第13話 契約のせいで別れた、という嘘
「見ろ、レティシア君! 君が余計な条項を勧めたせいで、この哀れな令嬢の婚約が見事に壊れたぞ!」
王立公証院の第一婚前契約相談室。
バンッ、と乱暴に扉が開け放たれ、ボルトン次長が勝ち誇ったような大声を上げた。その後ろには、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる小柄な令嬢――アイラが立っていた。
ボルトンは、数日前にノアの命令で『相談窓口』が直轄化されたことを未だに根に持っていた。何とかしてレティシアの失敗を見つけ出し、この相談所を閉鎖に追い込みたいのだろう。
「愛し合う二人に『協議解除条項』などという不吉なものを組み込ませるから、些細な喧嘩で簡単に別れを選ぶことになってしまったのだ! 君の作成した契約書が、彼女の幸せを無残に打ち砕いたということがまだ分からんのか!」
「…………」
ボルトンのヒステリックな怒鳴り声を聞きながら、レティシア・アーヴィングは氷のような無表情を保っていた。
(あぁ、前世の営業部長もよく言っていたわ。『法務が細かい規約を作るから、顧客が離れていくんだ』って)
自分の確認不足や見通しの甘さを棚に上げ、すべての責任を「契約書」という物理的な紙切れと、それを作った人間に押し付ける。
だが、契約書は魔法の道具ではない。人の心を変えることはできないし、ないものをあるようには見せられない。ただ、事実を写し出す鏡であり、いざという時の盾に過ぎないのだ。
レティシアは手元のキャビネットから、アイラの名前が記された書類の束を抜き出した。
「ボルトン次長。結論を急ぐ前に、事実関係の確認をさせてください。……アイラ様。こちらの記録によりますと、あなたは昨日、元婚約者のダグラス様に対して正式な『協議解除』を申し立て、受理されていますね?」
「は、はい……っ」
「次長は『些細な喧嘩』と仰っていますが、本当にそうだったのでしょうか。あなたが婚約を解除しようと決断した、本当の理由はなんですか?」
レティシアの静かでフラットな声に、アイラはビクッと肩を震わせた。
ボルトンが「言わなくていい! 君はただ騙されて――」と遮ろうとしたが、レティシアは冷たい視線で彼を射抜いて黙らせた。
「お答えください、アイラ様。この場は王弟殿下の直轄相談室です。あなたの言葉はすべて公的に保護されます。誰もあなたを害することはできません」
その言葉に背中を押されるように、アイラはゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた瞳には、恐怖と、それ以上の深い安堵が入り交じっていた。
「ダグラス様は……外ではとても優しくて紳士的でした。でも、二人きりになると、言葉の暴力が酷かったのです。私を『頭が悪い』『俺に養ってもらうしかないくせに』と罵り……」
アイラの言葉に、ボルトンの顔色が変わった。
「さらに先日、私が両親から持たされた大切な持参金を、『俺の事業の借金返済に回せ』と強要してきました。断ると、手を上げられそうになって……っ」
「なっ……!?」
「でも、私にはレティシア様が作ってくださった契約書がありました。『持参金分別管理条項』を盾にして支払いを拒絶し、『協議解除条項』の手順に則って、両親を通じて安全に彼との婚約を解消することができたのです」
アイラはレティシアに駆け寄り、その両手でレティシアの手をきつく握りしめた。
「レティシア様! もしあの時、あなたが『最悪の場合』の話をしてくださらなかったら……もしあの条項が契約書になかったら、私は借金まみれの彼に搾取され、一生暴力に怯えて生きていくことになっていました! 私を救ってくださって、本当にありがとうございます……っ!」
「……ええ。お怪我がなくて、本当によかったです」
レティシアは、アイラの震える手を優しく握り返した。
「ば、馬鹿な! 相手は由緒正しき伯爵家の令息だぞ! 何かの間違いだ!」
ボルトンが慌てて否定しようとした、その瞬間だった。
「間違いだと? ならば、その伯爵令息の裏帳簿と、数々の借用書を見てみるか?」
室内の空気を一瞬で凍りつかせる、絶対零度の声。
扉の枠に寄りかかるようにして立っていたのは、漆黒の軍服を纏った王弟殿下、ノア・ヴァルトハイムだった。
「そ、総裁閣下……!?」
「私の直轄相談室に言いがかりをつける暇があるなら、裏付け調査くらいまともにやったらどうだ、ボルトン次長」
ノアはボルトンを見下ろし、ゴミでも見るような冷酷な視線を向けた。
「そのダグラスという男の素行不良と借金については、すでに私の部下が裏を取っている。アイラ嬢の言う通りだ」
「ひっ……!」
「アイラ嬢」
ノアはアイラに向き直ると、少しだけ声を和らげた。
「よく勇気を出して決断した。元婚約者が君に近づけないよう、私から王立公証院の権限において、正式な『接近禁止命令』を手配しておこう」
「殿下……! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
アイラは何度も深く頭を下げた。
完全に面目を潰され、自らの無能さを王弟殿下の前で露呈してしまったボルトンは、顔を真っ赤に、そして真っ青にしながら、這々の体で相談室から逃げ出していった。
* * *
アイラが安心した笑顔で帰った後。
相談室には、レティシアとノアの二人だけが残された。
「……お見事でした、殿下。迅速な調査と接近禁止の手配、本当に助かりました」
「私など何もしていない。君が、彼女を守るための完璧な『盾』をあらかじめ用意していたからこそ、彼女は逃げることができたのだ」
ノアはそう言いながら、レティシアのデスクに、温かいミルクティーの入ったカップをそっと置いた。
「契約書が愛を壊したのではない。破綻した愛から、彼女の人生を守ったのだ」
ノアの低く穏やかな声が、静かな室内に響き渡る。
「君の仕事は、人を救っている」
その言葉は、レティシアの胸の奥底に突き刺さったままだった前世の棘を、静かに引き抜いていくようだった。
前世では、どれだけリスクを説明しても「縁起でもない」と笑われ、問題が起きれば「お前のせいだ」と責められた。
けれど今、自分が作った契約書が、一人の令嬢の人生を地獄から救い出した。
そして目の前の冷徹で偉大な上司が、その価値をはっきりと肯定してくれている。
「……はい」
レティシアは、胸の奥から込み上げてくる熱いものを必死に堪えながら、ノアが淹れてくれた温かいミルクティーを一口飲んだ。
その甘さが、じんわりと心の中まで溶けていくのを感じながら、レティシアは小さく、けれど確かな誇りを持って微笑んだ。




