第6話:水売りとコリィ
声の主は、水路脇に並ぶ水売りたちの列の端にいた。
ニナと同じくらいの年頃だろうか。鮮やかな青い髪を、片側の耳の上でひとつに結い上げ、琥珀色の瞳で男を睨んでいる。少し日に焼けた肌と、袖から伸びる引き締まった腕は、健康的という言葉が似合った。
薄い灰色の麻シャツの袖を肘までまくり、その上から色褪せた赤茶色の短いベストを重ねている。
膝下丈の黒いズボンに、履き慣らした革靴。どれも新品ではないが、目立った汚れはなく、動きやすさを優先した仕事着に見えた。
少女と向かい合っている男は、空の陶器水筒を胸元に抱え、及び腰だ。
「え、得体の知れない闇水売りに、五銀貨なんか出せるか! ぼったくりだ!」
「あぁ? 闇水売りとは聞き捨てならねェな、許可証だってあるぞ、ほれ!」
少女は腰に下げた古びた革鞄を、がさがさと漁り始めた。中からボロボロの許可証を出し、ひらひらと男の前にかざす。男が確かめる前に、さっと革鞄へしまい込んだ。
「お、おい! いつのだよ、それ! もう勘弁してくれよお」
「今日のだろうと先月のだろうと大差なんてねェだろ。ほーらー、こんな美少女が出す水だぞ。美少女水だ。一杯たったの六銀貨でいいぞォ」
少女は不自然に腰をくねらせて、男へにじり寄る。
「値段、上がってるじゃないか!」
「男が細けェこと気にすンな。ほら、味見ならタダだ!」
少女が片手を斜め上へ掲げると、その手のひらの上に水が湧き出し、小さな水球となった。あれが美少女水――ではなく、水魔法か。
水球からホースのように噴き出した水は、弧を描き、男の顔のすぐ横を通り過ぎる。男は首を引っ込め、陶器水筒を抱えたまま人混みへ逃げ出した。
「あ、おい! チッ、逃げンなよ! 飲めば買いたくなるって~~!」
少女は男の背中が見えなくなっても、なおも呼び止めている。
しかし、安くても一杯五銀貨か。元の世界なら五千円ほどの感覚だ。
他の水売りの値札を見ると、五銀貨出せば樽いっぱいの水が買える。水筒一杯だと割に合わない価格設定だ。
口は悪い。態度も悪い。値段まで悪い。
少女の足元には、ひっくり返した木箱が置かれている。そこに立てかけられた値札には、ミミズの這ったような字で『時価』と書いてある。
なるほど。街道で聞いた無許可の闇業者とは、ああいうものか。
「行くぞ。関わるな」
ハンクはすでに荷車の向きを変え、水が届かない道の端へ寄せていた。
異論はない。日暮れまでに身元を登録しなければならず、見知らぬ街の違法商売へ寄り道している場合ではない。
「でも、すごく綺麗なお水でしたね」
ニナが口に出すと、ガバッと青髪の少女が振り向く。
しまった、二人の目が合ってしまった。
「赤髪! あんた、見る目あンな!」
「えっ。い、いえ、ただ、村の井戸水より綺麗だなって……」
「そうだろ、そうだろ。水の違いが分かる奴は大歓迎だ。ほら、一杯サービスだ! 口開けろ!」
「え? あの、私、器を――わぷっ!?」
青髪の少女がニナに手を向けると、細く絞られた水が、水球から直接ニナの口へ飛び込んだ。
最初は、きちんと飲める程度の勢いだった。ニナは驚きながらも一口飲む。
一歩引き、目を丸くする。
「あ、美味しいです。雑味がなくて、舌触りもなめらか。これなら、パン生地に使っても、果実の香りを邪魔しないかも……」
「だろ!」
褒められた少女の声と一緒に、水の勢いまで増した。
「わ、ぷっ! もう、もう大丈夫ですぅ! 止めてくださ――冷たい~~!」
水はニナの口から溢れて首筋へ流れ、薄い外套まで濡らしていく。ようやく解放されたニナは咳き込みながらこちらへ駆けてきて、俺の背中へ隠れた。
火を出せる少女が、水売りの少女を怖がっている。属性の相性とは、こういう話だっただろうか。
「と、都会って怖いですぅ……」
違うか。
「大丈夫かい? あの子を都会の標準にしないほうがいいと思うよ」
「聞こえてンぞ、おっさん!」
げ、今度は俺の方へ少女の手のひらが向いた。
「おっさんも! 飲めば! 分かる!」
水球が大きくなっていく。そんなに飲めないぞ。
「いや、俺は――」
断り終える前に、噴水のように太い水が飛んできた。
慌てて両手で受けたものの、指の間から逃げた水が顔や胸元へ跳ねる。口に入った分を反射的に飲み込みながら、放出される水に意識を向けた。
【魔法生成された軟水を検出】
【毒性:なし】
【飲用適性:極めて良好】
水は冷たく、わずかに甘みがあった。癖らしい癖はなく、むしろ、もう一口きちんと味わってみたくなる。
「本当に美味しい水だね。口当たりが柔らかくて、後味もいい」
「だーっはっはっは! おっさん、アタシの水の良さが分かるとは見る目あンじゃねェか!」
少女は八重歯を見せ、眉を上げ、胸を反らして豪快に笑った。
「気に入った! サービスだ、口開けろッ!」
「いや、もう結構――」
二度目の水が飛んでくる。
今度は避けた。俺の後ろにいたニナも、同時に反対側へ逃げる。行き場を失った水だけが、俺たちの間を抜けて石畳へ落ちた。
「おいおい、勿体ないだろ!」
「一杯サービス、だったんじゃないのか?」
「一杯目は試飲だ。次は特別サービス!」
「どちらにしても、もう濡れたくないですぅ……」
「なんだよ、二人とも。美味かっただろ? だったら一杯買ってけ。今ならたったの四銀貨だ!」
褒めたおかげか値段が下がっていた。時価とはそういうものではない。
「悪いけど、ちょっと高すぎるな。一杯も売れないんじゃ本末転倒じゃないか?」
「だって井戸が止まってンだぞ。今が稼ぎ時……じゃなくて、売り時だろ!」
少女は慌てて言い直したが、同じだ。
俺が突っ込もうとすると――
「そこまでです。今日の許可証を提示してください」
よく通る女性の声が、少女の背後から割って入った。
細身の制服を着た女性だった。背丈はハンクと同じくらいで、年の頃は二十代後半だろうか。
顔立ちも体つきも人間と変わらない。ただ、黒髪の間から白い差し毛のある犬耳が伸び、同じ色の尻尾が制服の後ろで揺れている。
話に聞いていた獣人だ。
犬耳に目を奪われたのは、初めて見たからだけではない。それを差し引いても、かなりの美人だった。
左手には小さな記録板、右手には筆記具を持ち、こちらへ歩いてくる間にも、何かを書き留めていた。
青髪の少女が、あからさまに顔をしかめる。
「げっ」
「先週もお伝えしましたね。水管理組合の当日検査と、商業ギルドの販売許可。両方揃ってから営業してください」
「い、今から取りに行くところだったンだよ……」
「営業を始める前に行くところです」
犬耳の女性は笑顔を崩さない。筆記具も止めない。
「無許可営業。非常時価格規定への違反。合わせて二件です」
「チッ、冗談の通じない奴だな!」
青髪の少女は木箱を抱え、値札をひったくると路地へ駆け出した。
「逃走すると、罰金が増えますよ」
「うるさーい!」
青い髪が人混みの向こうへ消えていく。
犬耳の女性は追いかけなかった。記録板へ一行書き足し、小さくうなずく。
「はい、増えました」
容赦などまるでない。
女性が、今度はこちらへ顔を向けた。頭上の犬耳も、それに合わせてぴくりと動く。
俺の手首に巻かれた黄色い細紐を見て、続いて荷車の後ろにある赤い封印札へ目を移す。柔らかな表情のまま、視線だけが素早い。
「仮入街証をお持ちですね。それに、毒物封印。ギルドへ持ち込まれるところですか?」
「モルトン村のハンクだ。村議会から、素材の鑑定と取引を任されている」
ハンクが木札を見せた。女性は焼き印を確かめると、すぐに返す。
「商業ギルド外勤担当のコリィです。毒物封印のある荷物は、正面受付ではなく専用の荷受け口へお願いします。私も戻るところですので、ご案内します」
「助かる」
「詳しいお話は、歩きながら伺います」
コリィさんは返事を待たずに歩き出した。足が速い。
ハンクが荷車を引いてコリィさんの後ろに続き、俺とニナも慌てて並ぶ。人と荷車が入り乱れる通りでも、コリィさんは迷わない。混み合う場所だけ短く声をかけ、俺たちの前へ道を作っていく。
五つの紋章を掲げた大きな建物――ギルド会館は、そこから数区画も離れていなかった。
コリィさんは正面の広い階段を通り過ぎ、建物脇の頑丈な門へ俺たちを導く。門前でようやく足を止めると、俺の黄色い細紐を示した。
「そちらの方が、仮登録ですね」
「大麹豊です。こちらはモルトン村のニナ。身元保証はハンクさんにお願いしています」
「承知しました。持ち込みは毒検体が一つ。ほかには?」
「大型魔獣の素材と、討伐記録だ」
ハンクは、積み荷の中身をそこまでしか話さなかった。コリィさんも路上で詳しく聞こうとはしない。
「では、荷受け後に鑑定担当を呼びます。身元登録は待ち時間に進めましょう」
記録板へ書き込みながら、次の手順まで決めている。
「封印検体、一件入ります。モルトン村からの持ち込みです」
門番と荷受け係が、すぐに荷車の周りを空ける。赤い封印札の付いた油布包みは、ほかの木箱から離された台へ置かれた。
「それで、大型魔獣というのは?」
荷受け係に尋ねられ、ハンクが村議会の書類を差し出す。
「デスベアだ。魔石と爪と牙。それから、討伐の記録が入っている」
コリィさんの筆記具が、初めて止まった。
犬耳がぴんと立ち、尻尾も一瞬だけ動きを止める。
「デスベア、ですか」
驚いたのは、その一瞬だけだった。
「大型魔獣の鑑定室を確保してください。薬師ギルドへは封印検体の検毒依頼。仮登録一名は、その待ち時間に進めます」
コリィさんの指示で、荷受け口にいた人たちが一斉に動き出した。
「ずいぶん話が早いね」
思わず口にすると、コリィさんは記録板から顔を上げる。
「日暮れまでに登録できなければ、お困りになるでしょう?」
表情は変わらなかったが、白黒の尻尾が一度だけ機嫌よく揺れた。
「では、まず荷物の確認から始めましょう」




