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16/21

第16話 店の規則が、効かなくなりました

「帰ろう、レオン」


 黒髪の女が、俺に手を差し出した。


「わたしたちの世界へ」


 その言葉を聞いた瞬間、忘れていたはずの光景が脳裏をよぎった。


 夜十一時のオフィス。


 冷めたコーヒー。


 鳴り続ける電話。


 誰もいなくなったフロアで、ひとりパソコンに向かっていた俺。


 そして――。


『先輩、まだ帰らないんですか?』


 笑いながら、缶コーヒーを差し出してくれた女性。


「……まさか」


 俺は目の前の女を見た。


 黒い瞳。


 少し癖のある長い髪。


 笑うと、右の頬に小さなくぼみができる。


「……佐倉?」


 女の瞳から、一粒の涙がこぼれた。


「やっと思い出してくれた」


 佐倉美咲。


 前世で、俺と同じ会社に勤めていた後輩。


 仕事ができて、よく笑って、誰よりも人の変化に気づく女だった。


 そして。


 俺が死ぬ前、最後に会った人間でもあった。


「……何で、お前がここにいる?」


「迎えに来たって、言ったでしょ」


「どうやって?」


「それは、あとで説明する」


 美咲は、もう一度手を差し出した。


「時間がないの。ここにいたら、あなたはまた死ぬ」


 俺は息をのんだ。


 その瞬間。


 かつん。


 美咲の靴が、床を鳴らした。


 彼女の右手には、いつの間にか細い短剣が握られていた。


「……美咲?」


「ごめんね」


 彼女は泣きながら笑った。


「少しだけ、確かめさせて」


 短剣が振り下ろされた。


 狙いは、俺の肩。


 反射的に身を引く。


 刃が、カウンターを切り裂いた。


 がしゃん!


 陶器の皿が床に落ち、粉々に砕けた。


 俺は凍りついた。


 壁には、確かに書いてある。


『店内での暴力行為は禁止』


 なのに。


 刃は止まらなかった。


【警告】


【規則実行処理:失敗】


【対象:旧世界由来の存在】


【干渉権限が不足しています】


 ……嘘だろ。


 美咲は、俺の顔を見て、悲しそうに頷いた。


「やっぱり」


「……何が、やっぱりなんだ」


「あなたの店は、もう安全じゃない」


 彼女は短剣を床に置いた。


「そして、わたしだけじゃない」


 美咲は、店の入口を見た。


「もうすぐ、ほかの人たちも来る」


     *


「レオン!」


 階段から駆け下りる音がした。


 アリシアだった。


 寝間着の上に外套を羽織り、手には剣を持っている。


「何があったんですか!」


「アリシア、待て!」


 俺が止めるより早く、彼女は床の短剣と壊れたカウンターを見た。


 そして、美咲へ視線を向けた。


「……あなたが、やったんですか?」


 美咲は答えなかった。


「質問しています」


 アリシアの声が低くなる。


 元剣聖。


 その威圧感は、普通の人間なら立っていられないほどだ。


 だが、美咲は平然としていた。


「あなたが、アリシアさん?」


「……なぜ、私の名前を?」


「レオンから聞いていたから」


 俺は眉をひそめた。


「待て。俺はお前にアリシアの話なんて――」


「今のあなたからは、聞いていない」


 美咲は、俺を見た。


「前のあなたから、聞いたの」


 沈黙。


 意味が分からなかった。


 前の俺?


 転生する前の俺のことか?


 だが、前世でアリシアを知っているはずがない。


 アリシアが、俺の前に立った。


「レオン。下がってください」


「待て、アリシア」


「この人は、あなたを襲いました」


「……ああ」


「ならば、私は――」


「違うの」


 美咲が、静かに言った。


「わたしは、彼を殺そうとしたわけじゃない」


「剣を振るったことに、変わりありません」


「そうね」


 美咲は頷いた。


「だから、あなたが怒るのは正しいと思う」


 そして。


「でも、今はわたしを斬っている場合じゃない」


 彼女は、床に落ちた短剣を指差した。


「それを見て」


 アリシアが視線を落とす。


 短剣の刃には、奇妙な模様が浮かんでいた。


 黒い線。


 細かな文字。


 そして、俺の店の紋章によく似た印。


「……これは?」


 美咲が答えた。


「境界を切るための道具」


 俺は息をのんだ。


「境界?」


「そう。あなたの店が守っているのは、壁や床じゃない」


 美咲は、ゆっくりと店内を見回した。


「この世界と、別の世界のあいだに引かれた線なの」


 その瞬間。


 俺の視界に、新しい文字が浮かんだ。


【未解放機能:境界管理】


【外部境界への接続を検知】


【接続元:不明】


 俺は、言葉を失った。


 ……境界管理?


 まさか。


 初代店主の帳簿に書かれていた、あの力か?


     *


「……つまり、どういうことですの?」


 十分後。


 店の奥の食卓には、全員が集まっていた。


 アリシア。


 ユリウス。


 セレスティア。


 リリアーナ。


 ミロ。


 そして、美咲。


 美咲は、温かいお茶を一口飲んだ。


「……おいしい」


「話を逸らすな」


 ユリウスが、腕を組んだ。


「お前は何者だ」


「佐倉美咲。レオンと同じ世界から来た人間よ」


「同じ世界?」


「そう」


 美咲は、俺を見た。


「あなたたちが知らない、別の世界」


 リリアーナが目を輝かせた。


「では、レオン様は異世界から来た王子様なのですか!?」


「違う」


「勇者様?」


「違う」


「では、何をしていたんですか?」


「……会社員」


「カイシャイン?」


「書類を作ったり、会議をしたりする仕事だよ」


 リリアーナは、しばらく考えた。


「……それは、強いのですか?」


「弱い」


「でも、レオン様は強いです!」


 彼女は、迷いなく言った。


「お父様も、そう言っていました!」


 俺は、少しだけ笑った。


「……ありがとう」


 だが、美咲は笑わなかった。


「レオン」


「何だ」


「あなた、自分がどうやって死んだか、覚えてる?」


 部屋が静まり返った。


 俺は、眉をひそめた。


「……過労だろ」


「本当に?」


「……え?」


「あなたは、仕事中に倒れた。それは覚えている?」


「ああ」


「そのあと、何があった?」


 俺は、記憶を辿った。


 夜のオフィス。


 胸の痛み。


 倒れる椅子。


 遠くで聞こえる声。


 そして。


 ……何だ?


 その先が、思い出せない。


「……救急車?」


 俺は呟いた。


「誰かが、呼んでくれたはずだ」


 美咲は、静かに首を横に振った。


「違う」


 その声が、妙に冷たかった。


「あなたは、あの夜、死んでいない」


 俺は、息を止めた。


「……何?」


「少なくとも、わたしが知っている記録ではね」


 美咲は、鞄から一枚の紙を取り出した。


 薄い、白い紙。


 この世界では見慣れない、滑らかな質感。


 そこには、日本語が印刷されていた。


『被験者識別番号:R-017』


『境界適応試験』


『対象者:仁科玲央』


『状態:移送完了』


 俺は、目を見開いた。


 仁科玲央。


 それは、前世の俺の名前だった。


「……何だよ、これ」


 美咲は答えなかった。


 代わりに、もう一枚の紙を差し出した。


『対象者R-017への記憶処理:実施済』


『旧世界との接続:遮断』


『実験環境:第七境界領域』


 俺の手が、震えた。


 ……実験?


 俺の転生は。


 事故でも、神様の気まぐれでもなく。


 誰かが仕組んだことだったのか?


「……ふざけるな」


 思わず声が漏れた。


「俺は、ここで生きてきたんだぞ」


 美咲は、黙っていた。


「店を開いて、客を迎えて、仲間ができて……」


 俺は、紙を握りしめた。


「それが、全部実験だったっていうのか?」


 美咲の目に、涙が浮かんだ。


「……分からない」


「分からない?」


「この書類が本物だという保証も、わたしにはない」


 彼女は、苦しそうに続けた。


「でも、これを見つけたとき、あなたを放っておけなかった」


 俺は、何も言えなかった。


 そのとき。


 アリシアが、静かに俺の手を握った。


「……レオン」


「……アリシア」


「あなたが、どこから来た人でも」


 彼女は、まっすぐ俺を見た。


「私にとって、あなたはレオンです」


 その声は、少しも揺れていなかった。


「私を拾ってくれた人。働く場所をくれた人。私が剣を持たなくてもいいと教えてくれた人」


 俺は、息をのんだ。


「それが、誰かの実験だったとしても」


 アリシアは、俺の手を強く握った。


「私があなたに救われたことは、嘘ではありません」


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺は、目を閉じた。


 ……そうだ。


 そうだよな。


 何が本当で、何が嘘か。


 まだ、分からない。


 だが。


 ここで過ごした時間だけは。


 俺たちが積み重ねてきたものだけは。


 誰にも、否定させたくない。


「……ありがとう」


 俺が言うと、アリシアは小さく微笑んだ。


 その横で、セレスティアが口を開いた。


「レオン様」


「はい」


「ひとつ、確認してもよろしいですか?」


「何でしょう」


「その書類には、あなたの名前が書かれているのですね」


「……はい」


「では、初代境界商会の店主と、同じ名前だったことにも、意味があるのでしょうか」


 俺は、顔を上げた。


 ……そうだ。


 二百年前のレオン。


 今の俺。


 そして、前世の仁科玲央。


 偶然にしては、出来すぎている。


 美咲は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……初代店主のことも、調べたわ」


 俺は、息をのんだ。


「何か分かったのか?」


「ええ」


 美咲は、もう一枚の紙を取り出した。


 そこには、古い写真のような画像が印刷されていた。


 ひとりの男。


 古い服。


 そして、黒い髪。


 顔立ちは、俺によく似ていた。


 いや。


 似ている、どころではない。


「……これ」


 俺は、言葉を失った。


 写真の男は。


 俺と、同じ顔をしていた。


     *


 その夜。


 俺は、眠れなかった。


 初代店主。


 境界商会。


 実験。


 旧世界。


 そして、美咲。


 分からないことだらけだ。


 だが、ひとつだけ、はっきりしている。


 俺の店の規則が、効かなくなった。


 それは、今までの俺にとって、最も恐ろしいことだった。


 この店は、安全な場所だった。


 魔王も、勇者も、王様も。


 ここでは、誰も暴力を振るえなかった。


 だから、俺は安心して商売ができた。


 だが。


 その前提が、崩れた。


 俺は、カウンターの前に立った。


 美咲が切りつけた傷が、まだ残っている。


 俺は、そっと指でなぞった。


「……どうすればいいんだ」


 答えは、返ってこなかった。


 そのとき。


 背後から、声がした。


「……店長」


 ミロだった。


 小さな体で、大きな毛布を抱えている。


「まだ、起きていたんですか?」


「ああ」


「……寒くないですか?」


 俺は、少し笑った。


「大丈夫だよ」


 ミロは、毛布を差し出した。


「でも、これ」


「……ありがとう」


 俺は、毛布を受け取った。


 ミロは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、小さな声で言った。


「……店長」


「ん?」


「僕、怖いです」


 俺は、息を止めた。


「……何が?」


「また、ここがなくなっちゃうんじゃないかって」


 ミロは、俯いた。


「僕、やっと居場所ができたのに……」


 その声が、震えた。


 俺は、しゃがんだ。


「ミロ」


「……はい」


「怖いのは、俺も同じだ」


 ミロが、驚いたように顔を上げた。


「……店長も?」


「ああ」


 俺は、正直に答えた。


「でも、怖いからって、諦めたくない」


 ミロは、黙っていた。


「だから、一緒に考えてくれないか?」


「……何を?」


「どうやったら、この店を守れるか」


 ミロは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……はい!」


 俺は、笑った。


「ありがとう」


 そのとき。


 ミロが、ふと思い出したように言った。


「……あ、そうだ」


「どうした?」


「今日、変な注文が入っていたんです」


「変な注文?」


「はい。閉店間際に、誰もいないはずなのに、注文票が一枚増えていて……」


 俺は、眉をひそめた。


「……どんな注文?」


 ミロは、ポケットから紙を取り出した。


 そこには、見慣れない文字が並んでいた。


 だが。


 俺には、読めた。


 日本語だった。


『注文品:店主の記憶』


『数量:一』


『納品期限:明日の日没』


 俺は、息を止めた。


 ……何だ、これ。


 さらに、下には小さな文字があった。


『代金:店にいる全員の命』


 俺の手が、震えた。


 ……ふざけるな。


 誰が、こんなものを。


 その瞬間。


 視界に、赤い文字が浮かんだ。


【緊急警告】


【外部からの強制取引要求を検知】


【拒否権:なし】


【契約成立まで:二十三時間五十九分】


 俺は、目を見開いた。


 ……拒否権がない?


 そんな契約が、あるわけないだろ。


 俺は、注文票を握りしめた。


 そのとき。


 店の外から、鐘の音が響いた。


 ごおん。


 ごおん。


 ごおん。


 王都の夜を告げる鐘。


 だが、その音に混じって。


 聞き覚えのない声がした。


『第七境界領域、回収手続きを開始します』


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


 窓の外。


 夜空に、巨大な文字が浮かんでいた。


 それは、王都の誰にも読めない文字。


 だが、俺には読めた。


『実験終了まで、あと二十四時間』


 そして。


 その下に。


『被験者R-017、帰還準備を開始してください』


 俺は、息をのんだ。


 ……何だよ。


 何なんだよ、これは。


 俺は、ただ。


 店を続けたいだけなのに。

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