第17話 公爵令嬢クラリスの密かな依頼
「夜分遅くに申し訳ありません。どうしても、人目につかない時間にお伺いしたかったのです」
王立公証院の第一婚前契約相談室。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った室内で、深く被っていたマントのフードを下ろした女性は、王太子の婚約者である公爵令嬢クラリスだった。
彼女は、夜会のフロアの片隅で静かに状況を観察していた時と同じ、冷たく澄んだ瞳をしていた。
「クラリス様。本日はどのようなご相談でしょうか」
「……単刀直入に申し上げます。王太子エドガー殿下は、来月行われる建国祭の大広間において、私を虚偽の罪で公開断罪し、あの男爵令嬢との『真実の愛』を高らかに宣言する計画を立てておられます」
「公開断罪、ですか」
レティシア・アーヴィングは、内心で深くため息をついた。
(王族が、他国の使節も集まる建国祭でそんな茶番を? 国の恥を全世界に発信する気なの……?)
前世の企業で例えるなら、株主総会の真っ只中で社長が愛人を壇上に上げ、副社長を根拠のない理由で解任するようなものだ。正気の沙汰ではない。
「クラリス様」
レティシアの隣で、漆黒の軍服を纏った王弟殿下ノア・ヴァルトハイムが、静かに口を開いた。
「建国祭での断罪を事前に止め、穏便に済ませるよう王宮に働きかけることも可能だが。君はどうしたい?」
「いいえ。止める必要はありません」
クラリスは、微塵の迷いもない声で断言した。
その瞳には、婚約者に裏切られた悲恋の令嬢のような涙は一切ない。
「私は殿下の愛を取り戻したいのではありません。次期王妃としての厳しい教育に耐えてきた私の、そして何より、この国の尊厳を守りたいのです。あのような愚かな行いを正当化させてはなりません」
「……なるほど。相手が自ら墓穴を掘るのなら、確実に埋めてやるべきだ、と」
「はい。そのための『盾』が、私の婚約契約書に残されているか、レティシア様にご確認いただきたかったのです」
クラリスの気高い覚悟に、レティシアは深く頷いた。
すぐに鍵のかかったキャビネットから、分厚いバインダー――王太子エドガーと公爵令嬢クラリスの婚約契約書――を取り出し、机の上に広げる。
「……やはり、というべきでしょうか」
レティシアは書類の数ページを捲り、ある箇所を指し示した。
「公証院の標準契約に組み込まれている『協議解除条項』、『共同声明条項』、そして『冷却期間条項』。別れる際の手順を定めたこの三つの条項が、見事に削除されています」
「削除……それは、誰の意思で?」
「こちらをご覧ください」
レティシアは、契約書に附属していた一枚の『条項削除申請書』をクラリスに提示した。
「そこには、エドガー殿下ご本人の署名が記されています。申請理由の欄には、『王族の婚約に平民のような面倒な手続きは不要』『いつでも解消できる権利を持つべき』とありますね」
クラリスが息を呑む。
ノアは氷のような瞳でその書類を見下ろし、冷酷に鼻を鳴らした。
「愚かなことだ。自分たちを縛る鎖を断ち切ったつもりだろうが、削り落としたのは、自分たちが無傷で別れるための『円満解除の出口』だというのに」
「ええ。この条項がない以上、公開の場での一方的な破棄宣言は法的に無効です。その上、虚偽の罪でクラリス様を断罪しようものなら、契約違反どころの騒ぎではありません」
(……本当に、どこにでもいるのね。利用規約を『面倒だ』と読まずに飛ばし、自分の都合の良いようにルールを曲解して自滅する人間が)
前世で何度も見てきた光景だ。
だが、今回は相手が国のトップに立つ予定の男である。その被害は計り知れない。
「クラリス様。ご安心ください。あなたの名誉を守る盾は、間違いなくこの書類の中に存在しています」
「レティシア様……ありがとうございます」
クラリスの強張っていた肩の力が、少しだけ抜けた。
「しかし、これだけでは足りないな」
ノアが、低い声で場を制した。
「相手が王太子である以上、契約の解釈を力技で捻じ曲げてくる可能性はある。だからこそ、周りから堀を埋める必要がある」
「堀、ですか?」
「あぁ。私の部下にはすでに、王太子費の使途と、あの男爵令嬢への贈与記録の徹底的な裏付け調査を命じてある」
ノアの言葉に、レティシアは目を見張った。
(資金の流れと贈与の証拠……! そこまで押さえられれば、王太子殿下は完全に言い逃れができなくなる。読者……じゃなくて、周囲の目から見ても、もう完全に詰んでいる状態にできるわ)
「殿下はもう、かなり危ういです」
レティシアが呟くと、ノアは「自業自得だ」と冷たく吐き捨てた。
「……さて。クラリス嬢、今夜のところは安心して帰るがいい。建国祭に向けて、我々も万全の準備を整えよう」
ノアがそう言って立ち上がると、クラリスも深く頭を下げた。
「ノア殿下、レティシア様。本当に、ありがとうございます。……失礼いたします」
クラリスが静かに退室し、室内には再びレティシアとノアの二人だけが残された。
「……ふぅ」
レティシアが小さく息を吐き、目元を擦った時だ。
ノアの大きな手が、彼女の肩にふわりと何かをかけた。
彼が身につけていた、上質で温かい外套だった。
「で、殿下……?」
「今日の面談はここまでだ。お前は少し瞬きが多くなっている。目が疲労している証拠だ」
「え、いえ、私はまだこの書類の整理を――」
「ダメだ。休め」
有無を言わせぬ低い声。
しかし、その声に込められた温度は、驚くほど甘く、優しかった。
(あ……)
前話の昼間、幸せそうなカップルたちを見送った後に芽生えた、あの強烈な自覚。
『これは本当に、ただの業務命令なのだろうか?』という疑念が、再びレティシアの頭を支配する。
肩にかけられた外套から漂う、ノアの落ち着いた香水と、確かな体温の匂い。
至近距離で見下ろしてくる彼の瞳の奥底には、隠しきれないほどの深く重い熱が渦巻いていて、レティシアだけを真っ直ぐに捉えて逃がさない。
(だ、だめ……っ。こんなの、意識しない方が無理だわ……!)
これまで「完璧なホワイト企業の上司」という前世のフィルターを通して必死に正当化してきた彼の過保護が、今、完全に「一人の男性からの溺愛」としてレティシアの心臓を激しく打ち鳴らしていた。
「……っ、はい。お言葉に甘え、本日は……休ませていただきます……」
顔を真っ赤にして、視線を泳がせながらそう答えるのが精一杯だった。
そんなレティシアの耳まで赤く染まった姿を見て、ノアは口元に微かな、しかし確かに満足げな笑みを浮かべるのだった。




