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20/21

第20話「俺の店だけ、世界のルールが違う」

世界を救うか。


 アリシアを、永遠に失うか。


 監査官エリオットは、そう尋ねた。


 俺の目の前では、赤い文字が明滅している。


【共同管理制度:実行中】


【管理者権限:分割処理中】


【個人契約の失効を検知】


【対象者:アリシア】


【第零境界領域との接続:切断待機】


 残り時間は、四十七秒。


 俺は、空を見上げた。


 銀髪の監査官は、いつもどおり穏やかに微笑んでいた。


『さあ、レオンさん。お答えください』


 俺は、深く息を吸った。


「……その前に、一つ質問していいですか?」


『どうぞ』


「今の処理、取り消せます?」


『いいえ。管理者による権限放棄は、すでに受理されています』


「そうですか」


『残念でしたね』


「いえ」


 俺は、首を振った。


「むしろ、安心しました」


 エリオットの笑顔が、わずかに止まった。


『……何が、ですか?』


「俺の意思で取り消せないなら、ベルク商会にも取り消せない」


 俺は、足元の石畳を見た。


 白い光が、王都の隅々まで走っている。


 この街に住む人々が、自分の意思で受け入れた規則。


 そして、三十六人の補助管理者が引き受けた責任。


 それは、もう俺一人のものではなかった。


「世界を守る仕組みは、できたんですよね?」


『……共同管理制度の成立後であれば』


「なら、問題は一つです」


 俺は、帳簿を開いた。


「アリシアとの契約を、どうするか」


『不可能です』


 エリオットは、即答した。


『管理者権限を失えば、個人契約の維持はできません』


「ええ。そこは理解しています」


『では、なぜ』


「契約を維持する必要が、本当にあるんですか?」


 沈黙。


 俺は、顔を上げた。


「アリシアは、契約そのものじゃない」


 エリオットの瞳が、細くなった。


「彼女は、生きている人間です」


     *


 商売をしていると、時々、奇妙な勘違いに出会う。


 契約書があるから、商品が存在する。


 帳簿に数字があるから、利益が生まれる。


 そんなふうに考える人がいる。


 もちろん、違う。


 商品があるから、契約する。


 取引があるから、帳簿に記録する。


 書類は、現実を管理するための道具だ。


 現実そのものじゃない。


 俺は、視界に浮かぶ文字を指差した。


「ここに書いてありますよね」


【対象契約:境界維持補助契約】


【対象者:アリシア】


【接続維持:不可能】


「失効するのは、契約です」


『……そうですが』


「アリシアの存在が消えるとは、書いていない」


 エリオットの笑顔が消えた。


『第零境界領域との接続が切れれば、彼女を回収する手段はありません』


「今の方法では、ですよね?」


『……何をおっしゃりたいのですか』


「別の方法で迎えに行けばいい」


『そのような方法は存在しません』


「本当に?」


 俺は、帳簿を閉じた。


「あなたが知らないだけじゃなくて?」


 その瞬間。


 エリオットの周囲に、黒い文字が走った。


【監査官権限による照会】


【第零境界領域への接続方法:該当なし】


『ご覧のとおりです』


 俺は、頷いた。


「ありがとうございます」


『……何がですか?』


「今の記録、いただきました」


 俺は、にやりと笑った。


「該当なし、なんですね」


『……はい』


「禁止ではなく?」


 エリオットが、黙った。


 俺は続けた。


「あなたはさっき、存在しないと言った。でも、記録にあるのは『該当なし』です」


『同じことです』


「商人にとっては、全然違います」


 俺は、空を見据えた。


「在庫がないのと、取り扱いを禁止されているのは、別の話ですから」


 エリオットは、答えなかった。


 その沈黙を破ったのは。


「……レオン!」


 美咲だった。


 彼女が、息を切らして駆け寄ってきた。


「今の会話、聞こえた!」


「美咲?」


「第零境界領域への接続方法が『該当なし』って、本当?」


「ああ」


 美咲の顔色が変わった。


「……それ、重要かもしれない」


「どういうことだ?」


「管理機構には、管理者用の転送経路と、一般の転送経路があるの」


 俺は、息をのんだ。


「一般の?」


「昔、私たちが作った実験設備では、管理者権限がなくても物資を移動できる仕組みがあった」


 美咲は、震える声で続けた。


「ただし、転送先が受け取りを承認した場合に限る」


 俺は、目を見開いた。


「……つまり」


「管理者としては行けなくても、荷物としてなら送れる可能性がある」


 俺は、しばらく黙った。


 そして。


「……美咲」


「何?」


「今、すごく嫌な言葉を使ったな」


「……え?」


「人間を荷物扱いするな」


 美咲は、目を丸くした。


 それから、苦笑した。


「……そうだったね」


 俺は、頷いた。


「でも、発想はいい」


 そして、空を見上げた。


「荷物じゃなくて、お客様ならどうだ?」


     *


【管理権保持期限:残り三十秒】


 時間がない。


 俺は、視界に向かって命じた。


 転送履歴を表示。


【管理者権限:失効処理中】


【閲覧可能な記録:限定】


 俺は、舌打ちした。


 ……急げ。


 アリシアの転送記録。


【対象者:アリシア】


【転送元:第七境界領域】


【転送先:第零境界領域】


【状態:生存】


【転送方式:境界維持補助契約】


【受領者:第零境界管理機構】


 受領者。


 俺は、その文字を見つめた。


 ……そうか。


 アリシアは、消えたんじゃない。


 向こう側に、受け取られたんだ。


 なら。


 取り戻す方法は、一つある。


 返品。


 いや、違う。


 そんな言い方をしたら、アリシアに怒られる。


 俺は、深く息を吸った。


「エリオット」


『……何でしょう』


「第零境界管理機構へ、連絡できますか?」


『可能ですが、何のために?』


「正式な問い合わせです」


『……問い合わせ?』


「ええ」


 俺は、胸を張った。


「そちらで預かっているアリシアという女性について、本人の意思を確認したい」


 エリオットが、目を細めた。


『彼女は、契約に基づいて転送されています』


「契約は、これから失効するんですよね?」


『……はい』


「だったら、契約終了後の扱いを確認するのは当然でしょう」


 俺は、続けた。


「契約がなくなった後も、本人の意思に反して拘束するんですか?」


 エリオットの表情が、わずかに変わった。


『……そのような規定は』


「ない?」


『……確認が必要です』


「お願いします」


 俺は、笑った。


「うちは、契約終了後の引き渡しまで、きちんと対応する主義なので」


 その瞬間。


 視界に、新しい文字が浮かんだ。


【第零境界管理機構への照会を受理】


【照会内容:契約失効後の対象者処遇】


【回答待機】


 ……よし。


 少なくとも、問い合わせは通った。


 だが。


【管理権保持期限:残り二十秒】


 時間は、止まらない。


 エリオットが、静かに言った。


『残念ですが、回答が届く前に接続は切断されます』


 俺は、頷いた。


「でしょうね」


『……それでも、続けるのですか?』


「はい」


『なぜ?』


 俺は、彼を見た。


「問い合わせの受付番号が残れば、契約が切れても、案件は残るでしょう?」


 エリオットは、黙った。


 俺は、笑った。


「管理者権限は失っても、問い合わせをした人間は消えませんから」


 その瞬間。


【照会受付番号:0000001】


【申請者:仁科玲央】


【申請者区分:一般利用者】


 俺は、息をのんだ。


 ……一般利用者。


 やった。


 これは、管理者としての申請じゃない。


 ただの人間としての問い合わせだ。


 俺が権限を失っても、残る。


 そのとき。


 視界に、文字が浮かんだ。


【共同管理制度:権限分割完了】


【管理者R-017:権限喪失】


【共同管理機構:稼働開始】


 俺の体から、力が抜けた。


 膝が、石畳につく。


 周囲の光が、一瞬だけ揺れた。


 だが。


 消えなかった。


 王都を覆う白い境界は、そのまま残っている。


【共同管理機構:正常稼働】


【補助管理者:三十六名】


【境界維持:継続】


 俺は、笑った。


「……よかった」


 世界は、まだここにある。


 そして。


 俺も、まだここにいる。


     *


「……あり得ない」


 エリオットが、呟いた。


 俺は、顔を上げた。


「何がですか?」


『管理者が権限を放棄したにもかかわらず、境界が維持されている』


「ええ」


『過去六回の試行では、すべて失敗した』


「そうらしいですね」


『なぜ、今回は』


「簡単ですよ」


 俺は、王都を見渡した。


 白い光の下。


 人々が、互いに手を貸している。


 倒れた荷車を起こす兵士。


 泣いている子供に水を渡す魔族の女性。


 怪我人を運ぶ冒険者。


 そして。


 小さな体で、母親を支えているミロ。


「俺一人で、全部やろうとしなかったからです」


 エリオットは、黙った。


「最初から、店を続けるのは一人じゃ無理だった」


 俺は、笑った。


「仕入れをしてくれる人がいて、商品を運んでくれる人がいて、働いてくれる仲間がいて」


 そして。


「何より、来てくれるお客様がいる」


 俺は、空を見上げた。


「店って、そういうものでしょう?」


 そのとき。


 王都の中心から、大きな歓声が上がった。


「……光が消えない!」


「助かったのか!」


「俺たち、生きてるぞ!」


 人々が、抱き合っていた。


 俺は、胸が熱くなった。


 ……守れた。


 少なくとも、今は。


 だが。


 そのとき。


 空に、巨大な文字が浮かんだ。


【管理権移転審査:処理不能】


【移転対象の単独管理権限が存在しません】


【ベルク商会への管理権移転:失敗】


 俺は、思わず笑った。


「……ああ」


 そして。


「そういえば、そんな話もありましたね」


 遠くで、マルセルの絶叫が聞こえた気がした。


     *


 だが、喜んでばかりもいられなかった。


 空の亀裂は、まだ消えていない。


 共同管理機構が守っているのは、王都だけだ。


 世界全体ではない。


 それに。


 アリシアは、まだ帰ってきていない。


 俺は、立ち上がろうとした。


 だが、足に力が入らない。


「……レオン様!」


 セレスティアが、駆け寄ってきた。


「無理をしないでください!」


「……すみません」


「本当に、あなたという人は!」


 彼女は、俺の肩を支えた。


 その目には、涙が浮かんでいた。


「……もう、勝手に消えようとしないでください」


 俺は、息をのんだ。


「……セレスティア」


「アリシアさんを迎えに行くのでしょう?」


「……はい」


「なら」


 彼女は、俺をまっすぐ見た。


「あなたも、必ず帰ってきてください」


 俺は、ゆっくり頷いた。


「……約束します」


 そのとき。


 背後から、声がした。


「約束は、慎重にしたほうがいい」


 俺は、振り返った。


 そこには、二百年前の俺が立っていた。


 初代管理者の記録。


 彼は、静かに王都を見渡していた。


「……驚いたな」


「何がですか?」


「本当に、共同管理を成立させるとは」


 男は、少しだけ笑った。


「私は、最後まで思いつかなかった」


 俺は、首を振った。


「俺一人じゃ、無理でした」


「……そうだろうな」


 男は、しばらく黙っていた。


 そして。


「だが、まだ終わっていない」


 俺は、頷いた。


「分かっています」


「第零境界領域は、管理機構の中枢だ」


 男は、空の亀裂を見上げた。


「そこには、私たちが失敗した理由が残されている」


「……何があるんですか?」


 男は、俺を見た。


「最初の店だ」


 俺は、息を止めた。


「……最初の?」


「ああ」


 男は、静かに言った。


「二百年前、私が最初に開いた店」


 俺は、眉をひそめた。


「……でも、その店は」


「消えたと記録されている」


 男は、頷いた。


「だが、実際には違う」


 そして。


「第零境界領域へ、移されたんだ」


 俺は、言葉を失った。


「……店ごと?」


「ああ」


 男は、静かに笑った。


「店の中にいた人間も、商品も、契約も、すべて」


 俺は、息をのんだ。


「……それじゃあ」


「アリシアは、そこにいる」


 男は、俺を見据えた。


「そして、おそらく」


 少しだけ、声を落とした。


「二百年前の私が、救えなかった人間も」


     *


 そのとき。


 俺の視界に、文字が浮かんだ。


 いや。


 違う。


 もう、管理者権限はない。


 これは、俺だけに見える文字じゃない。


 王都の空に。


 誰もが読める形で、文字が現れていた。


【第零境界管理機構からの回答】


【照会受付番号:0000001】


【申請者:仁科玲央】


【照会内容:契約失効後の対象者処遇】


【回答:本人の意思確認が必要】


 俺は、息を止めた。


 ……来た。


 回答が、来た。


 さらに、文字が続く。


【対象者:アリシア】


【状態:生存】


【契約失効後の拘束根拠:なし】


【本人の帰還意思:確認中】


 俺は、拳を握った。


 ……よし。


 少なくとも、アリシアを拘束する理由はない。


 だが。


 どうやって、帰ってくる?


 そのとき。


 空に、新しい文字が浮かんだ。


【対象者からの応答を受信】


【送信者:アリシア】


 俺は、息をのんだ。


 ……アリシア。


 そして。


 彼女の声が、王都全体に響いた。


『……レオン?』


 俺は、目を見開いた。


「……アリシア!」


『……聞こえる?』


「ああ!」


 俺は、叫んだ。


「聞こえる!」


 少しの沈黙。


 そして。


『……よかった』


 彼女の声が、震えていた。


『あなたが、無事で』


 俺は、胸が熱くなった。


「……そっちこそ」


 俺は、笑おうとした。


 だが、うまく笑えなかった。


「……本当に、生きてるんだな」


『うん』


 彼女は、静かに答えた。


『生きてる』


 俺は、目を閉じた。


 ……よかった。


 本当に。


 そのとき。


 アリシアが、続けた。


『……レオン』


「何だ?」


『こっちに、あなたの店がある』


 俺は、息を止めた。


「……何?」


『古い店。あなたが、最初に開いた店』


 俺は、初代管理者を見た。


 彼は、黙って頷いた。


 アリシアの声が、続く。


『でも』


 その声が、少しだけ低くなった。


『ここには、もう一人いる』


 俺は、息をのんだ。


「……誰だ?」


 長い沈黙。


 そして。


『……私と、同じ顔の人』


 俺は、言葉を失った。


 ……何?


『その人が、言ってる』


 アリシアの声が、震えた。


『レオンを、絶対にここへ来させるなって』


 俺は、拳を握った。


「……どうして?」


 アリシアは、答えなかった。


 代わりに。


 別の声が、響いた。


『……久しぶりね、レオン』


 女の声だった。


 アリシアと、よく似ている。


 だが。


 どこか、違う。


『二百年ぶり』


 俺は、息を止めた。


 そして。


 その女は、静かに言った。


『今度こそ、私を選んでくれる?』

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