第15話 世界一の商会が、うちの店を欲しがっています
「そろそろ、店をお返しいただきましょうか」
マルセルが、手を差し出した。
俺の視界には、赤い文字が浮かんでいる。
【店舗権能の保持状態:不安定】
【優先承継手続きの審査期限まで:02:59:41】
あと三時間。
その間に何かをしなければ、俺の店は奪われるかもしれない。
店の前には十二人の兵士。
商務局の監察官。
王都最大級の商会の支店長。
そして、俺の後ろには、たった五人の仲間。
普通に考えれば、勝負にならない。
だから俺は、笑った。
「マルセルさん」
「はい?」
「その契約書、少し見せてもらえますか?」
マルセルの口元が緩んだ。
「ようやく、ご理解いただけましたか」
「ええ」
俺は頷いた。
「あなた方が、何を勘違いしているのか」
その笑顔が、止まった。
*
「レオン殿!」
監察官オルフェンが声を荒らげた。
「これ以上の時間稼ぎは認めん!」
「時間稼ぎではありません。確認です」
「何を確認する!」
「そもそも、あなた方が接収しようとしているのは、何ですか?」
オルフェンは眉をひそめた。
「店舗だ」
「建物ですか? 商品ですか? 営業権ですか?」
「……何?」
「建物の占有、商品の保全、営業の停止、経営権の移管。全部、違う話ですよね」
俺は書状を掲げた。
「昨日の命令書には『一時接収』と書かれています。でも、今朝マルセルさんが持ってきた書類には『優先承継権』とある」
セレスティアが、俺の隣に立った。
「前者は王国の行政措置。後者は二百年前の私的契約に基づく権利主張ですわ」
彼女の声は、冷たく澄んでいた。
「まったく別のものを、ひとつの手続きとして扱うことはできません」
「公爵令嬢といえど、商務局の職務に――」
「わたくしは、父の名で命令しているのではありません」
セレスティアは、オルフェンをまっすぐ見た。
「王国の法に従って説明を求めているのです」
オルフェンは口を閉じた。
俺は、マルセルへ向き直る。
「それと、もうひとつ」
「……何でしょう」
「あなたは先ほど、『初代店主の権利が失効した場合』と言いましたよね」
「ええ」
「失効した証拠は?」
沈黙。
「二百年前に境界商会が消えた。それだけですか?」
「商会が消滅した以上、当然――」
「商会の廃業と、店主の権能の失効が同じだという根拠は?」
マルセルの眉が、わずかに動いた。
「……細かな法律論ですね」
「大事な話です。店を奪うんでしょう?」
俺は、もう一枚の紙を取り出した。
昨夜、セドリックから借りた古い帳簿の写し。
「初代店主は、ベルク家への権利移転を最後まで承認しなかった。これはあなたも認めました」
「……」
「それなのに、二百年後の俺の店に優先承継権が及ぶと言う」
俺は一歩前に出た。
「初代の店と俺の店が、法的に同じものだという証明はありますか?」
マルセルは、答えなかった。
俺は続ける。
「店主の名前が同じだから? 力が似ているから? それだけで、別の人間が開いた別の店まで、二百年前の契約で縛れるんですか?」
長い沈黙。
そして。
マルセルが、小さく笑った。
「……なるほど」
彼は手袋を直した。
「やはり、あなたは普通の商人ではない」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「ですが」
マルセルは、オルフェンを見た。
「法的な議論を続けることはできます。しかし、接収命令は依然として有効です」
オルフェンが頷いた。
「そのとおりだ」
マルセルは俺に向き直った。
「レオン様。あなたは、今ここで勝ったつもりかもしれない」
その目が、冷たく光った。
「ですが、明日から商品が届かなくなれば、店は続けられません」
俺は、黙って聞いていた。
「職人たちは材料を買えない。救護院には食料が届かない。魔王軍は飢える」
マルセルは、穏やかな声で続けた。
「あなたが守りたい人々は、あなたが意地を張るほど苦しむのですよ」
その言葉に、胸が痛んだ。
……卑怯だ。
だが、完全な嘘でもない。
現実に、物資は足りていない。
俺の店が閉まれば、困る人がいる。
「最後の機会です」
マルセルは契約書を差し出した。
「署名してください。そうすれば、すべて解決します」
俺は、契約書を見た。
そして。
「……分かりました」
背後で、誰かが息をのんだ。
「レオン!?」
アリシアの声。
「店長!」
ミロの声。
マルセルが、満足そうに微笑む。
「賢明なご判断です」
「ただし」
俺は顔を上げた。
「ひとつ、条件があります」
「……条件?」
「この契約で救われるという人たちに、直接説明してください」
マルセルが目を細めた。
「……何を?」
「ベルク商会が商品を供給する代わりに、何を要求するのか」
俺は、店の外を指差した。
「みんなの前で」
*
王都の中央通り。
店の前には、いつの間にか大勢の人が集まっていた。
職人。
商人。
買い物客。
そして、救護院の職員たち。
俺は昨夜、ユリウスに頼んでいた。
もし朝になって店の接収が始まったら、昨日話を聞いた人たちに、公開の説明があることを知らせてほしい、と。
抗議に集めたわけではない。
誰かを殴らせるためでもない。
ただ、当事者に話を聞いてもらいたかった。
「……レオン」
ユリウスが、俺の隣に立った。
「本当に、これでいいのか?」
「ああ」
「俺は、商売のことはまだ分からん」
「知ってる」
「だが、ひとつだけ分かる」
彼は、集まった人々を見た。
「お前がいなくなれば、困る人間が大勢いる」
俺は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
そのとき。
「レオンさん!」
人混みの向こうから、エドガーが駆けてきた。
金属加工職人。
ベルク商会に工房の買収を持ちかけられていた男だ。
「間に合ったか!」
「エドガーさん?」
「これを見てくれ!」
彼は、布に包まれた金属片を差し出した。
灰色の鉄材。
だが、普通の鉄よりも、少し青みがかっている。
「……何ですか?」
「魔族領から届いた試験用の鉄材だ!」
俺は目を見開いた。
「もう届いたんですか!?」
「ああ! 国境の商人が、正式な通関手続きを済ませて運んできてくれた。少量だがな!」
エドガーは、興奮した様子で続けた。
「昨日の夜、工房で加工してみた。驚いたよ。硬いのに、薄く伸ばせる。留め具に使うなら、十分な品質だ!」
俺は、金属片を受け取った。
冷たい。
ずっしりと重い。
だが、その重さが、妙に嬉しかった。
「……よかった」
「まだ量産できるかは分からん。価格も、輸送費も、これからだ」
「ええ」
「だが、道はある!」
エドガーは、力強く笑った。
「ベルク商会から買えなくても、俺たちは仕事を続けられるかもしれない!」
その声を聞いて、周囲の職人たちがざわめいた。
「魔族領の鉄?」
「本当に使えるのか?」
「俺たちも仕入れられるのか?」
俺は、エドガーを見た。
彼は頷いた。
俺は、人々に向き直った。
「まだ試験段階です。安定供給も、品質の確認も、これからです」
俺は、はっきりと言った。
「でも、仕入れ先はひとつじゃない」
その言葉に、何人かの商人が顔を上げた。
「みんなで情報を持ち寄れば、別の道が見つかるかもしれません」
マルセルが、静かに口を開いた。
「……美しいお話ですね」
俺は振り返った。
「そうですか?」
「ええ。ですが、現実の商売は、それほど甘くありません」
彼は、集まった人々を見回した。
「魔族領からの鉄材が、いつまで安定して届くと思いますか? 輸送費は? 関税は? 品質保証は?」
正論だった。
だから俺は、頷いた。
「そのとおりです」
マルセルの表情が、少し変わった。
「……ほう?」
「だから、試験から始めます。小口で仕入れて、品質を確かめて、採算が合うか計算する」
俺は続けた。
「大きな商会が得意なこともあります。でも、小さな商人にしかできないこともある」
「……何ですか、それは」
「小さく試して、早く変えることです」
マルセルは、黙った。
俺は、さらに続けた。
「それに、ベルク商会から仕入れることを拒んでいるわけじゃありません」
俺は、彼を見た。
「適正な条件なら、取引したいです」
マルセルの眉が動いた。
「……今さら?」
「はい」
俺は笑った。
「うちは雑貨屋ですから。売れる商品があれば、仕入れたい」
周囲から、小さな笑いが起きた。
だが、マルセルは笑わなかった。
彼は、俺をじっと見つめていた。
その目には、先ほどまでとは違うものが浮かんでいた。
怒り。
焦り。
そして。
ほんの少しの、恐れ。
*
「レオン様!」
突然、セレスティアが声を上げた。
彼女は、王国の紋章が入った封書を手にしていた。
「父から、正式な回答が届きました!」
俺は、息をのんだ。
「……どうでした?」
セレスティアは、封書を開いた。
そして、読み上げた。
「王国商務局による一時接収命令について、手続き上の重大な疑義が認められるため、王国法務院による緊急審査を開始する」
ざわめき。
オルフェンの顔色が変わった。
「……何だと?」
セレスティアは続けた。
「審査が終了するまで、店舗の管理権移管に関する執行を停止する」
俺は、思わず息を吐いた。
……助かった。
少なくとも、今すぐ店を奪われることはない。
だが、セレスティアはまだ読み終えていなかった。
「さらに、王国商務局の接収命令に、民間商会の権利承継請求が組み込まれていた経緯について、独立調査を行う」
オルフェンが、後ずさった。
「そ、それは……」
マルセルは、無言だった。
セレスティアは、封書を閉じた。
そして、俺を見た。
「レオン様」
「はい」
「……あなたの店は、守られました」
その瞬間。
俺の視界に、文字が浮かんだ。
【優先承継手続き:停止】
【店舗権能の保持状態:安定】
【外部移転処理:不成立】
俺は、思わず膝の力が抜けそうになった。
……終わった。
本当に、終わったのか。
アリシアが、俺の腕を支えた。
「レオン」
「……ありがとう」
彼女は、静かに微笑んだ。
「お疲れさまでした」
その声を聞いた瞬間。
張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
俺は、目を閉じた。
……よかった。
本当に。
*
だが。
マルセルは、まだ帰らなかった。
「……見事です」
彼は、ゆっくりと拍手した。
一回。
二回。
三回。
その音が、妙に大きく響いた。
「正直、ここまで抵抗されるとは思いませんでした」
俺は、彼を見た。
「……まだ何か?」
「ええ」
マルセルは、微笑んだ。
「ひとつだけ、教えて差し上げましょう」
彼は、俺に近づいた。
アリシアが、即座に間へ入る。
「それ以上、近づかないでください」
「おや。怖いですね」
マルセルは、足を止めた。
「ですが、ご安心を。私は、暴力を好みません」
彼は、俺を見た。
「レオン様。あなたは、なぜベルク商会が、そこまであなたの店を欲しがるのか、不思議に思いませんでしたか?」
「……もちろん、思いました」
「でしょうね」
マルセルは、懐から小さな金属板を取り出した。
古びた銀色の板。
中央には、見覚えのある紋章。
境界商会の紋章だった。
「これは、二百年前の遺物です」
「……何ですか?」
「初代境界商会が使っていた、店主印です」
俺は、息をのんだ。
マルセルは、金属板を指で弾いた。
澄んだ音が響く。
その瞬間。
俺の視界に、文字が浮かんだ。
【旧店舗権能の残滓を検知】
【対象:初代境界商会・店主印】
【認証状態:不明】
……何だ、これ。
マルセルは、俺の表情を見て、満足そうに笑った。
「反応しましたね」
「……何のことですか」
「やはり、あなたには見えるのですね」
俺は、黙った。
マルセルは続けた。
「ベルク商会は、二百年間、この力を研究してきました」
「……研究?」
「ええ。人間の王も、魔族の将軍も、従わせることができる場所」
彼は、金属板を握った。
「そんなものが、商売に使えたら、どれほどの価値があると思いますか?」
俺は、背筋が冷たくなった。
「……あなたは」
「はい」
マルセルは、笑った。
「私は、あなたの店が欲しい」
そして。
「ですが、正確には、あなたの店そのものではありません」
彼は、ゆっくりと顔を近づけた。
「その力を、世界中の商会に売りたいのです」
俺は、言葉を失った。
店の規則。
世界の法則を書き換える力。
それを、商品にする?
マルセルは、楽しそうに続けた。
「考えてみてください。盗みができない金庫。暴力が起きない会議室。契約違反ができない取引所」
彼は、指を一本ずつ立てた。
「どれも、莫大な価値がある」
……確かに。
もし、そんな場所を作れたら。
商売は、根本から変わる。
だが。
「……それを、誰が管理するんですか?」
俺が尋ねると、マルセルは笑った。
「もちろん、ベルク商会です」
俺は、首を横に振った。
「だったら、駄目です」
「……なぜ?」
「そんな力を、ひとつの商会が独占したら、誰も逆らえなくなる」
マルセルの笑みが消えた。
「……理想論ですね」
「そうかもしれません」
俺は、彼を見た。
「でも、俺の店は、誰かを支配するためにあるんじゃない」
マルセルは、しばらく黙っていた。
そして。
「……残念です」
彼は、金属板を懐に戻した。
「本当に、残念だ」
その声には、初めて本物の感情が混じっていた。
怒りでも、嘲笑でもない。
失望。
まるで、価値あるものを無駄にしている人間を見るような目だった。
「レオン様」
「……はい」
「あなたは、世界を変えられる力を持っている」
彼は、静かに言った。
「それなのに、小さな店の主人で満足している」
俺は、少し考えた。
そして、答えた。
「……ええ」
マルセルが目を細める。
「それで、いいのですか?」
「はい」
俺は、店の看板を見上げた。
「俺は、ここが好きなので」
マルセルは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと背を向けた。
「……いずれ、後悔しますよ」
その言葉を残し、彼は去っていった。
*
夕方。
店は、久しぶりに穏やかな空気に包まれていた。
セレスティアが、厨房でアリシアと一緒にお茶を淹れている。
リリアーナは、ミロに魔族領の果実の食べ方を教えていた。
ユリウスは、店の前で荷物を運んでいる。
そして俺は、帳簿を整理していた。
「……平和だな」
思わず呟く。
「何がですか?」
アリシアが、俺の隣に来た。
「いや。久しぶりに、普通の店みたいだなって」
彼女は、少し笑った。
「普通の店ですよ」
「……そうかな」
「はい」
アリシアは、俺を見た。
「少し、変わっているだけです」
俺は、笑った。
「それは否定できない」
彼女も笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
昨日の夜。
彼女が言ってくれた言葉を思い出す。
『店がなくなっても、あなたのそばにいたい』
俺は、少し迷った。
そして、口を開いた。
「……アリシア」
「はい?」
「昨日の話なんだけど」
彼女の表情が、変わった。
「……はい」
「俺も、君がそばにいてくれると嬉しい」
アリシアの頬が、赤くなった。
「……本当ですか?」
「ああ」
俺は、少し照れくさくなった。
「君がいると、安心する」
アリシアは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ずるいです」
「え?」
「そんなことを言われたら……」
彼女は、顔を伏せた。
耳まで赤い。
俺は、思わず笑った。
「……ごめん」
「謝らないでください」
彼女は、小さく首を振った。
「……嬉しいので」
そのとき。
「レオン様!」
セレスティアの声がした。
振り向くと、彼女がこちらへ歩いてきた。
「今夜、少しお時間をいただけませんか?」
「……何でしょう」
「お話ししたいことがあります」
彼女は、真剣な顔だった。
いつもの、いたずらっぽい笑みではない。
「……大切なお話です」
俺は、頷いた。
「分かりました」
その横で、アリシアが、少しだけ目を伏せた。
……何だろう。
嫌な予感がする。
いや。
これは、嫌な予感ではないのかもしれない。
もっと、別の何かだ。
*
夜。
店の裏庭。
セレスティアは、月明かりの下で待っていた。
銀色の髪が、風に揺れている。
「……レオン様」
「お待たせしました」
「いえ」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
だが、すぐに真剣な表情に戻った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。助かりました」
「……わたくし、ずっと考えていたんです」
「何を?」
セレスティアは、夜空を見上げた。
「わたくしは、ルミエール公爵家の娘です」
「はい」
「生まれたときから、将来の役割が決まっていました。誰と結婚するか。どこで暮らすか。どんな人間になるべきか」
俺は、黙って聞いていた。
「それが、当たり前だと思っていました」
彼女は、俺を見た。
「でも、あなたに会って、初めて思ったんです」
「……何を?」
「自分の人生を、自分で決めてみたい、と」
俺は、息をのんだ。
セレスティアは、一歩近づいた。
「わたくし、あなたのお店で働きたいです」
「……本気ですか?」
「はい」
「公爵家の方が、雑貨屋で?」
「ええ」
彼女は、笑った。
「身分ではなく、わたくし自身を見てくださる場所で、働いてみたいんです」
俺は、少し考えた。
そして、頷いた。
「……分かりました」
セレスティアの瞳が輝いた。
「本当ですか!?」
「ただし、試用期間からです」
「もちろんです!」
「賃金も、他の人と同じ基準で」
「はい!」
「それから、店の仕事は、結構大変ですよ」
「望むところですわ!」
俺は、思わず笑った。
「じゃあ、よろしくお願いします」
手を差し出す。
セレスティアは、その手を握った。
だが。
すぐには離さなかった。
「……レオン様」
「はい?」
彼女は、少しだけ頬を赤くした。
「もうひとつ、お願いがあります」
「……何でしょう」
「わたくしを、ただの従業員としてだけではなく……」
彼女は、言葉を探すように目を伏せた。
そして。
「……一人の女性としても、見ていただけませんか?」
俺は、完全に固まった。
セレスティアは、まっすぐ俺を見つめていた。
「……駄目ですか?」
その声は、かすかに震えていた。
俺は、何も言えなかった。
まさか。
公爵令嬢が、俺に?
いや、待て。
俺は、ただの雑貨屋の店主だぞ。
何かの間違いじゃないのか?
だが、彼女の瞳は真剣だった。
「……セレスティア」
「はい」
「俺は……」
言いかけた、そのとき。
ばたん!
裏庭の扉が開いた。
「レオン様ーっ!」
リリアーナだった。
満面の笑み。
そして、両手には大きな箱。
「お父様から、婚約祝いが届きました!」
「婚約してない!」
俺の叫びが、夜空に響いた。
セレスティアは、口元を押さえて笑っている。
リリアーナは、不思議そうに首をかしげた。
「え? まだですか?」
「まだどころか、話が進んでない!」
「では、今から進めましょう!」
「そういう問題じゃない!」
その騒ぎを聞きつけて、アリシアが裏庭に出てきた。
「……店長?」
彼女の視線が、俺とセレスティアの手に落ちた。
まだ、握ったままだった。
……まずい。
アリシアは、静かに微笑んだ。
「……楽しそうですね」
俺は、背筋が凍った。
リリアーナが、元気よく答えた。
「はい! 今、婚約の相談をしていたところです!」
「してない!」
アリシアの笑顔が、さらに深くなった。
セレスティアは、なぜか楽しそうだった。
俺は、頭を抱えた。
……世界一の商会より、こっちの方が手強いかもしれない。
*
その夜。
俺は、久しぶりにぐっすり眠れると思っていた。
だが。
深夜。
突然、目が覚めた。
……何だ?
何かが、おかしい。
店の中が、静かすぎる。
いつもなら、夜でも聞こえるはずの風の音がない。
俺は、寝台から起き上がった。
そして、気づいた。
視界の端に、赤い文字が浮かんでいる。
【警告】
【店舗規則の一部に異常を検知】
……え?
俺は、息をのんだ。
【規則適用範囲:正常】
【店舗権能の保持状態:安定】
【外部干渉:なし】
ならば、何が異常なんだ?
文字が、続いた。
【規則実行処理:失敗】
【対象規則:店内での暴力行為は禁止】
俺は、目を見開いた。
……失敗?
そんなこと、あるのか?
今まで、店の規則が破られたことは、一度もなかった。
魔王の魔力も。
勇者の聖剣も。
王国の兵士も。
すべて、店の規則には逆らえなかった。
それなのに。
俺は、慌てて部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。
店内は、真っ暗だった。
「……誰か、いるのか?」
返事はない。
俺は、カウンターの奥へ進んだ。
そのとき。
かつん。
小さな音がした。
店の入口。
月明かりの中に、ひとりの人影が立っていた。
黒い外套。
深く被ったフード。
顔は、見えない。
「……どなたですか?」
俺は、声をかけた。
人影は、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
「……やっと、見つけた」
若い女性の声だった。
その声を聞いた瞬間。
俺の心臓が、強く跳ねた。
なぜだろう。
初めて聞くはずなのに。
どこか、懐かしい。
「……誰ですか」
女性は、フードを外した。
長い黒髪。
白い肌。
そして、俺と同じ、黒い瞳。
この世界では、ほとんど見かけない色だった。
彼女は、俺を見つめた。
その瞳に、涙が浮かんでいた。
「……レオン」
俺は、息を止めた。
女性は、ゆっくりと微笑んだ。
「久しぶり」
……久しぶり?
何を言っているんだ?
俺は、この人を知らない。
知らない、はずなのに。
なぜか。
胸の奥が、痛かった。
「……あなたは、誰なんですか」
女性は、一歩近づいた。
そして、静かに答えた。
「わたしは、あなたを迎えに来たの」
その瞬間。
視界に、文字が浮かんだ。
【警告】
【旧世界由来の存在を検知】
【店舗規則による干渉:不可】
俺は、息をのんだ。
……旧世界?
まさか。
この人は。
俺と同じ世界から来た人間なのか?
女性は、ゆっくりと手を差し出した。
「レオン」
その声は、優しかった。
そして、ひどく悲しそうだった。
「もう、こんなところで頑張らなくていいんだよ」
俺は、動けなかった。
女性は、微笑んだ。
「……帰ろう」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「わたしたちの世界へ」




