第15話 不吉な令嬢、夜会で王弟殿下に囲われる
「君が、あの噂の『不吉な令嬢』か。随分と地味な顔をしているな」
シャンデリアが眩く輝く、王宮の大広間。
華やかな夜会の喧騒の中、壁際で息を潜めていたレティシア・アーヴィングの前に、一組の男女が立ち塞がった。
金糸のように輝く髪と、自信に満ち溢れた傲慢な笑み。第一王位継承者である王太子エドガーと、その腕にこれ見よがしに絡みつく愛らしい男爵令嬢、ミレーヌだ。
「お初にお目にかかります、王太子殿下」
レティシアは小さくため息をつきそうになるのを堪え、完璧なカーテシーで一礼した。
今日は公証院の職員としてではなく、伯爵令嬢としての参加義務があったため、やむを得ず足を運んでいたのだ。
エドガーはレティシアを値踏みするように見下ろし、鼻で笑った。
「公証院で、婚約者たちに『破談の契約』を無理強いしていると聞いたぞ。せっかくの愛の誓いに水を差すとは、なんとも無粋で寂しい女だ。君自身が誰からも愛されないからといって、他人の愛まで契約という鎖で縛ろうとするのは感心しないな」
「本当に。愛に契約書だなんて、寂しい方……」
ミレーヌが、エドガーの腕に胸を押し当てながら、同情するような、けれど明確に優越感に浸った声でクスクスと笑った。
「私たちには、そんなもの必要ありませんわ。だってエドガー様と私は、魂で惹かれ合う『真実の愛』で結ばれていますもの。愛し合っていれば、細かい契約やルールなんてなくても、心は一つですわ」
「その通りだ、ミレーヌ。契約など、相手を信用していない証拠。そんな不吉な紙切れを作るから、破談になるのだ」
(出たわね。前世でもよくいた『愛だの絆だのというフワッとした言葉で、責任とリスクから目を背ける』タイプの典型だわ)
レティシアは内心で冷ややかに分析していた。
彼らが語る「愛」は、自分たちに都合の良い感情の昂りに過ぎない。出口のない部屋に鍵をかけ、「ずっと一緒にいるから鍵の開け方なんて知らなくていい」と言っているのと同じだ。
だが、相手は王太子である。ここで論破したところで、角が立つだけだ。
「殿下のおっしゃる通りかもしれません。私のような不吉な者の言葉は、皆様の耳障りになるだけでしょう。それでは、私はこれで――」
レティシアが波風を立てずにその場を立ち去ろうとした、その時だった。
「――ならば、その不吉な令嬢の言葉を理解できない貴様らの耳が、ただの飾りだということだろう」
氷のように冷たく、けれど広間の空気を一瞬で支配する絶対的な声。
モーゼの十戒のように貴族たちが慌てて道を空けたその先から、漆黒の夜会服を纏った王弟殿下、ノア・ヴァルトハイムがゆっくりと歩み寄ってきた。
「叔父上……」
エドガーの顔から余裕が消え、露骨な不快感が浮かぶ。ミレーヌも怯えたように王太子の背後に隠れた。
ノアはエドガーを一瞥すらせず、レティシアの隣にピタリと立ち、彼女の腰にそっと手を添えた。
「で、殿下……?」
突然の主君の登場と、腰に触れる大きな手の熱に、レティシアは思わず目を丸くした。
「愛を口実にして責任から逃げるのは、愚か者の常だ」
ノアはエドガーを見据え、冷酷に言い放った。
「彼女の作る契約書を最後まで読める女は貴重だ。私は、薄っぺらい愛の言葉を囁くだけの女より、現実の責任を背負える彼女の隣がいい」
「なっ……! 叔父上、たかが公証院の窓口係の小娘一人に、そこまでおっしゃるのですか!?」
公衆の面前で愛人ごと侮辱されたエドガーは、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
周囲の貴族たちが息を呑む中、ノアの瞳が、ふっと薄暗い殺気を帯びて細められた。
「彼女は私の『直轄』だ」
その低く重い声は、王太子を、そして広間にいる全ての貴族を威圧するに十分な力を持っていた。
「私の直轄である彼女を軽んじるなら、王立公証院総裁であり、王弟であるこの私を軽んじたものと見なす。エドガー、その言葉の意味が分からないほど、お前の頭は軽くはないと思いたいが?」
「っ……!!」
絶対的な権力と正論による牽制。
エドガーはギリッと歯を食いしばり、これ以上何も言い返せなくなった。ミレーヌの腕を乱暴に引き、逃げるようにその場から立ち去っていく。
嵐が去った広間には、異様な静寂が落ちていた。
周囲の貴族たちは、王弟殿下が地味な伯爵令嬢をこれほどまでに過激に庇護した事実に衝撃を受け、遠巻きに二人を見つめている。
「……見苦しいものを見せたな、レティシア」
ノアは、先ほどまでの冷酷な表情をスッと消し、レティシアを見下ろした。
その瞳の奥には、彼女を誰にも触れさせまいとする、暗く重い独占欲がはっきりと渦巻いていた。
「あ、あの、殿下。助けていただいたのは光栄ですが、いくらなんでも王太子殿下にあそこまで……」
「気にするな。公証院のトップとして、部下を守ったまでだ」
ノアはそう言いながら、レティシアの前に恭しく手を差し出した。
「一曲、どうだ?」
「えっ!? だ、ダメです、私なんかが殿下と踊るなんて、目立ちすぎます!」
「もう手遅れだ。私の直轄であることを、これ以上ないほど公に示しておいた方が、今後君に絡む虫を減らせるだろう?」
有無を言わせぬノアの言葉と、真っ直ぐに差し出された手。
レティシアは戸惑いながらも、その手を取る以外の選択肢を持っていなかった。
広間の中央に滑り出た二人に、楽団が優雅なワルツを奏で始める。
ノアの大きな手がレティシアの腰を抱き寄せ、もう一方の手が彼女の手をしっかりと握り込んだ。
(こ、これは……業務上の保護よ。私が舐められたら、公証院の、ひいては殿下の面子が潰れるから……。完璧なリスクマネジメントの一環だわ!)
前世のブラック企業精神を引きずっているレティシアは、至近距離で見つめてくるノアの美貌と、彼から伝わる雄の熱気に当てられそうになるのを、必死の言い訳でごまかそうとしていた。
しかし、ノアの優しいリードでくるりと回るたび、彼の香水の香りが鼻腔をくすぐり、心臓が今までにないほど早鐘を打っている。
「……今日の君も、悪くない」
耳元で低く囁かれたその言葉に、レティシアの顔は一瞬で林檎のように真っ赤に染まった。
それはもう、どんな言い訳をしても「業務命令」で片付けられるような感情ではなかった。
そして、広間が華やかなワルツの旋律と、王弟殿下の圧倒的な溺愛の空気に包まれる中。
フロアの片隅、薄暗い柱の陰から、その様子を静かに、ただ静かに見つめている一人の令嬢がいた。
王太子エドガーの正式な婚約者である、公爵令嬢クラリス。
彼女は手に持った扇で口元を隠し、冷え切った瞳でエドガーの後ろ姿を、そしてレティシアの姿をじっと観察していた。




