一つしかなかった。
「契約書がどうであれ、私は次期国王! この国の王太子だぞ!! 私の決定こそが絶対なのだ!!」
広間に響き渡った、あまりにも見苦しく、幼稚な絶叫。
それは、自らの愚かさを国中に知らしめる、破滅への最後の足掻きだった。




