第40話 二十二時以降の書類は禁止
「あと一枚……。この確認だけ終わらせてしまおう……」
夜の帳が完全に下りた、王立公証院の第一婚前契約相談室。
私はランプの微かな灯りを頼りに、机に山積みになった書類と睨み合っていた。
時計の針は、すでに二十二時を十五分ほど過ぎている。
公証院の他の職員たちはとうに帰宅し、建物内はひんやりとした静寂に包まれていた。
本来であれば、私もとっくに帰宅してベッドに入っていなければならない時間だ。
それでも私がこっそりと残業をしているのは、明日の朝一番で相談に訪れる予定の、あるワケありのカップルのための特約条項を練り上げておきたかったからだ。
(ここで私が手を止めれば、明日の調停で彼らが不利になるかもしれない。私がやらなきゃ……私が完璧に仕上げなければ)
前世で大企業の法務部に勤めていた頃の強迫観念が、心の奥底でチリチリと警鐘を鳴らす。
『お前の確認不足だぞ』
『休む暇があるなら、明日までに全部チェックしておけ』
あの頃、私の代わりなんていくらでもいると言われながら、それでも「自分がやらなければ」という責任感だけで身を削り続けた。
その結果が、深夜の冷たいオフィスでの、たった独りの過労死だった。
頭では分かっている。今の私は一人ではないし、頼れる優秀な部下もたくさんいる。
それでも、目の前に困っている人がいて、自分にそれを防ぐ『盾』を作る力があるのなら、限界までペンを握り続けてしまうのは、もはや悲しい悲しい私の性だった。
「……だから、目を離せばすぐにこれだ」
不意に。
静まり返った室内に、呆れたような、それでいてひどく甘く響く低音が落ちた。
「えっ……!?」
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには漆黒の軍服を着崩した王弟殿下、ノア様が立っていた。
彼は音もなく私の背後に近づくと、私の手からあっさりと羽ペンを奪い取った。
「ノ、ノア様! どうしてここに……っ、今日は王宮で遅くまで会議の予定では」
「愛する婚約者が、私の目を盗んで悪事を働いていないか抜き打ち検査に来たのさ。……どうやら、大正解だったようだが」
ノア様はため息をつきながら、彼自身の懐から見覚えのある羊皮紙を取り出し、私の目の前のデスクに広げた。
それは、私たちが交わした『求婚契約書』だった。
ノア様の長い指が、契約書の第十条をトントンと叩く。
「『二十二時以降の書類仕事は禁止』。……そう、明確に記されていたはずだが? 我が公証院の誇る縁守り令嬢は、自らの契約違反には随分と甘いらしい」
「うっ……! そ、それは……」
逃げ場のない物的証拠を突きつけられ、私はしどろもどろになった。
「こ、これは緊急案件なのです! 明日の朝一番でいらっしゃるお客様の持参金問題がひどく複雑で、今夜中にこの防衛条項を完成させておかなければ、取り返しのつかないことに……っ」
私はかつての顧客たちに説明してきたような、もっともらしい言い訳を並べ立てた。
これほどの緊急事態なのだから、法務の人間として特例を認めてもらえるはずだ、と。
しかし、ノア様は極めて冷徹に、そして完璧なロジックで私の言葉を切り捨てた。
「緊急時こそ契約に従うものだ」
「え……」
「平時でしか守れないルールなど、契約ではなくただの願望に過ぎない。緊急だから、余裕がないからと例外を認めていけば、いずれ必ず破綻する。……君が一番、よく知っていることだろう?」
「っ……」
ぐうの音も出なかった。
それはまさに、私が今まで大勢の貴族たちに向けて、破談条項の重要性を説く時に使ってきた論理そのものだったからだ。
(完全に……論破されたわ)
私が肩を落として俯くと、ノア様はふっと表情を和らげ、私の隣に立った。
「君のその責任感の強さと優しさは、誰よりも私が知っている。だが、君が倒れてしまえば、明日の顧客はおろか、これから先の未来で救われるはずだった者たちまで路頭に迷うことになるのだぞ」
「……はい」
「それに、私が悲しむ」
ノア様はそう言うと、どこから持ってきたのか、湯気を立てるマグカップを私の両手にそっと握らせた。
ふわりと香る、甘い蜂蜜の匂い。私が一番好きな、蜂蜜入りのホットミルクだった。
「さあ、本日の業務はここまでだ」
ノア様はマグカップを持つ私を立たせると、そのまま執務室の奥にある大きなソファへと誘導した。
私が座るのを確認すると、彼は分厚くて肌触りの良い毛布を、私の肩からすっぽりと掛けてくれた。
さらにノア様は、私のすぐ隣に腰を下ろし、毛布ごと私をその広い胸の中へと引き寄せた。
「の、ノア様……っ」
「少し体が冷えているな。ミルクを飲んだら、このまま少し眠れ」
私の頭を彼の肩に預けさせ、その大きな手で私の背中を一定のリズムで優しくトントンと叩き始める。
まるで、小さな子供を寝かしつけるかのような、どこまでも甘くて過保護な扱い。
王弟殿下であり、公証院総裁であるはずの彼が、ただ私一人のためだけに、こんなにも温かい時間を作ってくれている。
「……申し訳、ありません。私、また自分を追い詰めて……」
ホットミルクを一口飲むと、その優しい甘さと温かさが、こわばっていた胃の奥にまでじんわりと染み渡っていった。
それと同時に、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、急速な眠気と安心感が押し寄せてくる。
「謝るな。君が前世でどれほど過酷な環境で戦ってきたか、私は君の書類を見ればわかる」
ノア様の低い声が、頭上から降ってくる。
「君はずっと、たった一人で世界と戦ってきたのだろう。誰にも守られず、誰にも感謝されず、それでも誰かのために盾を作り続けてきた。……だから、休むことが怖いのだな」
「……っ」
「だが、もう怖がらなくていい。君の隣には私がいる。君が作った契約が、今度は君自身を守る盾になる。今世では、君も守られて、愛されて、安心して眠っていいのだ」
ノア様の言葉が、私の心にこびりついていた前世の呪いを、優しく、完全に溶かしてくれた。
誰もいない深夜のオフィスで、胸の痛みに苦しみながら冷たい床に倒れ伏した前世の最期。
あの時の絶望的なまでの孤独と寒さは、もうどこにもない。
今、私を包み込んでいるのは、蜂蜜の甘い香りと、温かい毛布と、世界で一番私を愛してくれている人の力強い腕だ。
「……ノア様」
「ん?」
「私、今……すごく、幸せです」
私がすり寄るようにして彼の胸に頬をすり寄せると、ノア様は小さく笑い、私の額に深いキスを落とした。
「私もだ、レティシア。……おやすみ、私の愛しい縁守り令嬢」
彼の穏やかな心音を聞きながら、私のまぶたはゆっくりと重くなっていく。
もう、不安はない。明日になればまた、彼と共に誰かの幸せを守るための仕事ができるのだから。
目を閉じながら、私は幸せな微睡みの中でそっと微笑んだ。
契約書は、私を縛る鎖ではなく、私を眠らせてくれる優しい盾にもなるのだった。
~Fin~




