第16話 これは本当に業務命令なのでしょうか
「レティシア様! 私たちの結婚式、最高のものになりそうです!」
王立公証院の第一婚前契約相談室。
パッと花が咲いたような明るい声と共に、三組の男女がにこやかに部屋を訪れた。
辺境伯子息のルカと、薬草院を続けるマリナ。
男爵令息のユージーンと、商会令嬢のリアナ。
そして、騎士のオスカーと、子爵令嬢のネルである。
本来なら接点の少ない彼らだが、この相談室でレティシアの作成した『契約書』に救われたという共通点から、待合室で意気投合し、連れ立って報告に来たらしい。
「レティシア様のおかげです。『特有財産』と『親族介入制限』の条項があったおかげで、義母からの理不尽な要求は完全に止まりました。ユージーン様と二人で、新しい事業の計画を立てているんです」
リアナが嬉しそうにユージーンの腕に寄り添うと、ユージーンも優しく微笑み返した。
「僕たちもです。彼女の薬草院と辺境領の行き来について、費用負担とスケジュールを契約書で明確にしたおかげで、実家の父も納得してくれました。何も心配することなく、結婚の準備を進められています」
ルカの力強い報告に続き、ネルもほんのりと頬を染めながら口を開いた。
「オスカーも、あの日決めた境界線をしっかり守ってくれています。不安なことがあれば、言葉にして話し合えるようになりました。レティシア様が背中を押してくださったおかげです」
次々と浴びせられる、心からの感謝の言葉と、幸せそうな笑顔の数々。
(ああ……よかった。本当に、よかったわ)
レティシアの胸の奥底が、じんわりと温かくなる。
前世の法務部では、契約書は常に「面倒な障害物」として忌み嫌われ、感謝されることなど一度もなかった。
しかし今、彼女が作った『盾』は、彼らの愛を理不尽な干渉や無自覚なすれ違いから守り抜き、確かな幸福へと繋がっていた。
「……私は、ただ公証院の規定に従って、書類を作成しただけです。お二人が逃げずに話し合った結果ですよ」
向けられる純粋な好意に全く慣れていないレティシアは、顔を真っ赤にして視線を泳がせ、手元にあった分厚い規約集で顔の半分を隠した。
「ふふっ、レティシア様は本当にご謙遜なさるのですね」
マリナがくすくすと笑い声を上げた、その時だった。
「――あまり冷やかすな。彼女は褒められ慣れていない」
低く、落ち着いた声が相談室に響いた。
隣の執務室から、漆黒の軍服を纏った王弟殿下、ノア・ヴァルトハイムが静かな足取りで姿を現したのだ。
「そ、総裁閣下!」
「よい、楽にしろ。今日は良き報告に来たのだろう」
慌てて頭を下げるカップルたちを手で制し、ノアは真っ直ぐにレティシアのデスクへと歩み寄った。
そして、極めて自然な動作で、レティシアの手元に温かい湯気を立てるカモミールティーの入ったカップを置く。さらに、彼女が座っている特注の革椅子の背もたれに、ふかふかとした厚手の腰当て付き膝掛けをふわりとかけた。
「少し冷える。足元を温めておけ」
「あ、ありがとうございます、殿下……」
当たり前のように世話を焼かれ、レティシアもおずおずと紅茶に口をつける。
その一連の流れるようなやり取りを見ていたマリナが、目を丸くした後、うっとりとしたような、微笑ましいものを見るような顔になった。
「殿下は……レティシア様に、本当にお優しいのですね」
「えっ!?」
マリナの指摘に、レティシアはむせそうになった。
「ち、違いますマリナ様! これは、王弟殿下の直轄職員に対する、完璧な労務管理の一環で……! 私が体調を崩せば公証院の不利益になるからであって、決してそのような個人的な意味では……!」
必死に前世のブラック企業で培った「業務上の理論」を並べ立てて弁明しようとするレティシア。
しかし、マリナも、リアナも、ネルも。恋をして、愛する人に大切にされている令嬢たちは皆、どこか生温かい、すべてを察したような視線でレティシアを見つめていた。
(え……? な、何? その目は……)
戸惑うレティシアの横で、ノアは否定するどころか、微かに口角を上げ、レティシアの頭をぽん、と優しく撫でた。
「彼女は優秀だが、自分を守ることに関してはひどく無頓着でね。私がこうして目を光らせていなければ、すぐに倒れるまで働こうとする。困ったものだ」
その声の響きは、厳格な上司のそれではなく、愛おしいものを慈しむ、甘く熱を帯びたものだった。
(……えっ)
レティシアの心臓が、トクン、と大きく跳ねた。
特注の椅子。専属の近衛騎士。夜会での公の場での保護。そして、今の甘い眼差し。
これまでずっと、「自分の有能さが買われた結果の、超ホワイトな待遇」だと必死に思い込もうとしてきた。
けれど、目の前にいる幸せなカップルたちの姿と、彼らの放つ空気感が、レティシアの鈍い感情を否応なく揺さぶる。
(私にだけ向けられる、この過剰なまでの保護は……これは本当に、ただの『業務命令』なのだろうか……?)
初めて明確にノアという存在を「異性」として意識してしまい、レティシアの顔は耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まった。
規約集で顔を完全に隠し、プルプルと震え始めたレティシアを見て、ノアは満足げに目を細めた。
* * *
幸せな報告を終えたカップルたちを見送り、レティシアがまだ熱の引かない頬を手で仰いでいた時のことだ。
公証院の受付の者が、一通の封書を持って相談室へ入ってきた。
「レティシア様。差出人不明ですが、当相談室宛てに親展でお手紙が届いております。……封蝋に、公爵家の紋章が」
「公爵家の?」
レティシアは訝しげに封書を受け取り、ペーパーナイフで丁寧に開封した。
中に入っていたのは、上質な便箋が一枚だけ。
そこに記された流麗な文字を見た瞬間、レティシアの顔から先ほどの熱がスッと引き、法務部としての冷徹な顔つきへと戻った。
「……殿下」
レティシアの声のトーンが変わったことに気づき、ノアも静かに歩み寄る。
「どうした」
「……王太子殿下の婚約者であられる、公爵令嬢クラリス様からでした。『至急、秘密裏にお会いしてご相談したい件がある』と」
夜会で、自分たちを静かに見つめていたあの令嬢の姿が脳裏をよぎる。
個人の幸せな愛の守護から、国を揺るがす巨大な契約の破綻へ。
王立公証院の第一婚前契約相談室に、かつてないほどの嵐が近づいていることを、レティシアは肌で感じ取っていた。




