第12話 前世の法務部も、縁起でもないと笑った
「だから、契約書なんて堅苦しいものは必要ないと言っているのだ! 愛し合う二人の門出に、最初から破談の話をするなど、本当に縁起でもない!」
王立公証院の第一婚前契約相談室。
恰幅の良い年配の貴族が、顔を真っ赤にしてテーブルを叩き、レティシアに向かって怒鳴り声を上げていた。
彼は息子の婚約契約に付き添ってきたものの、レティシアが提示した『協議解除条項』の説明を聞くや否や、火のついたように怒り出したのだ。
「縁起でもない」
その言葉を聞いた瞬間、レティシアの脳裏に、ひどく冷たくて暗い、前世の記憶がフラッシュバックした。
『最初から取引が失敗した時の話をするなんて、縁起でもない!』
『法務部は理屈ばかりで、営業の邪魔をしているのが分からんのか!』
前世、大企業の法務部で契約審査担当として働いていた時のことだ。
レティシアは、会社を守るため、そして取引先との泥沼のトラブルを防ぐために、契約書のリスクを必死に説明し続けた。
しかし、営業部の人間や上司たちは、彼女の警告を「話を長引かせるな」「空気を読め」と笑って一蹴した。
そして、いざ最悪の事態が発生した時。
説明を拒否し、強引にハンコを押させた営業担当者たちは一目散に逃げ出した。
『法務のチェックが甘かったからだ!』『もっと強く止めるべきだった!』と、すべての責任をレティシア一人に押し付けて。
連日の理不尽なクレーム対応、終わらない書類の山、誰にも助けてもらえない孤独な深夜のオフィス。
心身ともに擦り切れ、最後は自席で倒れて、そのまま――。
(……あ、ダメ)
現世の王立公証院の面談室。
目の前で貴族が喚き散らしているというのに、レティシアの視界は歪み、呼吸が急に浅くなった。
(しっかりしなきゃ。私は公証院の事務官なんだから。前世と同じじゃない、ここは……)
必死に自分に言い聞かせるが、膝の上で握りしめた手が、意思に反して小刻みに震え始めていた。
前世の過労死という強烈なトラウマが、身体的な恐怖となって現れてしまったのだ。
冷や汗が背中を伝う。声を出そうにも、喉が干からびたように張り付いて音にならない。
「おい、聞いているのか小娘! さっさとその不吉な書類を片付けろ!」
男がさらに声を荒げ、レティシアに向かって腕を振り上げた、その時だった。
「――そこまでだ」
低く、ひどく冷酷な声が室内に響き渡った。
レティシアの震える肩を、背後から大きな手がそっと、しかし力強く包み込む。
「で、殿下……!?」
振り返った貴族が、悲鳴のような声を上げて後ずさった。
そこに立っていたのは、漆黒の軍服に身を包んだ王弟殿下、ノア・ヴァルトハイムだった。
彼の氷のような瞳は、怒鳴り散らしていた貴族を文字通り射殺さんばかりの冷気で睨みつけている。
「私の直轄である相談室で、無意味な大声を出すなと通達したはずだが。それとも、私の定めた標準契約の手順に、何か不服でもあるのか」
「ひっ……! い、いえ! 決してそのような……っ!」
「ならば即刻立ち去れ。二度とこの部屋の敷居を跨ぐな」
絶対的な権力と殺気に当てられ、貴族は這々の体で逃げ出していった。
嵐が去り、静寂が戻った室内。レティシアは、まだ浅い呼吸を繰り返しながら、ガタガタと震える手を必死に抑え込もうとしていた。
「申し訳ありません、総裁閣下……。私としたことが、少し、目眩が……」
「無理に喋るな」
ノアは、レティシアの震える手を痛ましいものを見るような目で見つめた。
彼は有無を言わせぬ手つきでレティシアの腕を引くと、彼女を立たせた。
「来い」
「えっ? あ、あの、まだ午後の業務が……」
「業務命令だ。ついてこい」
ノアに手を引かれ、レティシアが連れて行かれたのは、公証院の最奥にある、最も警備が厳重で広々とした『総裁執務室』だった。
ノアは部屋の中央にある、来客用の最高級のベルベット製ソファにレティシアを座らせた。
「殿下、ここは……」
「座ったまま待っていろ」
ノアは執務机の奥へ向かうと、すぐに温かい湯気を立てるカモミールティーを淹れ、レティシアの手に握らせた。
カップから伝わる温もりと、心を落ち着かせるハーブの香りが、レティシアの凍りついていた感覚を少しずつ溶かしていく。
「……ありがとうございます」
震えがようやく治まり、レティシアは小さく息を吐いた。
「顔色が紙のようだった。何があったか、話したくなければ話さなくていい。だが、君が限界を超えてまで執務室に座り続けることは、私が許さない」
ノアはソファの隣に腰を下ろし、真っ直ぐにレティシアを見つめた。
その瞳には、いつもの冷徹さは微塵もなく、隠しきれないほどの深い心配と愛情が揺らいでいる。
「殿下……私は、大丈夫です。ただ、少し昔のことを思い出してしまっただけで……。すぐに戻って、書類の作成を――」
立ち上がろうとしたレティシアの肩を、ノアの手が優しく、けれど絶対に逃がさない強さで押さえた。
「ダメだ。君は今日、このソファで休め」
「えっ!? しかし、それは給金泥棒になってしまいます! 私は働かなければ……!」
前世の『倒れるまで働け』という呪縛が、レティシアの口から悲鳴のような反論を絞り出させる。
しかしノアは、そんな彼女の異常なほどの自己犠牲精神を危惧するように、静かに、そしてきっぱりと告げた。
「休むことも、君の職務に入れるべきだ」
「…………え?」
レティシアは、目を丸くして完全に固まった。
「疲労した状態で業務を行えば、いずれ致命的なミスを招く。私の直轄である君が倒れることは、公証院にとって最大の損失だ。だから、君の安全と健康を維持するために、今はここで眠れ。これは総裁としての業務命令だ」
(休むことが、職務……? 眠るのも、業務命令……?)
前世のブラック企業に完全に毒されていたレティシアの脳は、ノアのあまりにもホワイトすぎる――というより、過保護すぎる労働理論を処理しきれず、激しくフリーズ(処理落ち)を起こしていた。
「な、なるほど……高度なリスクマネジメントですね……」
「……君がそう解釈するなら、それでいい」
ノアは小さくため息をつきながらも、どこか安堵したように口角を微かに上げた。
そして、彼が自ら愛用している肌触りの良い上質な外套を、レティシアの肩にふわりと掛けた。
「私がここで書類仕事をしている。誰も入れないから、安心して目を閉じろ」
「は、はい……」
温かいカモミールティーと、ノアの外套から香る落ち着いた微かな香水。
そして何より、「休んでもいい」という絶対的な肯定。
レティシアの身体から急速に力が抜け、強烈な睡魔が彼女を襲った。抗うこともできず、彼女はそのままソファに身を預け、深い眠りへと落ちていった。
(……全く。君は他人を守る契約には敏い癖に、自分を守ることにはひどく無頓着だ)
静かな寝息を立て始めたレティシアの寝顔を見つめながら、ノアは静かに目を細めた。
彼女の抱えるトラウマの深さは計り知れない。ならば、自分が物理的に彼女を縛り、守るしかない。
(これからは、私が君の勤務時間を完全に管理する)
王弟殿下という絶対の権力を用いて、愛する令嬢の労働環境をさらに過保護に囲い込む決意を固めながら、ノアはそっと彼女の頬にかかった髪を撫でた。




