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15/21

第15話 世界一の商会が、うちの店を欲しがっています

「そろそろ、店をお返しいただきましょうか」


 マルセルが、手を差し出した。


 俺の視界には、赤い文字が浮かんでいる。


【店舗権能の保持状態:不安定】


【優先承継手続きの審査期限まで:02:59:41】


 あと三時間。


 その間に何かをしなければ、俺の店は奪われるかもしれない。


 店の前には十二人の兵士。


 商務局の監察官。


 王都最大級の商会の支店長。


 そして、俺の後ろには、たった五人の仲間。


 普通に考えれば、勝負にならない。


 だから俺は、笑った。


「マルセルさん」


「はい?」


「その契約書、少し見せてもらえますか?」


 マルセルの口元が緩んだ。


「ようやく、ご理解いただけましたか」


「ええ」


 俺は頷いた。


「あなた方が、何を勘違いしているのか」


 その笑顔が、止まった。


     *


「レオン殿!」


 監察官オルフェンが声を荒らげた。


「これ以上の時間稼ぎは認めん!」


「時間稼ぎではありません。確認です」


「何を確認する!」


「そもそも、あなた方が接収しようとしているのは、何ですか?」


 オルフェンは眉をひそめた。


「店舗だ」


「建物ですか? 商品ですか? 営業権ですか?」


「……何?」


「建物の占有、商品の保全、営業の停止、経営権の移管。全部、違う話ですよね」


 俺は書状を掲げた。


「昨日の命令書には『一時接収』と書かれています。でも、今朝マルセルさんが持ってきた書類には『優先承継権』とある」


 セレスティアが、俺の隣に立った。


「前者は王国の行政措置。後者は二百年前の私的契約に基づく権利主張ですわ」


 彼女の声は、冷たく澄んでいた。


「まったく別のものを、ひとつの手続きとして扱うことはできません」


「公爵令嬢といえど、商務局の職務に――」


「わたくしは、父の名で命令しているのではありません」


 セレスティアは、オルフェンをまっすぐ見た。


「王国の法に従って説明を求めているのです」


 オルフェンは口を閉じた。


 俺は、マルセルへ向き直る。


「それと、もうひとつ」


「……何でしょう」


「あなたは先ほど、『初代店主の権利が失効した場合』と言いましたよね」


「ええ」


「失効した証拠は?」


 沈黙。


「二百年前に境界商会が消えた。それだけですか?」


「商会が消滅した以上、当然――」


「商会の廃業と、店主の権能の失効が同じだという根拠は?」


 マルセルの眉が、わずかに動いた。


「……細かな法律論ですね」


「大事な話です。店を奪うんでしょう?」


 俺は、もう一枚の紙を取り出した。


 昨夜、セドリックから借りた古い帳簿の写し。


「初代店主は、ベルク家への権利移転を最後まで承認しなかった。これはあなたも認めました」


「……」


「それなのに、二百年後の俺の店に優先承継権が及ぶと言う」


 俺は一歩前に出た。


「初代の店と俺の店が、法的に同じものだという証明はありますか?」


 マルセルは、答えなかった。


 俺は続ける。


「店主の名前が同じだから? 力が似ているから? それだけで、別の人間が開いた別の店まで、二百年前の契約で縛れるんですか?」


 長い沈黙。


 そして。


 マルセルが、小さく笑った。


「……なるほど」


 彼は手袋を直した。


「やはり、あなたは普通の商人ではない」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「ですが」


 マルセルは、オルフェンを見た。


「法的な議論を続けることはできます。しかし、接収命令は依然として有効です」


 オルフェンが頷いた。


「そのとおりだ」


 マルセルは俺に向き直った。


「レオン様。あなたは、今ここで勝ったつもりかもしれない」


 その目が、冷たく光った。


「ですが、明日から商品が届かなくなれば、店は続けられません」


 俺は、黙って聞いていた。


「職人たちは材料を買えない。救護院には食料が届かない。魔王軍は飢える」


 マルセルは、穏やかな声で続けた。


「あなたが守りたい人々は、あなたが意地を張るほど苦しむのですよ」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 ……卑怯だ。


 だが、完全な嘘でもない。


 現実に、物資は足りていない。


 俺の店が閉まれば、困る人がいる。


「最後の機会です」


 マルセルは契約書を差し出した。


「署名してください。そうすれば、すべて解決します」


 俺は、契約書を見た。


 そして。


「……分かりました」


 背後で、誰かが息をのんだ。


「レオン!?」


 アリシアの声。


「店長!」


 ミロの声。


 マルセルが、満足そうに微笑む。


「賢明なご判断です」


「ただし」


 俺は顔を上げた。


「ひとつ、条件があります」


「……条件?」


「この契約で救われるという人たちに、直接説明してください」


 マルセルが目を細めた。


「……何を?」


「ベルク商会が商品を供給する代わりに、何を要求するのか」


 俺は、店の外を指差した。


「みんなの前で」


     *


 王都の中央通り。


 店の前には、いつの間にか大勢の人が集まっていた。


 職人。


 商人。


 買い物客。


 そして、救護院の職員たち。


 俺は昨夜、ユリウスに頼んでいた。


 もし朝になって店の接収が始まったら、昨日話を聞いた人たちに、公開の説明があることを知らせてほしい、と。


 抗議に集めたわけではない。


 誰かを殴らせるためでもない。


 ただ、当事者に話を聞いてもらいたかった。


「……レオン」


 ユリウスが、俺の隣に立った。


「本当に、これでいいのか?」


「ああ」


「俺は、商売のことはまだ分からん」


「知ってる」


「だが、ひとつだけ分かる」


 彼は、集まった人々を見た。


「お前がいなくなれば、困る人間が大勢いる」


 俺は、少しだけ笑った。


「……ありがとう」


 そのとき。


「レオンさん!」


 人混みの向こうから、エドガーが駆けてきた。


 金属加工職人。


 ベルク商会に工房の買収を持ちかけられていた男だ。


「間に合ったか!」


「エドガーさん?」


「これを見てくれ!」


 彼は、布に包まれた金属片を差し出した。


 灰色の鉄材。


 だが、普通の鉄よりも、少し青みがかっている。


「……何ですか?」


「魔族領から届いた試験用の鉄材だ!」


 俺は目を見開いた。


「もう届いたんですか!?」


「ああ! 国境の商人が、正式な通関手続きを済ませて運んできてくれた。少量だがな!」


 エドガーは、興奮した様子で続けた。


「昨日の夜、工房で加工してみた。驚いたよ。硬いのに、薄く伸ばせる。留め具に使うなら、十分な品質だ!」


 俺は、金属片を受け取った。


 冷たい。


 ずっしりと重い。


 だが、その重さが、妙に嬉しかった。


「……よかった」


「まだ量産できるかは分からん。価格も、輸送費も、これからだ」


「ええ」


「だが、道はある!」


 エドガーは、力強く笑った。


「ベルク商会から買えなくても、俺たちは仕事を続けられるかもしれない!」


 その声を聞いて、周囲の職人たちがざわめいた。


「魔族領の鉄?」


「本当に使えるのか?」


「俺たちも仕入れられるのか?」


 俺は、エドガーを見た。


 彼は頷いた。


 俺は、人々に向き直った。


「まだ試験段階です。安定供給も、品質の確認も、これからです」


 俺は、はっきりと言った。


「でも、仕入れ先はひとつじゃない」


 その言葉に、何人かの商人が顔を上げた。


「みんなで情報を持ち寄れば、別の道が見つかるかもしれません」


 マルセルが、静かに口を開いた。


「……美しいお話ですね」


 俺は振り返った。


「そうですか?」


「ええ。ですが、現実の商売は、それほど甘くありません」


 彼は、集まった人々を見回した。


「魔族領からの鉄材が、いつまで安定して届くと思いますか? 輸送費は? 関税は? 品質保証は?」


 正論だった。


 だから俺は、頷いた。


「そのとおりです」


 マルセルの表情が、少し変わった。


「……ほう?」


「だから、試験から始めます。小口で仕入れて、品質を確かめて、採算が合うか計算する」


 俺は続けた。


「大きな商会が得意なこともあります。でも、小さな商人にしかできないこともある」


「……何ですか、それは」


「小さく試して、早く変えることです」


 マルセルは、黙った。


 俺は、さらに続けた。


「それに、ベルク商会から仕入れることを拒んでいるわけじゃありません」


 俺は、彼を見た。


「適正な条件なら、取引したいです」


 マルセルの眉が動いた。


「……今さら?」


「はい」


 俺は笑った。


「うちは雑貨屋ですから。売れる商品があれば、仕入れたい」


 周囲から、小さな笑いが起きた。


 だが、マルセルは笑わなかった。


 彼は、俺をじっと見つめていた。


 その目には、先ほどまでとは違うものが浮かんでいた。


 怒り。


 焦り。


 そして。


 ほんの少しの、恐れ。


     *


「レオン様!」


 突然、セレスティアが声を上げた。


 彼女は、王国の紋章が入った封書を手にしていた。


「父から、正式な回答が届きました!」


 俺は、息をのんだ。


「……どうでした?」


 セレスティアは、封書を開いた。


 そして、読み上げた。


「王国商務局による一時接収命令について、手続き上の重大な疑義が認められるため、王国法務院による緊急審査を開始する」


 ざわめき。


 オルフェンの顔色が変わった。


「……何だと?」


 セレスティアは続けた。


「審査が終了するまで、店舗の管理権移管に関する執行を停止する」


 俺は、思わず息を吐いた。


 ……助かった。


 少なくとも、今すぐ店を奪われることはない。


 だが、セレスティアはまだ読み終えていなかった。


「さらに、王国商務局の接収命令に、民間商会の権利承継請求が組み込まれていた経緯について、独立調査を行う」


 オルフェンが、後ずさった。


「そ、それは……」


 マルセルは、無言だった。


 セレスティアは、封書を閉じた。


 そして、俺を見た。


「レオン様」


「はい」


「……あなたの店は、守られました」


 その瞬間。


 俺の視界に、文字が浮かんだ。


【優先承継手続き:停止】


【店舗権能の保持状態:安定】


【外部移転処理:不成立】


 俺は、思わず膝の力が抜けそうになった。


 ……終わった。


 本当に、終わったのか。


 アリシアが、俺の腕を支えた。


「レオン」


「……ありがとう」


 彼女は、静かに微笑んだ。


「お疲れさまでした」


 その声を聞いた瞬間。


 張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。


 俺は、目を閉じた。


 ……よかった。


 本当に。


     *


 だが。


 マルセルは、まだ帰らなかった。


「……見事です」


 彼は、ゆっくりと拍手した。


 一回。


 二回。


 三回。


 その音が、妙に大きく響いた。


「正直、ここまで抵抗されるとは思いませんでした」


 俺は、彼を見た。


「……まだ何か?」


「ええ」


 マルセルは、微笑んだ。


「ひとつだけ、教えて差し上げましょう」


 彼は、俺に近づいた。


 アリシアが、即座に間へ入る。


「それ以上、近づかないでください」


「おや。怖いですね」


 マルセルは、足を止めた。


「ですが、ご安心を。私は、暴力を好みません」


 彼は、俺を見た。


「レオン様。あなたは、なぜベルク商会が、そこまであなたの店を欲しがるのか、不思議に思いませんでしたか?」


「……もちろん、思いました」


「でしょうね」


 マルセルは、懐から小さな金属板を取り出した。


 古びた銀色の板。


 中央には、見覚えのある紋章。


 境界商会の紋章だった。


「これは、二百年前の遺物です」


「……何ですか?」


「初代境界商会が使っていた、店主印です」


 俺は、息をのんだ。


 マルセルは、金属板を指で弾いた。


 澄んだ音が響く。


 その瞬間。


 俺の視界に、文字が浮かんだ。


【旧店舗権能の残滓を検知】


【対象:初代境界商会・店主印】


【認証状態:不明】


 ……何だ、これ。


 マルセルは、俺の表情を見て、満足そうに笑った。


「反応しましたね」


「……何のことですか」


「やはり、あなたには見えるのですね」


 俺は、黙った。


 マルセルは続けた。


「ベルク商会は、二百年間、この力を研究してきました」


「……研究?」


「ええ。人間の王も、魔族の将軍も、従わせることができる場所」


 彼は、金属板を握った。


「そんなものが、商売に使えたら、どれほどの価値があると思いますか?」


 俺は、背筋が冷たくなった。


「……あなたは」


「はい」


 マルセルは、笑った。


「私は、あなたの店が欲しい」


 そして。


「ですが、正確には、あなたの店そのものではありません」


 彼は、ゆっくりと顔を近づけた。


「その力を、世界中の商会に売りたいのです」


 俺は、言葉を失った。


 店の規則。


 世界の法則を書き換える力。


 それを、商品にする?


 マルセルは、楽しそうに続けた。


「考えてみてください。盗みができない金庫。暴力が起きない会議室。契約違反ができない取引所」


 彼は、指を一本ずつ立てた。


「どれも、莫大な価値がある」


 ……確かに。


 もし、そんな場所を作れたら。


 商売は、根本から変わる。


 だが。


「……それを、誰が管理するんですか?」


 俺が尋ねると、マルセルは笑った。


「もちろん、ベルク商会です」


 俺は、首を横に振った。


「だったら、駄目です」


「……なぜ?」


「そんな力を、ひとつの商会が独占したら、誰も逆らえなくなる」


 マルセルの笑みが消えた。


「……理想論ですね」


「そうかもしれません」


 俺は、彼を見た。


「でも、俺の店は、誰かを支配するためにあるんじゃない」


 マルセルは、しばらく黙っていた。


 そして。


「……残念です」


 彼は、金属板を懐に戻した。


「本当に、残念だ」


 その声には、初めて本物の感情が混じっていた。


 怒りでも、嘲笑でもない。


 失望。


 まるで、価値あるものを無駄にしている人間を見るような目だった。


「レオン様」


「……はい」


「あなたは、世界を変えられる力を持っている」


 彼は、静かに言った。


「それなのに、小さな店の主人で満足している」


 俺は、少し考えた。


 そして、答えた。


「……ええ」


 マルセルが目を細める。


「それで、いいのですか?」


「はい」


 俺は、店の看板を見上げた。


「俺は、ここが好きなので」


 マルセルは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりと背を向けた。


「……いずれ、後悔しますよ」


 その言葉を残し、彼は去っていった。


     *


 夕方。


 店は、久しぶりに穏やかな空気に包まれていた。


 セレスティアが、厨房でアリシアと一緒にお茶を淹れている。


 リリアーナは、ミロに魔族領の果実の食べ方を教えていた。


 ユリウスは、店の前で荷物を運んでいる。


 そして俺は、帳簿を整理していた。


「……平和だな」


 思わず呟く。


「何がですか?」


 アリシアが、俺の隣に来た。


「いや。久しぶりに、普通の店みたいだなって」


 彼女は、少し笑った。


「普通の店ですよ」


「……そうかな」


「はい」


 アリシアは、俺を見た。


「少し、変わっているだけです」


 俺は、笑った。


「それは否定できない」


 彼女も笑った。


 その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。


 昨日の夜。


 彼女が言ってくれた言葉を思い出す。


『店がなくなっても、あなたのそばにいたい』


 俺は、少し迷った。


 そして、口を開いた。


「……アリシア」


「はい?」


「昨日の話なんだけど」


 彼女の表情が、変わった。


「……はい」


「俺も、君がそばにいてくれると嬉しい」


 アリシアの頬が、赤くなった。


「……本当ですか?」


「ああ」


 俺は、少し照れくさくなった。


「君がいると、安心する」


 アリシアは、しばらく俺を見つめていた。


 そして。


「……ずるいです」


「え?」


「そんなことを言われたら……」


 彼女は、顔を伏せた。


 耳まで赤い。


 俺は、思わず笑った。


「……ごめん」


「謝らないでください」


 彼女は、小さく首を振った。


「……嬉しいので」


 そのとき。


「レオン様!」


 セレスティアの声がした。


 振り向くと、彼女がこちらへ歩いてきた。


「今夜、少しお時間をいただけませんか?」


「……何でしょう」


「お話ししたいことがあります」


 彼女は、真剣な顔だった。


 いつもの、いたずらっぽい笑みではない。


「……大切なお話です」


 俺は、頷いた。


「分かりました」


 その横で、アリシアが、少しだけ目を伏せた。


 ……何だろう。


 嫌な予感がする。


 いや。


 これは、嫌な予感ではないのかもしれない。


 もっと、別の何かだ。


     *


 夜。


 店の裏庭。


 セレスティアは、月明かりの下で待っていた。


 銀色の髪が、風に揺れている。


「……レオン様」


「お待たせしました」


「いえ」


 彼女は、少しだけ微笑んだ。


 だが、すぐに真剣な表情に戻った。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。助かりました」


「……わたくし、ずっと考えていたんです」


「何を?」


 セレスティアは、夜空を見上げた。


「わたくしは、ルミエール公爵家の娘です」


「はい」


「生まれたときから、将来の役割が決まっていました。誰と結婚するか。どこで暮らすか。どんな人間になるべきか」


 俺は、黙って聞いていた。


「それが、当たり前だと思っていました」


 彼女は、俺を見た。


「でも、あなたに会って、初めて思ったんです」


「……何を?」


「自分の人生を、自分で決めてみたい、と」


 俺は、息をのんだ。


 セレスティアは、一歩近づいた。


「わたくし、あなたのお店で働きたいです」


「……本気ですか?」


「はい」


「公爵家の方が、雑貨屋で?」


「ええ」


 彼女は、笑った。


「身分ではなく、わたくし自身を見てくださる場所で、働いてみたいんです」


 俺は、少し考えた。


 そして、頷いた。


「……分かりました」


 セレスティアの瞳が輝いた。


「本当ですか!?」


「ただし、試用期間からです」


「もちろんです!」


「賃金も、他の人と同じ基準で」


「はい!」


「それから、店の仕事は、結構大変ですよ」


「望むところですわ!」


 俺は、思わず笑った。


「じゃあ、よろしくお願いします」


 手を差し出す。


 セレスティアは、その手を握った。


 だが。


 すぐには離さなかった。


「……レオン様」


「はい?」


 彼女は、少しだけ頬を赤くした。


「もうひとつ、お願いがあります」


「……何でしょう」


「わたくしを、ただの従業員としてだけではなく……」


 彼女は、言葉を探すように目を伏せた。


 そして。


「……一人の女性としても、見ていただけませんか?」


 俺は、完全に固まった。


 セレスティアは、まっすぐ俺を見つめていた。


「……駄目ですか?」


 その声は、かすかに震えていた。


 俺は、何も言えなかった。


 まさか。


 公爵令嬢が、俺に?


 いや、待て。


 俺は、ただの雑貨屋の店主だぞ。


 何かの間違いじゃないのか?


 だが、彼女の瞳は真剣だった。


「……セレスティア」


「はい」


「俺は……」


 言いかけた、そのとき。


 ばたん!


 裏庭の扉が開いた。


「レオン様ーっ!」


 リリアーナだった。


 満面の笑み。


 そして、両手には大きな箱。


「お父様から、婚約祝いが届きました!」


「婚約してない!」


 俺の叫びが、夜空に響いた。


 セレスティアは、口元を押さえて笑っている。


 リリアーナは、不思議そうに首をかしげた。


「え? まだですか?」


「まだどころか、話が進んでない!」


「では、今から進めましょう!」


「そういう問題じゃない!」


 その騒ぎを聞きつけて、アリシアが裏庭に出てきた。


「……店長?」


 彼女の視線が、俺とセレスティアの手に落ちた。


 まだ、握ったままだった。


 ……まずい。


 アリシアは、静かに微笑んだ。


「……楽しそうですね」


 俺は、背筋が凍った。


 リリアーナが、元気よく答えた。


「はい! 今、婚約の相談をしていたところです!」


「してない!」


 アリシアの笑顔が、さらに深くなった。


 セレスティアは、なぜか楽しそうだった。


 俺は、頭を抱えた。


 ……世界一の商会より、こっちの方が手強いかもしれない。


     *


 その夜。


 俺は、久しぶりにぐっすり眠れると思っていた。


 だが。


 深夜。


 突然、目が覚めた。


 ……何だ?


 何かが、おかしい。


 店の中が、静かすぎる。


 いつもなら、夜でも聞こえるはずの風の音がない。


 俺は、寝台から起き上がった。


 そして、気づいた。


 視界の端に、赤い文字が浮かんでいる。


【警告】


【店舗規則の一部に異常を検知】


 ……え?


 俺は、息をのんだ。


【規則適用範囲:正常】


【店舗権能の保持状態:安定】


【外部干渉:なし】


 ならば、何が異常なんだ?


 文字が、続いた。


【規則実行処理:失敗】


【対象規則:店内での暴力行為は禁止】


 俺は、目を見開いた。


 ……失敗?


 そんなこと、あるのか?


 今まで、店の規則が破られたことは、一度もなかった。


 魔王の魔力も。


 勇者の聖剣も。


 王国の兵士も。


 すべて、店の規則には逆らえなかった。


 それなのに。


 俺は、慌てて部屋を飛び出した。


 階段を駆け下りる。


 店内は、真っ暗だった。


「……誰か、いるのか?」


 返事はない。


 俺は、カウンターの奥へ進んだ。


 そのとき。


 かつん。


 小さな音がした。


 店の入口。


 月明かりの中に、ひとりの人影が立っていた。


 黒い外套。


 深く被ったフード。


 顔は、見えない。


「……どなたですか?」


 俺は、声をかけた。


 人影は、ゆっくりと顔を上げた。


 そして。


「……やっと、見つけた」


 若い女性の声だった。


 その声を聞いた瞬間。


 俺の心臓が、強く跳ねた。


 なぜだろう。


 初めて聞くはずなのに。


 どこか、懐かしい。


「……誰ですか」


 女性は、フードを外した。


 長い黒髪。


 白い肌。


 そして、俺と同じ、黒い瞳。


 この世界では、ほとんど見かけない色だった。


 彼女は、俺を見つめた。


 その瞳に、涙が浮かんでいた。


「……レオン」


 俺は、息を止めた。


 女性は、ゆっくりと微笑んだ。


「久しぶり」


 ……久しぶり?


 何を言っているんだ?


 俺は、この人を知らない。


 知らない、はずなのに。


 なぜか。


 胸の奥が、痛かった。


「……あなたは、誰なんですか」


 女性は、一歩近づいた。


 そして、静かに答えた。


「わたしは、あなたを迎えに来たの」


 その瞬間。


 視界に、文字が浮かんだ。


【警告】


【旧世界由来の存在を検知】


【店舗規則による干渉:不可】


 俺は、息をのんだ。


 ……旧世界?


 まさか。


 この人は。


 俺と同じ世界から来た人間なのか?


 女性は、ゆっくりと手を差し出した。


「レオン」


 その声は、優しかった。


 そして、ひどく悲しそうだった。


「もう、こんなところで頑張らなくていいんだよ」


 俺は、動けなかった。


 女性は、微笑んだ。


「……帰ろう」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


「わたしたちの世界へ」

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