第8話:小さな精霊と奪われた荷車
目の前に浮かぶ小さな少女が、期待に満ちた目で、名前を呼ばれるのを待っている。
心の準備が全くできていない。いや、できていたとしても、誰かの名前なんて急には決められない。
「わぁ、かわいい!」
背後からニナの大きな声が聞こえてきた。チラッと見ると、両手で口を押さえている。もはや儀礼という空気ではないので、喋ってもいいと思うが。
目の前の少女はニナを見て嬉しそうに笑い、空中でくるんと縦に一回転した。
「呼び名……呼び名……」
なんて言ってたか。
酵母系、発酵、魔菌、精霊。
本質が精霊なのか菌なのかはっきりしないが……目の前の少女を「菌です」と認めるのは難しい。ここは素直に精霊として受け取っておこう。
「酵母だから、イースト……」
イースト・何にしようか。そう考えていると――
【イースト:呼び名を受諾しました】
あ。しまった、そのまんまで決まってしまった。
「もっと長くて格好いい名前を付けなくていいのかい?」
ふるふる、とイーストの首が横に振られる。
そうか、本人が問題ないならいいか。
俺がイーストの胸の前に小指を差し出すと、彼女は両手で小指に抱きついてきた。
温かい。
小指に伝わる重みは、驚くほど軽い。羽ばたきも浮遊と連動しておらず、間違いなく魔法的な存在ではある。だが、指先に触れる体温も、かすかな息遣いも、ころころ変わる表情も、確かな「本物」だ。
「よろしくね、イースト」
イーストは俺の指を離れ、再びくるんと回った。
「イーストちゃん。私、ニナです。仲良くしてね」
ニナが我慢できずに台座までやってきた。
ニナも小指を出し、イーストは両手で抱きついて応える。
「はわわわわ、かわいいですぅ~」
イーストはニナの指を離れると、ニナの白い炎の髪留めを不思議そうに眺め、編み込みのそばまで顔を寄せる。
「ふふ、くすぐったい。ちっちゃい手、かわいいね」
ニナが笑うと、イーストも声を出さずに笑った。
「ごほん。それでは、儀礼を終了する」
儀礼官は最後に杖で床を叩くと、壁の紋様に灯った火がひとつずつ消えていった。
俺たちは儀礼官に一礼し、部屋を出た。儀礼用の上着を返すと、素材の査定が終わるまで、一階の荷受け口脇にある待合で休むことになった。
イーストは俺の肩ほどの高さを保ってついてくる。
吹き抜けの天井を見上げ、行き交う職員を目で追い、開け放たれた門の向こうを覗く。生まれたばかりの彼女には、何もかもが珍しいのだろう。
「ここで少し待つみたいだ。良い子にできるかな?」
イーストはこくりと頷いた。既に良い子である。人差し指の先で頭を撫でると、目を細めて喜んだ。
俺たちが壁際の長椅子へ腰を下ろすと、ハンクが宙に浮かぶイーストを眺めた。
「精霊か。話には聞くが、お目にかかったのは初めてだ。それで、そいつは何ができるんだ?」
俺とニナもイーストを見る。
イーストは腰に手を当て、精いっぱい胸を張った。生まれて初めてのドヤ顔だ。
【イースト:何でもできると張り切っています】
「何でも?」
イーストが勢いよく頷く。
「具体的には何ができる」
イーストの動きが止まった。自分の両手を見下ろし、背中の羽を見ようと身体をひねり、最後に俺を見た。
「まだ本人にも分からないみたいだね」
イーストは少し不満そうに頬を膨らませた。
【イースト:そのうち分かる、と伝えたいようです】
「おじさん、今の『世界』の言葉、私にも見えました!」
「俺には見えんぞ」
ハンクが言うと、イーストがそちらへ顔を向けた。
【イースト:面倒そうにしています】
「……見えたな」
どうやら、イーストが気持ちを伝えようとした相手にだけ、『世界』がログを表示するみたいだ。
窓の外では、もう日が傾いている。
コリィさんがやってきて、俺たちを精算窓口へと案内してくれた。
途中、荷受け口では、職員たちが大きな荷車に最後の荷物を積み込んでいるのが見えた。
荷車を引くのは、村にもいた牛型の大きな魔獣だった。肩は人の背丈ほどもあり、四本の脚の付け根が淡く光っている。太い胴には革の引き具が巻かれ、四十代くらいの女性御者が積み荷を留める縄を確かめていた。
荷台には、水の入った封印樽、布袋に詰めた芋、干し肉や塩の木箱が隙間なく並んでいる。
麻布のかけられた巨大な籠の隙間から、形が不揃いの丸パンが見えた。
俺の肩のそばを飛んでいたイーストの顔が、そちらへ向く。
【イースト:糖分を発見し、強い興味を示しています】
「おっと、食べたいのかい? それは他人のだから駄目だよ」
小さな手を伸ばしかけたところで、後ろから顔ごとつかまえる。足を掴むと痛いかもしれないので、仕方なくだ。
イーストはパンと俺を見比べた。残念そうな顔に心が痛むが、これは誰かに届けるための物だ。
「なぁに、一個くらい構わないさ! その子にあげてやんな」
女性御者がこちらに気づくと、籠のパンを一つ取り俺に渡してきた。
いやいや、構わなくないだろう。しかし厚意で渡されたものを突き返すのも失礼だ。
「良いんですか? ありがとうございます」
女性御者は親指を立てて応えてくるが、コリィさんは溜め息をつき、荷受け口の目録に何か書き込んだ。
「ほら、イースト。お礼を言えるかい?」
【イースト:お礼を伝えています】
イーストは女性御者の周りをくるくると回ると、満面の笑顔でパンをほおばりながら戻ってきた。
なるほど、糖分が好物なのか。自分の身体と同じくらいのサイズのパンだが、どこに入るのだろう。
「そのパンは、ギルドからの救援物資なんですか?」
じっとパンを見ていたニナが尋ねると、コリィさんが答えてくれる。
「はい。現在ウェルズでは飲用水だけでなく、食品に使う水も足りていません。特に影響の大きい南側の職工区へ、各ギルドと水管理組合が共同で送っています。今夜の分だけでも、日没前に届けなくてはなりません」
思ったよりも深刻そうだ。あの闇水売りみたいな人が出てくるわけだ。
精算窓口へ着き名乗ると、職員が俺の登録証を確認し、素材の預かり証と小さな革袋を差し出した。
「こちらがオオコウジさんの仮査定分です。正式な査定との差額は、後日、この証書と引き換えにお受け取りいただけます」
異世界で初めて得た収入だ。無一文で心細かったので、本当にありがたい。
ニナにも預かり証と革袋が渡される。中身を確かめたニナは、嬉しそうな顔で革袋を大事にしまった。
その直後だった。
ばきん、と、外から木材の折れるような音が響いた。
続いて、重いものが石畳へ叩きつけられる鈍い音。「あぁっ!」と、女性の短い悲鳴が上がった。
コリィさんの犬耳が立った。
「荷受け門を閉めて! 中の荷車は出さないでください!」
指示を受け、職員たちが門扉や荷車へ一斉に走る。
俺たちも荷受け口脇の通用扉から外へ出ると、門から少し離れた曲がり角で先ほどの女性御者が倒れている。額を押さえた指の間から、血が流れていた。
「動かないで!」
駆け寄ろうとしたニナを手で制し、俺が先に近づく。
「聞こえますか。ここがどこか分かりますか?」
「ああ……ギルドの裏だろ。大丈夫だ。ちょっとぶつけただけさ」
返事ははっきりしている。瞳の動きにも大きな違和感はない。だが、自己申告だけでは安心できない。
「そのままでいい。首や背中に痛みは?」
女性はそれでも起き上がろうとした。止めきれず、せめて倒れないよう背中を支える。
「平気さ。それより、積み荷を全部盗られちまった」
「何があったんですか?」
「荷車強盗だよ! 組合の腕章をつけた男が、南へ行く道が変わったから案内するって、御者台へ乗ってきたんだ。人目がなくなった隙に手綱を奪って、私を突き落とした」
女性が通りの先を指さした。
夕方の人混みが左右へ割れていく。
その向こうを、さっき見た大きな荷車が走っていた。後ろでは青い運搬札が揺れ、水樽と食料の木箱、イーストがパンを分けてもらった籠がまとめて運び去られていく。強盗の姿は荷台に遮られ、後頭部しか見えない。
コリィさんが、周囲の職員へ矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「救護班をこちらへ! 衛兵詰所には救援物資の強奪と伝えてください。各門へも、青い運搬札の荷車を一度止めて、御者を確認するよう連絡を!」
強盗の特徴と進路を見失わないよう、俺は荷車から目を離さなかった。
ぱちんと鞭の音が響く。荷車は速度を増し、積み荷が激しく跳ねる。
俺のすぐ横を、金色の光が通り抜けた。
【イースト:荷物を取り戻そうとしています】
「イースト! 待ちなさい!」
呼びかけても戻らない。飛ぶ速さは、人が走るのと同じくらいだ。放っておくと、すぐに見失ってしまいそうだ。追いかけないと。
俺は御者を駆けつけた職員に任せ、走り出しざまに後ろの二人へ叫んだ。
「ハンクさん、俺はイーストを追います! ニナはここで待って――」
「わ、私も行きますっ!」
言い終える前に、ニナが隣へ並ぶ。白い炎の髪留めが、夕日の中で橙色に灯っていた。
「チッ、お前ら、勝手に行くな! 俺から離れるなよ!」
ハンクも槍を背負い直し、俺たちの前へ出た。
奪われた荷車は、魔獣が引いているだけあってかなり速い。それでも、水樽を満載しているうえ、人混みにも阻まれ、完全には引き離されていない。金色の小さな背中も、どうにか見えている。
荷車が最初の角を曲がる寸前、右の車輪が露店の木箱にぶつかった。木箱の中の陶器が割れ、大量の水が宙を舞う。
「ああーーーッ、アタシの水があああっ!」
聞き覚えのある声だ。
ずぶ濡れになった青髪の水売りが、割れた陶器と水浸しの木箱の前で頭を抱えている。
逃げたあとで許可を取り直したらしく、今度は容器まで用意して、首から青い許可証を下げていた。
「待ちやがれェ! 弁償してもらうからな!」
青髪の少女はボロ鞄を掴むと、俺たちの前へ飛び出して荷車を追い始めた。
「わわっ、さっきの人です!?」
驚いたニナの速度が少し落ちる。
角の向こうで、もう一度、鞭の音が鳴った。




