第1話 魔王様、当店ではお客様です
「お前がいてくれて、よかった」
人生で一度くらい、そんな言葉をかけられてみたかった。
誰かに必要とされること。
自分がここにいる意味を、誰かが認めてくれること。
前世の俺には、とうとうそれが分からなかった。
仕事をすれば、もっと働けと言われた。
成果を出せば、次の仕事を任された。
失敗すれば責められ、成功しても別の誰かの手柄になった。
もちろん、俺だけが特別に不幸だったわけじゃない。
世の中には、もっと大変な人がいくらでもいる。
それでも、毎朝目を覚ますたびに思っていた。
俺は何のために働いているんだろう。
誰のために生きているんだろう。
そして、ある日。
残業帰りの横断歩道で、俺の人生は終わった。
気づけば、見知らぬ世界の赤ん坊になっていた。
剣と魔法があり、魔物がいて、王様がいて、魔王までいる世界。
前世の知識を使えば大成功できる。
そんな期待を抱いた時期もあった。
しかし、現実は甘くなかった。
魔法の才能は平凡以下。
剣を握れば筋肉痛。
冒険者になれるほどの体力もない。
現代知識を活用しようにも、俺が思いつくような発明は、すでに誰かが考案していた。
結局、俺に残ったのは、前世で身につけた商売の知識と、多少の貯金だけだった。
だから、店を開いた。
それが俺、レオンの新しい人生だ。
場所は、王都から馬車で三日ほど離れた辺境の町リュネ。
大きな街道から少し外れた、人口二千人ほどの小さな町である。
町の外には畑が広がり、朝になれば市場が開く。
冒険者が魔物の素材を売りに来て、旅商人が珍しい商品を持ち込み、夕方には酒場から笑い声が聞こえてくる。
平和な町だ。
少なくとも、俺が店を開いた時点では。
「……よし」
俺は、目の前の建物を見上げた。
木造二階建て。
外壁には古い傷が残り、窓枠は少し傾いている。
入口の上には、手作りの看板がぶら下がっていた。
『レオン雑貨店』
我ながら、ひねりのない名前だ。
けれど、分かりやすいのは大切である。
店の中には、食料品、日用品、薬草、簡単な道具などを並べている。
棚はまだ半分も埋まっていない。
資金が足りなかったのだ。
それでも、店を持つという夢はかなった。
「いらっしゃいませ、か」
誰もいない店内で、俺は小さく練習した。
「いらっしゃいませ」
うん。
悪くない。
これから毎日、客が来る。
商品を買ってくれる。
時には世間話をして、時には困りごとを相談してくれるかもしれない。
そして、いつか。
この店があってよかった。
そう言ってもらえる日が来るかもしれない。
「よし、頑張るか」
俺は入口の札を裏返した。
『営業中』
こうして、俺の第二の人生が始まった。
……はずだった。
◇
開店初日。
客は三人だった。
一人目は、隣のパン屋のおばさん。
開店祝いに来てくれたのかと思ったら、棚に並べた塩を一袋買って帰った。
二人目は、道に迷った旅人。
地図を見せてくれと言われたので、店の場所を教えた。
何も買わなかった。
三人目は、子どもだった。
店の前に置いていた木の人形を眺めていたので、値段を説明した。
子どもは財布の中身を確認し、悲しそうに首を振って帰っていった。
売上は、塩一袋。
以上。
開店二日目。
客は二人だった。
一人目は、昨日のパン屋のおばさん。
「レオンちゃん、塩もう一袋ちょうだい」
「ありがとうございます」
「それにしても、あんた本当に一人で店をやるんだねえ」
「そのつもりです」
「無理しないようにね」
おばさんは塩を持って帰った。
二人目は、昨日の子どもだった。
今度は木の人形を買ってくれた。
売上は、塩一袋と木の人形一個。
以上。
そして、開店三日目。
俺はカウンターに頬杖をついていた。
「……暇だ」
店を開けてから、まだ半日しか経っていない。
それなのに、暇だった。
暇すぎて、棚の商品を三回並べ直した。
床も二回掃いた。
仕入れ帳簿も確認した。
売上を計算した。
計算するほどの売上がなかった。
「このままだと、三か月もたないぞ……」
店を開くために借りた金は少なくない。
家賃、仕入れ代、生活費。
売上がこのままなら、いずれ商品を仕入れることすらできなくなる。
商売は甘くない。
前世で嫌というほど学んだはずだった。
「何か、客を呼ぶ方法を考えないとな」
そのときだった。
カラン。
入口のベルが鳴った。
俺は勢いよく顔を上げた。
「いらっしゃいませ!」
つい声が大きくなった。
入口に立っていたのは、黒い外套をまとった大柄な男だった。
背が高い。
肩幅も広い。
顔の上半分はフードの影に隠れている。
ただ、口元から覗く肌は、死人のように白かった。
そして、フードの隙間から二本の角が伸びていた。
……角?
俺は瞬きをした。
見間違いかと思った。
しかし、男が一歩店内に入った瞬間、空気が変わった。
重い。
まるで、目の前に巨大な岩が置かれたような圧迫感。
呼吸が浅くなる。
身体が本能的に警告を発していた。
こいつは危険だ。
絶対に逆らってはいけない。
そう告げている。
男は店内をゆっくり見回した。
食料品の棚。
日用品の棚。
カウンターの上に置かれた小さな鈴。
そして、俺。
「……ここが店か」
低い声だった。
たった一言なのに、店の壁が震えたような気がした。
「は、はい。当店はレオン雑貨店です」
俺は何とか笑顔を作った。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
男は答えなかった。
ただ、俺を見ていた。
いや、正確には、俺の後ろにある棚を見ているようだった。
その視線が、食料品の棚で止まる。
「食料はあるか」
「はい。パン、干し肉、豆などを取り扱っております」
「そうか」
男はカウンターへ歩いてきた。
一歩。
二歩。
床板が、ぎしりと鳴る。
「食事を頼む」
「……食事、ですか?」
「そうだ」
男は、当然のようにうなずいた。
「当店は食堂ではなく雑貨店なのですが……」
「食料を売っているのだろう」
「はい」
「ならば問題あるまい」
確かに、理屈としては間違っていない。
間違っていないが、何かがおかしい。
男はカウンターの前に立ち、外套の内側から金貨を一枚取り出した。
カウンターに置かれた金貨が、鈍い音を立てる。
俺は思わず目を見開いた。
金貨一枚。
この町なら、安い家を借りて数か月暮らせる金額だ。
「これで食事を頼む」
「ええと……」
俺は金貨と男の顔を交互に見た。
「何を召し上がりますか?」
「温かいものがいい」
「当店で調理できるのは、簡単なものだけですが……」
「構わん」
男は椅子に腰を下ろした。
椅子が悲鳴を上げた。
「何か、温かいものを」
……客だ。
間違いなく客だ。
少々、いや、かなり怖いが、客である。
開店三日目にして、ようやく食事を求める客が来た。
断る理由はない。
「かしこまりました。少々お待ちください」
俺は厨房代わりの小さな調理場へ向かった。
メニューは限られている。
パンと豆のスープ。
干し肉を少し加えれば、多少は満足感も出るだろう。
鍋に水を入れ、豆を加える。
塩をひとつまみ。
干し肉を細かく切って入れ、弱火で煮込む。
最後に、昨日焼いておいたパンを温めた。
豪華な料理ではない。
だが、腹を満たすには十分だ。
俺は料理を皿に盛り、カウンターへ運んだ。
「お待たせしました。豆と干し肉のスープ、それからパンです」
男は、皿をじっと見つめた。
まるで、見たこともない料理を前にしたような反応だった。
「……食べてよろしいので?」
「もちろんです。お客様のために用意しましたから」
男はスプーンを手に取った。
そして、スープを一口飲んだ。
沈黙。
もう一口。
さらに、もう一口。
男は無言でスープを飲み干した。
パンも食べた。
皿の底に残った豆まで、きれいにすくい取った。
そして。
「……うまい」
低い声が、店内に響いた。
俺は思わず笑顔になった。
「ありがとうございます」
「このような食事は、久しぶりだ」
「それは……よかったです」
男は空になった皿を見つめていた。
その表情はフードに隠れて、よく分からない。
ただ、ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
「店主」
「はい」
「もう一つ、頼みがある」
「追加注文でしょうか?」
「ああ」
男は、懐から折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
俺はそれを受け取った。
羊皮紙には、食料品の名前がびっしりと書かれている。
小麦。
豆。
塩。
干し肉。
保存の利く野菜。
どれも、町の商店で扱う普通の商品だった。
ただし。
数量が普通ではなかった。
「……ええと」
俺は、羊皮紙をもう一度見た。
そして、男を見た。
「これは、何かの冗談でしょうか?」
「冗談ではない」
「小麦三百袋、豆百袋、干し肉二百箱……」
「そうだ」
「塩五十袋……」
「そうだ」
「その他、いろいろ……」
「うむ」
俺は羊皮紙をそっと置いた。
「申し訳ありません。うちでは、これほどの量は……」
「在庫がないのは分かっている」
「……はい?」
「だから、調達を頼みたい」
男は、何でもないことのように言った。
「三千人分の食料だ」
俺は、固まった。
三千人。
三千人分。
この小さな町の人口は二千人ほどだ。
つまり、この男は町の住人全員より多い人数の食料を注文していることになる。
しかも、二日以内に。
「……失礼ですが」
俺は、慎重に尋ねた。
「お客様は、どちらの商会の方でしょうか?」
男は、しばらく黙っていた。
そして、フードを少しだけ持ち上げた。
額から伸びる二本の黒い角。
赤く光る瞳。
人間とは思えないほど整った顔立ち。
その姿を見た瞬間、俺の頭の中で、子どものころに聞かされた物語がよみがえった。
黒い角。
赤い瞳。
魔族を率いる王。
人間の王国と長年戦争を続けている、恐怖の象徴。
まさか。
いや、そんなはずはない。
だって、魔王が。
こんな小さな雑貨屋に。
買い物に来るわけが――。
「我が名はヴァルガ」
男は静かに告げた。
「魔族を統べる王だ」
……終わった。
俺の第二の人生、開店三日目で終了のお知らせである。
いや、待て。
落ち着け。
魔王が来たからといって、必ずしも殺されるとは限らない。
そもそも、魔王は食事をした。
金貨も払おうとしている。
そして今、食料を注文している。
つまり。
商売の話だ。
相手が魔王でも、商売の話である。
俺は震えそうになる手を握りしめた。
「……レオンです。当店の店主をしております」
「知っている」
「そうでしたか」
何が、そうでしたか、だ。
自分でも意味が分からない。
しかし、ここで取り乱したら負けだ。
前世で学んだことがある。
どれだけ相手が偉くても、どれだけ理不尽でも、交渉の席ではまず話を聞く。
それが商売人というものだ。
「ヴァルガ様。ご注文の件ですが」
「うむ」
「二日以内に、三千人分の食料を用意するということでよろしいでしょうか」
「そうだ」
「代金は、どのようにお支払いいただけますか?」
魔王は、少しだけ目を見開いた。
それから、低く笑った。
「面白い人間だな」
「商売ですので」
「代金は前払いで構わん」
魔王は、懐から金貨の袋を取り出した。
カウンターに置かれた袋が、ずしりと沈む。
中身を確かめなくても分かる。
相当な金額だ。
俺の人生で、一度に見たことのない額かもしれない。
「不足があれば追加する。約束を守る限り、報酬は惜しまん」
「……承知しました」
俺は、羊皮紙を手に取った。
商売人としての計算が、頭の中を駆け巡る。
仕入れ先はどうする。
物流はどうする。
保管場所は足りるのか。
そもそも、町の人々が魔王軍に食料を売ってくれるのか。
問題は山積みだ。
それでも、注文を断る必要はない。
まだ、何も始まっていないのだから。
「できる限り、対応いたします」
「期待している」
魔王は満足そうにうなずいた。
そして、立ち上がった。
その瞬間。
店の外から、怒鳴り声が響いた。
「魔王ヴァルガ! そこにいるのは分かっているぞ!」
俺は、びくりと肩を震わせた。
魔王は、面倒くさそうに目を細めた。
「……追いついてきたか」
「お知り合いですか?」
「敵だ」
「そうですか……」
敵。
その一言で、店の空気が再び重くなった。
次の瞬間、扉が激しく叩かれた。
「開けろ! 勇者ユリウスだ! 魔王を討伐する!」
勇者。
魔王。
そして、俺の店。
どうして、開店三日目で世界の命運みたいなものが転がり込んでくるんだ。
俺は頭を抱えたくなった。
だが、そのとき。
カウンターの上に置いていた一枚の紙が、淡く光った。
そこには、俺が開店前に書いた文字がある。
『店内での盗みは禁止』
そして、その下。
『店内での暴力行為は禁止』
文字が、ゆっくりと輝きを増していく。
俺は目を見開いた。
「……何だ、これ?」
魔王もまた、紙を見つめていた。
やがて、彼は口元に笑みを浮かべた。
「なるほど」
「なるほど、って何がですか?」
「この店は、面白い」
扉の向こうで、勇者が叫んだ。
「今すぐ開けろ! さもなくば扉を破壊する!」
俺は、光る紙を見た。
それから、店の扉を見た。
最後に、目の前の魔王を見た。
そして、深く息を吸い込んだ。
「……お客様」
「何だ、店主」
「店内での暴力行為は禁止です」
魔王は、とうとう声を上げて笑った。
こうして。
俺の店に、最初の大口注文が舞い込んだ。
相手は魔王。
注文は三千人分。
そして、店の外には勇者がいる。
どうやら俺の第二の人生は、思っていたよりもずっと騒がしくなりそうだった。




