第18話 浮気王太子は勝ったつもりで笑っている
「はははっ! 公証院の小娘め、まだあんな紙切れで私を縛れると思っているのか。実に滑稽だな」
王宮の一角にある、王太子の豪奢な私室。
エドガーは最高級のワインが入ったグラスを傾けながら、見下すような笑い声を上げた。彼の膝の上には、甘い香水を漂わせた男爵令嬢ミレーヌが、すり寄るように身を預けている。
「本当に、しつこくて嫌な女ですわね。愛し合う私たちを、あの手この手で引き裂こうとするなんて」
「気にするな、ミレーヌ。嫉妬に狂ったクラリスが、あの小娘を使って嫌がらせをしているのだろう。だが、真実の愛で結ばれた我々を止めることなど、誰にもできはしない」
エドガーは、先ほど届いたばかりの公証院からの書簡を、テーブルの上に放り投げた。
そこには『建国祭の前に、婚約契約に関する非公開調停の場を設けるため、ご足労いただきたい』と記されていた。
形式上とはいえ、公証院としての最後の確認であり、彼が引き返すための「最後の出口」だった。
しかし、自らが悲劇の障害を乗り越える主人公であると信じて疑わないエドガーにとって、それは無粋な横槍にしか見えなかった。
「大勢の貴族や他国の使節が集まる建国祭の大広間。そこで私は、政略という古い鎖で繋がれたクラリスを断罪し、君との真実の愛を宣言する。古い因習を打ち破る若き王太子の姿に、誰もが心を打たれ、祝福の声を上げるはずだ」
「まぁ……エドガー様、素敵……っ。私、その日が待ち遠しいですわ。あなたが私を選んでくださる、その最高の瞬間が」
ミレーヌがうっとりとした瞳で見つめると、エドガーは満足げに彼女の肩を抱き寄せた。
「愛の証明に、面倒な手順や公証院の許可など不要だ。調停など当然拒否する。あんな呼び出し状は燃やしてしまえ」
エドガーは側近に命じ、拒絶の返書を書き殴らせた。
彼は完全に勝ったつもりだった。自分の権力と、真実の愛という大義名分があれば、契約などという古臭い紙切れは簡単に破り捨てられると、本気で信じ込んでいたのだ。
* * *
同時刻。王立公証院、第一婚前契約相談室。
「……王太子殿下より、調停への出席を完全に拒絶するとのご返答がありました」
レティシア・アーヴィングは、届いたばかりの傲慢な筆致の返書を読み上げると、それを淡々と『説明拒否記録』のファイルの一番後ろに綴じた。
彼女のデスクの上には、エドガーが自らの首を絞めるための完璧な証拠が、すでに山のように積み上げられている。
自ら円満解除の手順を削った、王太子本人の署名入り『条項削除申請書』。
事前の説明を面倒だと突っぱねた『説明拒否記録』。
そして、ノアの部下たちが調べ上げた、婚約財産および王太子費からの、ミレーヌに対する数百万ゴルドに上る『高額贈与記録』の束だ。
「これで、公証院としての義務はすべて果たしました。私どもは『契約の状況を確認し、穏便に済ませるための最後の機会』を確かに提示しました。しかし殿下は、ご自身の意志でそれを拒絶されたことになります」
レティシアの報告に、隣の執務机で書類にサインをしていた王弟殿下ノア・ヴァルトハイムは、氷のように冷たい瞳でふっと鼻を鳴らした。
「愚かな男だ。これで彼は、自分で最後の出口を完全に閉じた」
ノアの低い声が、静かな室内に響く。
「愛や情熱といった見え透いた言葉で自身を飾り立てているが、やっていることはただの契約違反と責任逃れだ。自ら退路を断った以上、もはや誰にも彼を救うことはできない」
ノアは羽ペンを置き、立ち上がってレティシアのデスクへと歩み寄った。
「レティシア。君は彼が建国祭で自滅するのを、ただ見ていればいい」
「はい。契約の原則に則り、事実のみを提示いたします」
レティシアが力強く頷くと、ノアは満足げに目を細めた。
そして、デスクの上に置かれていた『高額贈与記録』の束を指先で叩いた。
「建国祭まで、彼にいい夢を見せ続けてやる義理はないな。私は王族の特権として、王太子費の監査権限を行使する」
「監査権限、ですか?」
「あぁ。公金および婚約財産から、あの男爵令嬢の宝飾品やドレス代として不適切に流用されている資金についてだ。ただちに支払い停止措置をとる」
レティシアはハッと息を呑んだ。
王太子費の支払いが停止されれば、エドガーがミレーヌに買い与えようとしていた品々の決済はすべて滞ることになる。
それは、彼らが信じて疑わない「真実の愛」を支えているのが、実は不当に流用された「お金」に過ぎないという現実を突きつける、極めて冷酷で効果的な一撃だった。
「これで、彼の手元から『自由な資金』が消える。愛だけでどこまで耐えられるか、見物だな」
ノアの唇に浮かんだ笑みは、相手を完膚なきまでに叩き潰す肉食獣のそれだった。
(資金の凍結……。王太子殿下は、ご自身が完璧な計画を進めているつもりでしょうけれど……もう完全に、王弟殿下の手のひらの上で転がされているだけだわ)
レティシアは、これから王太子が直面するであろう現実を思い、少しだけ憐れみを覚えた。
自分たちでルールを破り、警告を無視し、忠告を拒絶した。その結果がどれほど悲惨なものになるか、彼らはまだ気づいていない。
「さて、今日の業務はここまでだ。レティシア」
「えっ、しかし、まだこの書類の整理が――」
「私が片付ける。君はもう休め。これは直轄の総裁としての命令だ」
冷酷な策士の顔から一転、ノアの瞳が途端に甘く、過保護な光を帯びる。
相変わらずの強制的な労働環境管理に、レティシアは先日の夜会の出来事を思い出し、カァッと頬を熱くした。
「わ、分かりました……。お言葉に甘えさせていただきます」
勝ったつもりで笑っている哀れな王太子とは対照的に、レティシアの心は、確かな保護と隠しきれない熱に包まれながら、静かな夜を迎えていた。




