第12話 その契約書、穴だらけですよ
「世界の規則を書き換える店を、ようやく見つけました」
ベルク商会王都支店長、マルセルは笑った。
その瞬間、俺は理解した。
こいつは、俺の店がただの雑貨屋ではないと知っている。
そして、その力を奪おうとしている。
「……何の話でしょうか」
俺は、できるだけ平静を装った。
「とぼける必要はありませんよ、レオン様」
マルセルは指先で契約書を叩いた。
「魔王の魔力も、勇者の聖剣も、あなたの店では意味をなさない。王国の調査記録にも、そう残っている」
なるほど。
セドリックが作成した調査報告か。
魔王軍への食料供給を調べていた王国の特別調査官。
あの男は、店内で何が起きているかを確かめようとしていた。
もっとも、記録が流出したのか、正規の手続きで閲覧されたのかは分からない。
「ずいぶん詳しいですね」
「商人は情報が命ですから」
「その情報を、どこで手に入れたんです?」
「取引先の秘密を明かす商人がいると思いますか?」
「では、俺の秘密を明かせと言われても困りますね」
マルセルの笑みが、わずかに深くなった。
「なるほど。確かに、そのとおりです」
俺は契約書を閉じた。
「では、お断りします」
「……まだ、最後までお読みになっていませんよ」
「必要ありません」
「本当に?」
マルセルが、窓の外を指差した。
「あなたの店に、明日も商品が届くと思いますか?」
部屋の空気が変わった。
ユリウスが一歩前に出る。
「貴様――」
「ユリウス」
俺は片手を上げた。
「剣は抜くな」
「だが!」
「ここは俺の店じゃない。何かあれば、君が不利になる」
ユリウスは歯を食いしばり、足を止めた。
マルセルは満足そうに頷いた。
「賢明です。王都商業組合の建物で騒ぎを起こせば、勇者様といえど問題になりますからね」
俺は、その顔を見た。
腹は立つ。
だが、ここで怒鳴ったところで、何も解決しない。
「マルセルさん」
「はい」
「ひとつ、確認させてください」
「何でしょう」
「この契約書、あなたが作ったんですか?」
「当商会の法務部門が作成したものです」
「そうですか」
俺は、契約書をもう一度開いた。
そして、笑った。
「だったら、法務の方に伝えてください」
「……何を?」
「この契約書、穴だらけですよ」
*
「……穴、ですか?」
マルセルの声から、初めて余裕が消えた。
「はい。まず、第七条」
俺は条文を指差した。
『乙は、甲が供給可能な商品について、甲以外の事業者から仕入れてはならない』
「独占仕入れですね」
「そのとおりです」
「ですが、『供給可能』の定義がありません」
マルセルの眉が動いた。
「たとえば、ベルク商会が一か月後なら納品できると言った場合。それも供給可能に含まれるんですか?」
「通常は、合理的な納期を――」
「合理的、という言葉も書かれていません」
「……」
「商品が必要なのは今日なのに、納品が一か月後。それでも他社から買えないなら、うちは商売になりません」
俺は次の条文を指差した。
「第十一条。価格改定についても同じです」
『甲は、市場環境その他の事情に応じて、供給価格を変更できる』
「値上げ幅に上限がない。事前通知期間もない。価格に合意できなかった場合の扱いもない」
「市場環境に応じた柔軟な対応が必要ですから」
「ええ。それは分かります」
俺は頷いた。
「ですが、こちらには柔軟な対応を認めていない。仕入れ先はベルク商会だけ。価格はベルク商会が決める。納期もベルク商会が決める」
契約書を閉じる。
「これでは、提携ではなく従属です」
セレスティアが、隣で小さく息をのんだ。
マルセルは、しばらく黙っていた。
「……随分と、契約にお詳しい」
「前にいた世界で、似たような書類を読んでいたもので」
「前にいた……?」
「ああ、いえ。昔の話です」
危ない。
余計なことを言いかけた。
俺は咳払いした。
「それに、もっと大きな問題があります」
「まだあると?」
「第十九条です」
俺は例の条文を示した。
『乙は、甲の承認なく、店舗の運営権、商号、特殊な営業上の権能を第三者に譲渡し、またはその利用条件を変更してはならない』
「この『特殊な営業上の権能』とは、具体的に何を指すんですか?」
「先ほど申し上げたとおりです」
「説明できないんですよね」
「……」
「対象を定義できない権利について、変更禁止だけを定めても、後から争いになります」
マルセルの指が、テーブルを一度叩いた。
「あなたは、何をお望みなのです?」
「普通に商売をしたいだけです」
「それが、どれほど難しいことか分かっているのですか?」
「難しいから、契約書を読んでいるんです」
沈黙。
俺は、少し身を乗り出した。
「マルセルさん。こちらからも提案があります」
「……ほう?」
「御社から商品を仕入れること自体は、歓迎します」
彼の目が細くなった。
「ただし、独占はなし。価格は発注ごとに合意。納期を守れない場合は他社から調達できる。店舗の営業権には一切触れない」
「……」
「その条件なら、取引を検討できます」
マルセルは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「なるほど」
彼は契約書を引き寄せた。
「あなたは、本当に面白い商人だ」
「ありがとうございます」
「ですが、ひとつ勘違いしておられる」
「何でしょう」
「交渉とは、対等な相手同士が行うものです」
その声は、冷たかった。
「あなたの店と、ベルク商会が、対等だとでも?」
俺は答えなかった。
マルセルは続けた。
「当商会は、王都の主要な問屋と長年の取引があります。倉庫も、運送網も、資金もある。あなたの店には、何がありますか?」
俺は、少し考えた。
「……お客さんですかね」
マルセルの笑みが止まった。
「それだけですか?」
「あと、仲間もいます」
俺は隣を見た。
アリシア。
ユリウス。
セレスティア。
店で待っているミロとリリアーナ。
そして、辺境の町で俺たちを支えてくれた人々。
「今のところ、それくらいです」
マルセルは、呆れたように息を吐いた。
「その程度で、当商会に勝てると?」
「勝つ必要はありません」
「……何?」
「俺は、あなたの店を潰したいわけじゃない」
俺は立ち上がった。
「うちの店を、続けたいだけです」
*
会議室を出ると、セレスティアが俺の腕を掴んだ。
「レオン様!」
「はい?」
「少し、よろしいですか?」
彼女は廊下の端へ俺を連れていった。
アリシアが、その後ろを無言でついてくる。
「……先ほどの交渉、驚きましたわ」
「そうですか?」
「ええ。マルセルは、王都でも有名な交渉人です。あの人を相手に、あれほど堂々と話せる方は、そう多くありません」
「怖かったですよ」
「え?」
「正直、今も手が震えています」
俺は右手を見せた。
指先が、わずかに震えていた。
セレスティアの表情が変わった。
「……怖かったのですか?」
「当然です。向こうは大商会の支店長。こっちは開店したばかりの雑貨屋ですから」
「それなのに、なぜ……」
「怖いからって、何でも言うことを聞いたら、次からもっと怖くなるでしょう?」
俺は苦笑した。
「それに、俺が店を手放したら、アリシアやミロが困ります」
セレスティアは、しばらく黙っていた。
そして、俺の手をそっと包んだ。
「……あなたは、本当に」
彼女の声が、小さくなる。
「ずるい方ですわ」
「え?」
「そんなことを言われたら……」
彼女は顔を赤くして、言葉を切った。
その瞬間。
「セレスティア様」
アリシアの声がした。
「……はい?」
「店長の手を、離していただけますか」
セレスティアは、俺の手を見た。
それから、アリシアを見た。
「……あら」
口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「もしかして、妬いていらっしゃいます?」
「……違います」
「そうですの?」
「はい」
アリシアは、きっぱりと言った。
「店長は、これから仕入れ先を回る予定です。時間がありません」
「ふふ。そういうことにしておきますわ」
俺は、二人の間で立ち尽くした。
……何だろう。
商業組合の会議室より、こっちの方が怖い気がする。
*
店に戻ると、ミロが駆け寄ってきた。
「店長!」
「ただいま。何かあった?」
「エドガーさんが来ています!」
奥の部屋には、金属加工職人のエドガーが座っていた。
顔色が悪い。
「……レオンさん」
「どうしました?」
エドガーは、膝の上で拳を握った。
「すまない。俺、もう……」
声が詰まった。
「工房を閉めることになるかもしれない」
俺は、椅子を引いた。
「詳しく聞かせてください」
エドガーは、ぽつぽつと話し始めた。
鉄材が入らない。
新しい注文を受けられない。
それだけではなかった。
昨日、ベルク商会の代理人が工房を訪ねてきたという。
「……うちの工房を、買い取るって言うんだ」
「買い取り?」
「ああ。借金も肩代わりする。材料も安定して供給する。その代わり、工房の名前も、取引先も、全部ベルク商会のものになる」
俺は黙って聞いた。
「断ったら、どうなるんですか?」
「何も言われなかった。ただ……」
エドガーは顔を上げた。
「今のままじゃ、材料が買えない。職人たちに給料も払えない」
その声が、震えた。
「俺ひとりなら、まだいい。でも、工房には若い職人が四人いる。家族のいるやつもいるんだ」
俺は、胸が苦しくなった。
これだ。
大商会の怖さは、ここにある。
相手を殴る必要なんてない。
材料を押さえ、資金繰りを苦しくし、救済策として買収を持ちかける。
合法な取引を積み重ねるだけでも、小さな工房は追い詰められる。
「エドガーさん」
「……何だ?」
「工房を売るのは、まだ待ってください」
「でも……」
「材料を探します」
「どこにあるっていうんだ?」
「まだ分かりません」
俺は正直に答えた。
「でも、探してもいないのに、諦めたくないんです」
エドガーは、俺を見つめた。
「……あんた、本当に変な商人だな」
「よく言われます」
彼は、かすかに笑った。
だが、その目には涙が浮かんでいた。
「……頼む」
俺は、強く頷いた。
「任せてください」
そのときだった。
「レオン様!」
リリアーナが、勢いよく部屋へ飛び込んできた。
「大変です!」
「今度は何!?」
「お父様から、緊急の連絡が!」
彼女は通信石を差し出した。
石が赤く光っている。
俺が手を触れると、ヴァルガの声が響いた。
『レオン。聞こえるか』
「聞こえます。どうしました?」
『こちらで、奇妙なことが起きている』
「奇妙なこと?」
『補給が止まっただけではない。国境の市場で、ベルク商会の代理人が動いている』
俺は息をのんだ。
「何をしているんです?」
『魔族の商人たちに、ある契約を持ちかけている』
「契約?」
『ああ。食料と薬品を優先供給する代わりに、魔族領内の交易権を独占させろ、とな』
部屋が静まり返った。
ヴァルガは続けた。
『人間の王都だけではない。奴らは、我が国の流通まで押さえようとしている』
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
なるほど。
ようやく、全体が見えてきた。
ベルク商会は、俺の店だけを狙っているわけではない。
王都の小さな工房。
救護院。
魔王軍。
そして、魔族領の交易網。
それらをまとめて、支配しようとしている。
「……ヴァルガ」
『何だ』
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
『言ってみろ』
「魔族領には、鉄材の産地がありますか?」
少し間があった。
『……ある』
「どのくらい?」
『人間の王都で使われる量と比べても、相当な規模だ』
俺は、思わず笑った。
「……そうですか」
『何を考えている?』
「商売の話です」
俺は、エドガーを見た。
彼は、何が起きているのか分からない顔をしていた。
「エドガーさん」
「……何だ?」
「魔族領の鉄材を使って、留め具を作れますか?」
エドガーは目を見開いた。
「……魔族領の?」
「はい」
「品質が合えば、作れると思うが……」
「なら、試してみましょう」
俺は通信石に向き直った。
「ヴァルガ。鉄材を、少量でいいので、こちらに送れますか?」
『可能だ。ただし、国境の検査と輸送の手配が必要になる』
「分かりました。こちらで確認します」
『……レオン』
「はい」
『お前は、まさか』
俺は笑った。
「ベルク商会が人間の流通を押さえるなら、俺たちは別の道を探すだけです」
通信石の向こうで、ヴァルガが低く笑った。
『……面白い』
「ただし、正式な許可を取って、関税も払いますよ」
『当然だ。我が国も、密輸商人と取引するつもりはない』
「それなら、話は早い」
俺は、エドガーに手を差し出した。
「工房を、もう一度動かしましょう」
エドガーは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ああ!」
力強く、俺の手を握った。
*
その夜。
俺は、店の奥で帳簿を整理していた。
アリシアが、温かいお茶を持ってきてくれた。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
彼女は、俺の向かいに座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
外では、王都の夜の鐘が鳴っている。
「……レオン」
「ん?」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
アリシアは、少し迷ってから口を開いた。
「あなたは、どうしてそこまで、他人のために頑張れるんですか?」
俺は、ペンを置いた。
「他人のため、か」
「はい。エドガーさんも、救護院の人たちも、魔王軍も。あなたが助ける義務はないはずです」
「……そうだね」
俺は、窓の外を見た。
前世の記憶が、少しだけ蘇る。
誰かに必要とされること。
誰かの役に立つこと。
それを求めて、働き続けた日々。
でも、気づけば、自分が何のために生きているのか、分からなくなっていた。
「……昔、誰にも必要とされていない気がしたことがあるんだ」
アリシアは、黙って聞いていた。
「仕事はしていた。生活もできていた。でも、俺がいなくなっても、誰も困らないんじゃないかって」
俺は、苦笑した。
「だから、この世界では、誰かに『いてくれてよかった』って言ってもらえるような生き方をしたいんだと思う」
アリシアの瞳が、揺れた。
「……レオン」
「うん?」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、俺の隣へ来た。
「……私は」
声が震えていた。
「私は、あなたがいてくれて、よかったです」
俺は、息を止めた。
アリシアは、まっすぐ俺を見ていた。
「王国を追われて、剣を持つ意味も分からなくなって……自分が何のために生きているのか、分からなくなっていました」
彼女の目に、涙が浮かぶ。
「でも、あなたの店に来て、初めて……」
言葉が詰まった。
俺は、立ち上がった。
「アリシア」
彼女は、首を横に振った。
「……最後まで、言わせてください」
俺は、黙って頷いた。
「私は、あなたのそばにいたいです」
その声は、小さかった。
けれど、はっきりと聞こえた。
「剣聖としてではなく、ただのアリシアとして」
俺は、何も言えなかった。
彼女が、そっと俺の手を握った。
「……駄目ですか?」
駄目なわけがない。
そんなこと、あるはずがない。
俺は、彼女の手を握り返した。
「……ありがとう」
アリシアは、涙をこぼしながら笑った。
「……はい」
俺たちは、しばらくそのままでいた。
言葉は、いらなかった。
だが。
その静かな時間を破るように。
店の扉が、激しく叩かれた。
「レオン! いるか!」
ユリウスの声だった。
俺たちは、慌てて手を離した。
「どうした!?」
扉を開けると、ユリウスが立っていた。
息を切らしている。
その顔には、見たことのないほどの焦りが浮かんでいた。
「……大変だ」
「何があった?」
ユリウスは、俺を見た。
「王都の兵士たちが、店に向かっている」
「……え?」
「商業組合の審査ではない」
彼は、低い声で言った。
「王国の正式な命令だ」
俺は、息をのんだ。
「……何の命令?」
ユリウスは、拳を握りしめた。
「お前の店を、接収する」
沈黙。
俺は、ゆっくりと店内を見回した。
アリシアが洗った食器。
ミロが整理した商品棚。
セレスティアが持ってきた焼き菓子。
リリアーナが置いていった、奇妙な魔族の果実。
そして、壁に貼られた、俺の店の規則。
ここは、俺たちの居場所だ。
それを、奪う?
……ふざけるな。
俺は、静かに息を吐いた。
「ユリウス」
「何だ」
「その命令書、誰の署名がある?」
ユリウスは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……王国商務局長官だ」
「陛下ではないんだな?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「だったら、まだ話す余地はある」
アリシアが、俺の隣に立った。
「レオン。私は、あなたを守ります」
「ありがとう。でも、剣は抜かないでくれ」
「……分かっています」
俺は、店の入口へ歩いた。
外には、鎧を着た兵士たちの姿が見え始めていた。
その先頭に立つ男が、声を張り上げる。
「王国商務局の命により、この店舗を一時接収する!」
俺は、扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
兵士たちが、足を止めた。
俺は、笑った。
「ご用件は伺います。ただし――」
壁の札を指差す。
『店内での威圧・脅迫行為は禁止』
「当店では、お客様も役人の方も、同じ規則を守っていただきます」




