第20話「俺の店だけ、世界のルールが違う」
世界を救うか。
アリシアを、永遠に失うか。
監査官エリオットは、そう尋ねた。
俺の目の前では、赤い文字が明滅している。
【共同管理制度:実行中】
【管理者権限:分割処理中】
【個人契約の失効を検知】
【対象者:アリシア】
【第零境界領域との接続:切断待機】
残り時間は、四十七秒。
俺は、空を見上げた。
銀髪の監査官は、いつもどおり穏やかに微笑んでいた。
『さあ、レオンさん。お答えください』
俺は、深く息を吸った。
「……その前に、一つ質問していいですか?」
『どうぞ』
「今の処理、取り消せます?」
『いいえ。管理者による権限放棄は、すでに受理されています』
「そうですか」
『残念でしたね』
「いえ」
俺は、首を振った。
「むしろ、安心しました」
エリオットの笑顔が、わずかに止まった。
『……何が、ですか?』
「俺の意思で取り消せないなら、ベルク商会にも取り消せない」
俺は、足元の石畳を見た。
白い光が、王都の隅々まで走っている。
この街に住む人々が、自分の意思で受け入れた規則。
そして、三十六人の補助管理者が引き受けた責任。
それは、もう俺一人のものではなかった。
「世界を守る仕組みは、できたんですよね?」
『……共同管理制度の成立後であれば』
「なら、問題は一つです」
俺は、帳簿を開いた。
「アリシアとの契約を、どうするか」
『不可能です』
エリオットは、即答した。
『管理者権限を失えば、個人契約の維持はできません』
「ええ。そこは理解しています」
『では、なぜ』
「契約を維持する必要が、本当にあるんですか?」
沈黙。
俺は、顔を上げた。
「アリシアは、契約そのものじゃない」
エリオットの瞳が、細くなった。
「彼女は、生きている人間です」
*
商売をしていると、時々、奇妙な勘違いに出会う。
契約書があるから、商品が存在する。
帳簿に数字があるから、利益が生まれる。
そんなふうに考える人がいる。
もちろん、違う。
商品があるから、契約する。
取引があるから、帳簿に記録する。
書類は、現実を管理するための道具だ。
現実そのものじゃない。
俺は、視界に浮かぶ文字を指差した。
「ここに書いてありますよね」
【対象契約:境界維持補助契約】
【対象者:アリシア】
【接続維持:不可能】
「失効するのは、契約です」
『……そうですが』
「アリシアの存在が消えるとは、書いていない」
エリオットの笑顔が消えた。
『第零境界領域との接続が切れれば、彼女を回収する手段はありません』
「今の方法では、ですよね?」
『……何をおっしゃりたいのですか』
「別の方法で迎えに行けばいい」
『そのような方法は存在しません』
「本当に?」
俺は、帳簿を閉じた。
「あなたが知らないだけじゃなくて?」
その瞬間。
エリオットの周囲に、黒い文字が走った。
【監査官権限による照会】
【第零境界領域への接続方法:該当なし】
『ご覧のとおりです』
俺は、頷いた。
「ありがとうございます」
『……何がですか?』
「今の記録、いただきました」
俺は、にやりと笑った。
「該当なし、なんですね」
『……はい』
「禁止ではなく?」
エリオットが、黙った。
俺は続けた。
「あなたはさっき、存在しないと言った。でも、記録にあるのは『該当なし』です」
『同じことです』
「商人にとっては、全然違います」
俺は、空を見据えた。
「在庫がないのと、取り扱いを禁止されているのは、別の話ですから」
エリオットは、答えなかった。
その沈黙を破ったのは。
「……レオン!」
美咲だった。
彼女が、息を切らして駆け寄ってきた。
「今の会話、聞こえた!」
「美咲?」
「第零境界領域への接続方法が『該当なし』って、本当?」
「ああ」
美咲の顔色が変わった。
「……それ、重要かもしれない」
「どういうことだ?」
「管理機構には、管理者用の転送経路と、一般の転送経路があるの」
俺は、息をのんだ。
「一般の?」
「昔、私たちが作った実験設備では、管理者権限がなくても物資を移動できる仕組みがあった」
美咲は、震える声で続けた。
「ただし、転送先が受け取りを承認した場合に限る」
俺は、目を見開いた。
「……つまり」
「管理者としては行けなくても、荷物としてなら送れる可能性がある」
俺は、しばらく黙った。
そして。
「……美咲」
「何?」
「今、すごく嫌な言葉を使ったな」
「……え?」
「人間を荷物扱いするな」
美咲は、目を丸くした。
それから、苦笑した。
「……そうだったね」
俺は、頷いた。
「でも、発想はいい」
そして、空を見上げた。
「荷物じゃなくて、お客様ならどうだ?」
*
【管理権保持期限:残り三十秒】
時間がない。
俺は、視界に向かって命じた。
転送履歴を表示。
【管理者権限:失効処理中】
【閲覧可能な記録:限定】
俺は、舌打ちした。
……急げ。
アリシアの転送記録。
【対象者:アリシア】
【転送元:第七境界領域】
【転送先:第零境界領域】
【状態:生存】
【転送方式:境界維持補助契約】
【受領者:第零境界管理機構】
受領者。
俺は、その文字を見つめた。
……そうか。
アリシアは、消えたんじゃない。
向こう側に、受け取られたんだ。
なら。
取り戻す方法は、一つある。
返品。
いや、違う。
そんな言い方をしたら、アリシアに怒られる。
俺は、深く息を吸った。
「エリオット」
『……何でしょう』
「第零境界管理機構へ、連絡できますか?」
『可能ですが、何のために?』
「正式な問い合わせです」
『……問い合わせ?』
「ええ」
俺は、胸を張った。
「そちらで預かっているアリシアという女性について、本人の意思を確認したい」
エリオットが、目を細めた。
『彼女は、契約に基づいて転送されています』
「契約は、これから失効するんですよね?」
『……はい』
「だったら、契約終了後の扱いを確認するのは当然でしょう」
俺は、続けた。
「契約がなくなった後も、本人の意思に反して拘束するんですか?」
エリオットの表情が、わずかに変わった。
『……そのような規定は』
「ない?」
『……確認が必要です』
「お願いします」
俺は、笑った。
「うちは、契約終了後の引き渡しまで、きちんと対応する主義なので」
その瞬間。
視界に、新しい文字が浮かんだ。
【第零境界管理機構への照会を受理】
【照会内容:契約失効後の対象者処遇】
【回答待機】
……よし。
少なくとも、問い合わせは通った。
だが。
【管理権保持期限:残り二十秒】
時間は、止まらない。
エリオットが、静かに言った。
『残念ですが、回答が届く前に接続は切断されます』
俺は、頷いた。
「でしょうね」
『……それでも、続けるのですか?』
「はい」
『なぜ?』
俺は、彼を見た。
「問い合わせの受付番号が残れば、契約が切れても、案件は残るでしょう?」
エリオットは、黙った。
俺は、笑った。
「管理者権限は失っても、問い合わせをした人間は消えませんから」
その瞬間。
【照会受付番号:0000001】
【申請者:仁科玲央】
【申請者区分:一般利用者】
俺は、息をのんだ。
……一般利用者。
やった。
これは、管理者としての申請じゃない。
ただの人間としての問い合わせだ。
俺が権限を失っても、残る。
そのとき。
視界に、文字が浮かんだ。
【共同管理制度:権限分割完了】
【管理者R-017:権限喪失】
【共同管理機構:稼働開始】
俺の体から、力が抜けた。
膝が、石畳につく。
周囲の光が、一瞬だけ揺れた。
だが。
消えなかった。
王都を覆う白い境界は、そのまま残っている。
【共同管理機構:正常稼働】
【補助管理者:三十六名】
【境界維持:継続】
俺は、笑った。
「……よかった」
世界は、まだここにある。
そして。
俺も、まだここにいる。
*
「……あり得ない」
エリオットが、呟いた。
俺は、顔を上げた。
「何がですか?」
『管理者が権限を放棄したにもかかわらず、境界が維持されている』
「ええ」
『過去六回の試行では、すべて失敗した』
「そうらしいですね」
『なぜ、今回は』
「簡単ですよ」
俺は、王都を見渡した。
白い光の下。
人々が、互いに手を貸している。
倒れた荷車を起こす兵士。
泣いている子供に水を渡す魔族の女性。
怪我人を運ぶ冒険者。
そして。
小さな体で、母親を支えているミロ。
「俺一人で、全部やろうとしなかったからです」
エリオットは、黙った。
「最初から、店を続けるのは一人じゃ無理だった」
俺は、笑った。
「仕入れをしてくれる人がいて、商品を運んでくれる人がいて、働いてくれる仲間がいて」
そして。
「何より、来てくれるお客様がいる」
俺は、空を見上げた。
「店って、そういうものでしょう?」
そのとき。
王都の中心から、大きな歓声が上がった。
「……光が消えない!」
「助かったのか!」
「俺たち、生きてるぞ!」
人々が、抱き合っていた。
俺は、胸が熱くなった。
……守れた。
少なくとも、今は。
だが。
そのとき。
空に、巨大な文字が浮かんだ。
【管理権移転審査:処理不能】
【移転対象の単独管理権限が存在しません】
【ベルク商会への管理権移転:失敗】
俺は、思わず笑った。
「……ああ」
そして。
「そういえば、そんな話もありましたね」
遠くで、マルセルの絶叫が聞こえた気がした。
*
だが、喜んでばかりもいられなかった。
空の亀裂は、まだ消えていない。
共同管理機構が守っているのは、王都だけだ。
世界全体ではない。
それに。
アリシアは、まだ帰ってきていない。
俺は、立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らない。
「……レオン様!」
セレスティアが、駆け寄ってきた。
「無理をしないでください!」
「……すみません」
「本当に、あなたという人は!」
彼女は、俺の肩を支えた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「……もう、勝手に消えようとしないでください」
俺は、息をのんだ。
「……セレスティア」
「アリシアさんを迎えに行くのでしょう?」
「……はい」
「なら」
彼女は、俺をまっすぐ見た。
「あなたも、必ず帰ってきてください」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……約束します」
そのとき。
背後から、声がした。
「約束は、慎重にしたほうがいい」
俺は、振り返った。
そこには、二百年前の俺が立っていた。
初代管理者の記録。
彼は、静かに王都を見渡していた。
「……驚いたな」
「何がですか?」
「本当に、共同管理を成立させるとは」
男は、少しだけ笑った。
「私は、最後まで思いつかなかった」
俺は、首を振った。
「俺一人じゃ、無理でした」
「……そうだろうな」
男は、しばらく黙っていた。
そして。
「だが、まだ終わっていない」
俺は、頷いた。
「分かっています」
「第零境界領域は、管理機構の中枢だ」
男は、空の亀裂を見上げた。
「そこには、私たちが失敗した理由が残されている」
「……何があるんですか?」
男は、俺を見た。
「最初の店だ」
俺は、息を止めた。
「……最初の?」
「ああ」
男は、静かに言った。
「二百年前、私が最初に開いた店」
俺は、眉をひそめた。
「……でも、その店は」
「消えたと記録されている」
男は、頷いた。
「だが、実際には違う」
そして。
「第零境界領域へ、移されたんだ」
俺は、言葉を失った。
「……店ごと?」
「ああ」
男は、静かに笑った。
「店の中にいた人間も、商品も、契約も、すべて」
俺は、息をのんだ。
「……それじゃあ」
「アリシアは、そこにいる」
男は、俺を見据えた。
「そして、おそらく」
少しだけ、声を落とした。
「二百年前の私が、救えなかった人間も」
*
そのとき。
俺の視界に、文字が浮かんだ。
いや。
違う。
もう、管理者権限はない。
これは、俺だけに見える文字じゃない。
王都の空に。
誰もが読める形で、文字が現れていた。
【第零境界管理機構からの回答】
【照会受付番号:0000001】
【申請者:仁科玲央】
【照会内容:契約失効後の対象者処遇】
【回答:本人の意思確認が必要】
俺は、息を止めた。
……来た。
回答が、来た。
さらに、文字が続く。
【対象者:アリシア】
【状態:生存】
【契約失効後の拘束根拠:なし】
【本人の帰還意思:確認中】
俺は、拳を握った。
……よし。
少なくとも、アリシアを拘束する理由はない。
だが。
どうやって、帰ってくる?
そのとき。
空に、新しい文字が浮かんだ。
【対象者からの応答を受信】
【送信者:アリシア】
俺は、息をのんだ。
……アリシア。
そして。
彼女の声が、王都全体に響いた。
『……レオン?』
俺は、目を見開いた。
「……アリシア!」
『……聞こえる?』
「ああ!」
俺は、叫んだ。
「聞こえる!」
少しの沈黙。
そして。
『……よかった』
彼女の声が、震えていた。
『あなたが、無事で』
俺は、胸が熱くなった。
「……そっちこそ」
俺は、笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
「……本当に、生きてるんだな」
『うん』
彼女は、静かに答えた。
『生きてる』
俺は、目を閉じた。
……よかった。
本当に。
そのとき。
アリシアが、続けた。
『……レオン』
「何だ?」
『こっちに、あなたの店がある』
俺は、息を止めた。
「……何?」
『古い店。あなたが、最初に開いた店』
俺は、初代管理者を見た。
彼は、黙って頷いた。
アリシアの声が、続く。
『でも』
その声が、少しだけ低くなった。
『ここには、もう一人いる』
俺は、息をのんだ。
「……誰だ?」
長い沈黙。
そして。
『……私と、同じ顔の人』
俺は、言葉を失った。
……何?
『その人が、言ってる』
アリシアの声が、震えた。
『レオンを、絶対にここへ来させるなって』
俺は、拳を握った。
「……どうして?」
アリシアは、答えなかった。
代わりに。
別の声が、響いた。
『……久しぶりね、レオン』
女の声だった。
アリシアと、よく似ている。
だが。
どこか、違う。
『二百年ぶり』
俺は、息を止めた。
そして。
その女は、静かに言った。
『今度こそ、私を選んでくれる?』




