第2話 魔王軍三千人分の注文
「開けろ! そこに魔王がいるのは分かっている!」
店の扉が、どんどんと激しく叩かれた。
俺はカウンターの向こうで、目の前の客を見た。
黒い外套。額から伸びる二本の角。赤い瞳。
魔族を統べる王、ヴァルガ。
そして、その魔王の前には、空になったスープ皿が一枚。
「……おかわりは?」
俺が尋ねると、魔王は少しだけ目を細めた。
「あるのか?」
「残念ながら、今日の仕込みは終わりです」
「そうか」
魔王は、心底残念そうに息を吐いた。
世界を滅ぼすだの、人類を支配するだの、そういうことをする存在が、なぜスープのおかわりを欲しがっているのだろう。
いや、そもそも魔王というのは、こんなふうに普通に食事をするものなのか。
前世で読んだ物語では、もっとこう、玉座に座って世界征服を企んでいた気がする。
少なくとも、雑貨屋で豆のスープを食べている姿は想像していなかった。
「おい! 聞いているのか!」
扉の向こうから、再び声が響いた。
「勇者様、当店は営業中です。ただし、扉を壊すような行為はご遠慮ください」
「誰が勇者様だ! 俺は勇者だ!」
「ご自分でおっしゃるんですね」
「うるさい! 早く開けろ!」
俺はため息をつき、扉へ向かった。
店の内側に貼った紙には、こう書いてある。
『店内での盗みは禁止』
『店内での暴力行為は禁止』
この二つの規則は、どうやら本当に効くらしい。
昨日まで、ただの紙切れだったはずなのに。
今朝、開店準備をしていたとき、何となく思いついて書き足しただけなのに。
魔王が来店した途端、紙は光り始めた。
しかも、魔王自身が面白そうに眺めている。
この店は、一体どうなっているんだ。
……いや、今はそれどころではない。
扉を壊されれば、修理代がかかる。
俺は鍵を外し、扉を開けた。
そこに立っていたのは、金髪の青年だった。
白銀の鎧。腰には聖剣。胸元には王国騎士団の紋章。
顔立ちは整っているが、眉間に深いしわが刻まれている。
「お前が店主か」
「はい。レオンです」
「この中に魔王がいるな」
「いらっしゃいます」
「……いらっしゃる?」
勇者は、俺の言葉を理解できないという顔をした。
「魔王だぞ?」
「はい」
「人類の敵だぞ?」
「そうなんですか」
「そうなんですか、じゃない!」
勇者は俺の肩越しに店内をのぞき込んだ。
そして、カウンターの席に座る魔王を見つけた。
「ヴァルガ!」
勇者が剣の柄に手をかける。
その瞬間、壁に貼られた紙が、かすかに光った。
勇者の手が止まった。
「……なんだ?」
「店内での暴力行為は禁止です」
俺は壁の紙を指さした。
「お客様同士の争いは、店の外でお願いします」
「ふざけるな! こいつを討伐するために、俺は三か月も追いかけてきたんだぞ!」
「それは大変でしたね」
「同情するな!」
勇者は剣を抜こうとした。
抜けなかった。
正確には、柄を握った手が動かないらしい。
勇者の顔がみるみる赤くなる。
「な、なんだこれは!」
「規則です」
「そんなものが、聖剣の力を封じるはずがない!」
「聖剣のことは分かりませんが、店の規則なので」
俺だって分かっていない。
この店が何なのか。
どうして俺が書いた紙切れに、魔王や勇者の動きを止める力があるのか。
分からないことだらけだ。
ただ、一つだけ分かっている。
この店で暴れられると、商品が壊れる。
それだけは絶対に困る。
「勇者よ」
魔王が、ゆっくりと立ち上がった。
勇者の顔に緊張が走る。
俺も思わず身構えた。
店内での暴力は禁止されている。
けれど、魔王がその気になったら、規則そのものを破壊してしまうのではないか。
そんな不安が頭をよぎる。
だが、魔王は剣を抜かなかった。
俺のほうを向き、静かに言った。
「店主。会計を頼む」
「はい?」
「食事の代金だ」
魔王はカウンターに金貨を三枚置いた。
一枚で銀貨百枚に相当する金貨だ。
スープ一杯の代金は銅貨五枚。
どう考えても払いすぎだった。
「多すぎます」
「迷惑料も含めている」
「いや、迷惑料をいただくほどのことは……」
「ならば釣りを寄越せ」
「分かりました」
俺は銀貨と銅貨を数え始めた。
勇者が、ぽかんと口を開けている。
「……お前たち、何をしている?」
「会計です」
「見れば分かる!」
「では、なぜ聞いたんですか」
「そういう意味じゃない!」
勇者は頭を抱えた。
魔王は、そんな勇者を一瞥しただけだった。
「店主。もう一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「食料を調達してもらいたい」
俺は釣り銭を数える手を止めた。
「食料、ですか?」
「三千人分だ」
今度こそ、俺は完全に固まった。
三千人。
この店の在庫は、パンが十七個。干し肉が六袋。豆が二樽。野菜は昨日仕入れた分が少し。
俺一人なら、数日は食いつなげる。
客が十人来たら、品切れだ。
三千人なんて、どう考えても無理だった。
「……冗談ですよね?」
「冗談で三千人の腹は満たせん」
魔王は懐から、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
そこには、必要な食料の種類と数量がびっしり書き込まれていた。
小麦。豆。塩。干し肉。保存の利く根菜。
どれも現実的な品目だ。
ただし、数量だけが現実離れしている。
「小麦三百袋、豆百袋、塩五十袋、干し肉二百箱……」
「そうだ」
「これを、二日以内に?」
「できるか」
俺は羊皮紙から顔を上げた。
魔王の赤い瞳が、まっすぐこちらを見ている。
試しているのだろうか。
それとも、本気で注文しているのだろうか。
どちらにしても、俺にとっては大問題だった。
「申し訳ありません。当店には、そんな量の在庫はありません」
「知っている」
「知っているんですか?」
「店の大きさを見れば分かる」
魔王は狭い店内を見回した。
「だから、調達を頼んでいる」
「いや、うちは、できたばかりの小さな雑貨屋ですよ」
「看板には食料品も扱うと書いてある」
「書いてありますけど!」
「ならば、商売の話だ」
魔王は懐から、もう一袋、金貨を取り出した。
ずしりと重い音がした。
「前金だ。足りなければ追加する」
俺は金貨を見た。
次に羊皮紙を見た。
それから、店の棚を見た。
頭の中で、いくつもの計算が走り始めた。
商売。
俺は、この言葉が嫌いではなかった。
前世では、誰かに命令され、誰かの都合で予定を変えられ、誰かの失敗の責任を押しつけられる日々だった。
頑張っても、誰かの手柄になる。
失敗すれば、真っ先に責められる。
そんな生活の果てに、俺は死んだ。
そして、この世界に生まれ変わった。
剣の才能はなかった。
魔法の才能もなかった。
英雄になれるような力もない。
だから俺は、店を開いた。
誰かに必要とされる場所を、自分の手で作りたかった。
「……分かりました」
俺は羊皮紙をカウンターに置いた。
「できる限り、やってみます」
魔王の目がわずかに細くなる。
「引き受けるのか」
「ただし、条件があります」
「聞こう」
「代金は、調達できた分だけいただきます。納品できない商品については、前金を返します。それと、店の外で何が起きても、当店は責任を負いません」
勇者が口を挟んだ。
「おい! 魔王軍に食料を売るつもりか!」
「はい」
「人間を襲う軍隊だぞ!」
「食料がなければ、もっとひどいことになるかもしれません」
「だからといって!」
「勇者様」
俺は勇者を見た。
「あなたは、三千人の魔族が飢えていることを知っていますか?」
「……っ」
「その三千人全員が、戦争を始めたがっているんでしょうか」
勇者は答えなかった。
もちろん、俺だって魔王を信用しているわけではない。
魔王が約束を破るかもしれない。
食料を受け取った途端、人間の村を襲うかもしれない。
けれど、今ここで何もしなければ、二日後に何が起きるのか。
少なくとも、俺には想像できた。
「俺は、戦争を止めるなんて大それたことはできません」
俺は金貨の袋を魔王に押し戻した。
「でも、食料を売ることならできます。だから商売をします」
魔王はしばらく俺を見ていた。
やがて、低い声で言った。
「……よかろう」
そして、金貨の袋を再び差し出した。
「契約成立だ」
そのときだった。
俺の目の前に、半透明の文字が浮かび上がった。
『大口注文を受注しました』
『注文者:魔王ヴァルガ』
『納期:二日後』
『商品:魔王軍三千人分の食料』
『契約履行率:未確定』
『注意:店舗外における取引相手の行動は、店舗規則の適用対象外です』
……最後の一文が、妙に現実的だった。
「店主?」
魔王が声をかけてきた。
「何か見えたか?」
「いえ。気のせいです」
俺は目をこすった。
文字は消えていた。
疲れているのかもしれない。
転生してからというもの、常識外れのことばかり起きる。
今さら、目の前に文字が浮かんだ程度で驚いていられない。
いや、やっぱり驚くべきか。
俺は首を振った。
今は仕入れのことを考えよう。
「ヴァルガ様」
「何だ」
「確認させてください。食料を必要としているのは、魔王軍の兵士三千人で間違いありませんか?」
「そうだ」
「戦闘用の携行食ではなく、通常の食事を想定してよろしいですか?」
「可能ならば、そうしてほしい」
「なぜ、そこまでの食料が必要なのですか?」
魔王は少しだけ黙った。
勇者も、口を閉じた。
やがて魔王は、低い声で答えた。
「我が軍は、北部街道で補給を断たれた」
「補給を?」
「人間側の軍が橋を落とした。予定していた食料が届かなくなったのだ」
なるほど。
軍隊が補給を失えば、食料不足になるのは当然だ。
しかし、魔王軍なら魔法で何とかできるのではないか。
そう尋ねると、魔王は鼻を鳴らした。
「魔法で食料が生み出せるなら、そもそも食料など買いに来ん」
「それは、そうですね」
「兵士の腹を満たすには、相応の量が必要だ。魔法で作り出せる量など、たかが知れている」
魔王は羊皮紙の端を指で押さえた。
「部下たちは、五日まともに食べていない」
その声には、先ほどまでの威圧感とは違うものが混じっていた。
怒りでも、脅しでもない。
疲労と、焦り。
そして、わずかな責任感。
「あと二日で食料を確保できなければ、兵たちは村から食料を奪うことになるだろう。私はそれを望まん」
勇者が鋭い目で魔王をにらんだ。
「人間を襲うつもりがないとでも言うのか」
「襲わずに済むなら、そのほうがよい」
「信用できるか!」
「信用しろとは言っていない」
魔王は勇者を見た。
「私は食料を買いに来た。それだけだ」
店内に沈黙が落ちた。
俺は羊皮紙を見つめた。
小麦三百袋。
豆百袋。
塩五十袋。
干し肉二百箱。
その他、細かな食料品。
合計金額をざっと計算しただけで、頭が痛くなった。
そして、もっと大きな問題がある。
「お客様」
「何だ」
「当店には、そんな量の在庫はありません」
「知っている」
「……それはもう聞きました」
「ならば、調達を頼む」
魔王は、同じ言葉を繰り返した。
俺は思わず苦笑した。
この男、商売に関しては意外と話が早い。
いや、単にこちらに選択肢がないだけかもしれない。
「分かりました。ただし、二日以内に全量を用意できる保証はありません」
「できる限りでよい」
「それと、仕入れ先の都合で値段が変わる可能性があります」
「正当な価格であれば構わん」
「納品は、どこに?」
魔王は地図を取り出し、町の北にある街道を指さした。
「町から半日ほど離れた廃砦だ。そこで受け取る」
「廃砦ですか……」
「町の近くまで軍を連れてくれば、人間たちが騒ぐだろう」
それは間違いない。
魔王軍三千人が町に現れたら、商売どころではなくなる。
住民は逃げ惑い、騎士団が出動し、勇者が剣を振り回す。
そして俺の店は、きっと真っ先に巻き込まれる。
「では、納品場所と日時を契約書に記載してください。受け渡しの際には、数量を双方で確認します」
「分かった」
魔王は驚くほど素直にうなずいた。
契約書に署名をすると、金貨の袋をカウンターに置く。
俺は袋の重さを確かめ、帳簿に金額を記した。
商売人として、やるべきことはやる。
相手が魔王だろうと、そこは変わらない。
そして、もう一つ。
「ヴァルガ様」
「まだ何かあるのか」
「当店の規則について、説明しておきます」
俺は壁の紙を指さした。
「店内での盗みは禁止。店内での暴力行為は禁止。この二つが当店の規則です」
「ほう」
「お客様には、規則を守っていただきます」
「魔王にもか?」
「魔王にもです」
勇者が、ぽかんと口を開けた。
魔王は紙をじっと見つめた。
やがて、口元に笑みを浮かべる。
「よかろう。店内では規則に従う」
「ありがとうございます」
「ただし」
魔王の瞳が、鋭く光った。
「店の外で何が起きようと、私は私の判断で動く」
「もちろんです」
俺はうなずいた。
「当店の規則は、店の外まで及びませんから」
魔王は満足そうに笑った。
「話の分かる店主だ」
褒められた。
相手は魔王だ。
喜ぶべきなのか、怖がるべきなのか、よく分からない。
そのとき、勇者が再び声を上げた。
「待て! お前、本当に魔王軍に食料を売るつもりか!」
「そのつもりです」
「魔王軍は、何度も人間の村を襲ってきたんだぞ!」
「それは、俺が決めることではありません」
「何だと?」
「過去に何があったかは、ちゃんと調べます。でも、今ここで三千人が飢えているという話も、無視できません」
勇者の表情が険しくなった。
「お前は、魔族の味方をするのか」
「いいえ」
俺は首を横に振った。
「俺は店の味方です」
「……は?」
「うちの店は、商品を売る場所です。お客様が代金を払って、俺が商品を渡す。それが商売です」
「魔王相手でもか」
「魔王相手でもです」
俺はカウンターを軽く叩いた。
「もちろん、店の外で誰かを襲うために商品を使うと分かっている場合は別です。でも、今のところ、俺が受けた注文は食料です。腹を満たすためのものです」
勇者は何か言おうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
俺だって、正義の味方を気取るつもりはない。
魔王が善人だとも思っていない。
ただ、食料を売るという商売まで、最初から否定する理由はないと思った。
魔王は椅子から立ち上がった。
「店主。世話になった」
「いえ、ご注文ありがとうございます」
「二日後、廃砦で待っている」
「分かりました」
魔王は扉へ向かった。
そして、店を出る直前に振り返った。
「レオン」
「はい?」
「食事はうまかった」
それだけ言って、魔王は店を出ていった。
残された俺は、しばらく動けなかった。
魔王に料理を褒められた。
いや、そんなことより。
三千人分の食料だ。
「……どうしよう」
俺が頭を抱えた、その瞬間。
「おい、店主!」
勇者が、ずいっと顔を近づけてきた。
「今すぐ説明しろ。なぜ魔王を逃がした!」
「逃がしたって、買い物を終えて帰っただけですよ」
「買い物!?」
「はい」
「魔王が!?」
「はい」
「三千人分の食料を!?」
「はい」
勇者は両手で頭を抱えた。
「世界は……どうなっているんだ……」
「俺に聞かれても困ります」
俺は羊皮紙を持ち上げた。
「それより、勇者様」
「何だ!」
「この町で、一番大きな食料商はどこですか?」
「……は?」
「仕入れ先を探しているんです」
勇者は、俺の顔をまじまじと見つめた。
それから、信じられないものを見るような目で言った。
「お前、本当に魔王軍に食料を売る気なのか」
「そのつもりです」
「正気か?」
「たぶん」
「たぶん!?」
俺は店の扉を開けた。
外には、朝の市場へ向かう人々の姿があった。
この町の人たちは、魔王軍が近くにいることをまだ知らない。
二日後、三千人の魔族が食料を求めて町へ押し寄せるかもしれない。
それを防ぐために、俺ができることは一つ。
商売を成立させることだ。
「行ってきます」
俺は看板を裏返した。
『営業中』から『仕入れのため休業中』へ。
店を始めて三日目。
俺は初めて、店を閉めて外へ出ることになった。
その背後で、勇者がつぶやいた。
「……魔王より、こいつのほうが理解できない」
俺も、そう思う。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
この店を開いたとき、俺は小さな願いを抱いていた。
いつか、誰かに言ってもらいたかったのだ。
――お前がいてくれて、よかった。
三千人分の食料を売ったところで、そんな言葉をもらえるとは限らない。
それでも。
俺は、歩き出した。
まずは仕入れだ。
話は、それからだった。




