第36話:渇望と視線
精霊がかざした手の先から黒紫の霧が生まれ、真っすぐ俺の方へ伸びてくる。
避けようと身体を捻るが、瞬発力が足りず、足がもたつく。
次の瞬間、横腹への鋭い衝撃と共に、俺は審理室の壁際まで吹っ飛ばされた。
「がはっ!」
「本当にのんびりさんねぇ。お下がりなさい」
俺のいた位置のすぐそばに、足を上げたエルミラが立っていた。蹴り飛ばしてかばってくれたらしい。
俺を捉えられなかった霧は、そのまま空気中に霧散し消えていった。
「わ、悪い……!」
俺は立ち上がり、慌てて体勢を整える。
同時に、衛兵たち三人が黒紫の精霊を取り囲み、槍を突き刺した。
しかし、槍は霧の身体をすり抜け、衛兵たちが困惑する。
身体を貫かれている当の精霊も、まるで気にかけていない様子だ。
「爺!」
「はっ。お前たち、廊下へ下がって出入り口を封鎖しなさい!」
いつの間にか入口のそばにいた爺が、衛兵たちへ指示を飛ばす。
衛兵たちは悔しそうに槍を引き、審理室から退く。
爺は三人が出ていったのを見届け、扉を閉めた。
黒紫の精霊はきょろきょろと部屋の中を見回していたが、突然ふっとその姿を消した。
「消えた! まずい、見失うと危険だぞ!」
部屋の外か? いや、最初に狙われたのは俺だ。俺はとっさに入口の方へ走る。なんとなく、爺のそばが一番安全な気がしただけだ。
振り返ると、俺のいた場所のすぐ背後に霧が集まり、一拍遅れて黒紫の精霊の姿が象られる。
俺がいなくなっているのに気づくと、再びきょろきょろと辺りを見回す素振りを見せる。
「オラァ、吹ッ飛べ!」
イリスが水柱を飛ばし、黒紫の精霊に命中した。
だが、当たった部分の霧が飛ばされるだけで、姿勢を崩すことすらできない。
「あれぇ……吹っ飛ばねェな」
水柱はちょろちょろと勢いを失っていった。
一方エルミラは手鞄へ腕を差し入れ、金色の鍔を備えた細身のサーベルを引き抜いた。エルミラが構えると、わずかに反った刃へ白い光が走った。
「やっ」
エルミラは駆け出し、黒紫の精霊を両断しようと振り抜いたが、刀身が当たる前に再び姿を消す。
「らちが明きませんわね」
「しかし、今のは避けたんじゃないか?」
なんとなく、浄化の手段が効きそうな気はするのだが……。俺は何か役に立つものはないか、周囲を見渡した。
「そうだ! さっき司法官に……」
「イリス!!」
俺が言い終える前に、イリスの後ろに黒紫の精霊が現れた。
やつがイリスに手をかざし霧を撃ち出す直前、ラクトがイリスと自身を覆うように結界を張った。
霧は結界を包むが、貫通できずそのまま霧散していった。
「いいぞラクト! みんな、さっき司法官にかけた浄化水を――」
突如、俺の目の前に、俺に手をかざした状態の黒紫の精霊が現れた。
「う……!」
精霊の表情はたゆたう霧のせいでうかがえないが、少しだけ、目の光が細められた気がした――
「おっさんッ!」
次の瞬間、俺の身体を黒紫の霧が包み込んだ。
「まずい――!」
慌ててもがくが、纏わりついた霧は消えてくれない。
黒紫の――いや、瘴気の精霊は、満足そうに笑うと、再び姿を消した。
しかし、俺にはわかる。あいつは、まだ近くにいるのだ。
エルミラが近づいてきて、俺に向かって光を放った。
俺の身体をまとっていた黒紫の霧が消えてしまった。だが、頭の奥にこびりついた瘴気への渇望は消えない。危ないところだった。
なんてことをするのだ。同士討ちじゃないか。危険な女だ。
「イリス! エルミラを吹っ飛ばせ!」
「はァ? するわけねェだろ! 何言ってンだ、おっさん……?」
「くそ、〈ポイズンアロー〉!」
俺はエルミラに向けて紫の針を飛ばすが、エルミラが放つ光にかき消されてしまう。
「だめだ、まずあの鬱陶しい光をどうにかしないといけないな……」
どうしたものか。相手はサーベルを持っているし、毒は効かない。俺だけではエルミラに対抗する手段がほとんどない。
「イースト、どこだ! 力を貸せ! 顕現せよ、マナ・セレビシエ!」
しかし、何も起きない。
「あれぇ……おかしいな」
イーストは俺の言葉を無視して、部屋の中をうろうろと何かを探し回っているようだ。
「……ふぅ」
やれやれ、といった風にエルミラにため息をつかれてしまう。
「まったく、ため息をつきたいのはこっちだよ……うぐぅっ!」
俺の腹に重い衝撃が走り、その勢いで壁に打ち付けられた。
イリスが水柱を、なぜか俺にぶつけてきていた。
「ぐふっ、い、イリス!? 何をするんだ!?」
「こっちの台詞だぜ、おっさん! 魔障化してンだよ! しっかりしろ!」
「魔障化!?」
魔障化の何が問題だというのだ? わからない。
水柱は勢いを止めず、身動きが取れない。さすがの威力だ。
「くそ、そっちがその気なら、〈毒魔……〉」
べちゃ。
俺の顔に、濡れた布が覆いかぶさった。
「――っ!?」
臭い。臭いぞ。いや違う、苦しい。目の前の布が光っている。俺の中の大事な何かが抜けていく……! これはいけない……!
「あああああああ! やめろっ! 放してくれぇ!」
ぶんぶんと手と頭を振るが、布は張り付いて離れない。
やがて布の光が失われ、それと共に喪失感も薄れていく。
「はあっ、はあっ、がはっ!」
俺は抵抗をやめると、イリスの水柱が弱まり、疲れ果てた身体が床にへたり込んだ。
「はあ、はあ、い、イースト……」
イーストが布をめくり、心配そうに俺を覗き込んでいた。
「雑巾……?」
イーストが持っていたのは、部屋の隅にあった掃除用の雑巾だ。司法官へかけた浄化水を、そこへ染み込ませたらしい。
「すまない、助かった……明らかに思考がおかしかった……」
「見りゃわかるぜ、ったく……」
「さっさとお立ちなさいな。次が来ますわよ」
「う……」
俺はよろめきながら立ち上がり、部屋を見渡した。
【極めて強い瘴気反応を検出】
司法官の立っていたあたりに〈毒鑑定Ⅱ〉のログが浮かぶ。
「……部屋の奥だ! 浄化水のところにいるぞ!」
言ったそばから、黒紫の霧が一点に集まり、精霊の姿を象った。
「たァ!」
イリスが水柱を放つが、霧が揺らぐだけで通じない。
「くっそォ~~、効かねェ!」
黒紫の精霊は、床にこぼれた浄化水を観察している。
「イリス! 〈大渦〉だ!」
「ちッ! 人の魔法に勝手に名前を付けんなッ!」
イリスは両手を床へかざした。
イリスの前に水球が生まれ、そこから放たれた水流が床を走り、戦闘中に部屋へ飛び散った水を巻き込みながら、いくつもの渦となって空中へ立ち上る。
いくつもの渦は水流に乗って部屋の中央へと集まり、合流して一つの大渦へと膨れ上がった。
黒紫の精霊は大渦に手をかざし、霧を撃ち込んだ。渦の中のマナ・バクテリアが反応し一瞬強い光を帯びるが、瘴気の勢いが勝り、次第に黒紫に濁っていく。
「させるかっ! 〈培養〉ッ!」
〈培養〉を受けた大渦の光は、濁りを飲み込み、みるみる強まっていった。
「イリス、今だ! 部屋中に広げてくれ!」
「っしゃァ!」
イリスが腕を振るうと、大渦から無数の水流が枝分かれし、小さな渦となって部屋中を縦横無尽に駆け巡った。
黒紫の精霊は再び姿を消した。だが、部屋中を駆け巡る水飛沫に触れるたび、隠れていた輪郭が光に縁取られていく。
身体を所々光らせた精霊は、俺の方へと手をかざし、霧を放ちながら飛んできた。
だが一足先に飛んできたラクトが俺の頭の上に立ち、大きな膜を張った。
膜はたちまち黒紫の霧に包まれたが、中までは届かない。
「すまない、ラクト!」
【ラクト:また魔障化されたらかなわん、と伝えたいようです】
つむじを小さな足で蹴られてしまった。
「はっ!」
エルミラが駆け出し、俺に集中している黒紫の精霊の背後まで一瞬で距離を縮めると、光るサーベルで精霊を一刀両断にした。
切り口は光を帯びたまま、切り離された霧が再び繋がるのを許さなかった。
エルミラは返す刃で縦に、斜めに、続けざまに斬りつけ、精霊の身体を細切れにしていく。
「オラァ覚悟しろッ! まるごと浄化してやんぜェ!」
同時にイリスが渦を自身の水球へ吸収させ、動きの止まった精霊にひときわ大きな光の水柱を放った。
光の水柱が精霊を飲み込み、そのまま部屋中へ弾け飛んだ。
ラクトの膜にまとわりついていた霧も、飛沫を浴びて消えていく。
霧がすべて押し流されたあとには、角と二つの目、そして心臓に当たる部分だけが、細い赤黒い筋で繋がった異形の塊となって浮かんでいた。
赤黒い筋には、エルミラに切られた箇所を中心に白い光が残っていた。だが、筋はじわじわと太くなり、その光を飲み込んでいく。
「……これが本体ですの?」
「うえ、気持ちわりィ……結局なんなンだコイツは?」
「……君、話はできるのかい?」
俺が話しかけると、二つの目が俺を捉え、次いで、俺のそばに浮かぶイーストへと動く。
俺はぎくりとして身構えたが、特に攻撃はされなかった。
数秒間、俺たちを見比べたあと、赤黒い塊は黒紫の霧となって消えた。
「消えた……? 消滅したのか?」
「いずれにせよ、わたくしたちがこの部屋にいる限りは、もうアレに勝機はありませんわね」
「っかァ~、不気味なやつだったぜェ~~」
勝ったはずなのに、妙な薄気味悪さだけが残っていた。
「司法官を魔障化させたのも、あいつだったのかな」
「まったく、揃いも揃って瞳孔を開ききって。情けないですわぁ」
「言っておくが、あの霧を受けて平気なのは、お前だけだぞ……」
「あら。そんな口の利き方をしてよろしいのかしら? ポイズン……何だったかしらぁ」
「……エルミラが無事で、本当に良かった」
思考が歪められていたとはいえ、公爵の娘に魔法を撃ち込むなんて不敬極まりないはずだ。なんだかんだ、これで済ませてくれているエルミラは相当心が広いのだろう。
扉のそばに立っている爺にはずっと睨まれている気がするが……。
あ、そういえば。
「あの、爺。ワルター・トレイデン伯爵を見ましたか?」
「先ほどの混乱に乗じて司法館を出たようです。告発側の証人、ウーサンも同行していた様子ですな」
「あらあらあら……うふふ」
エルミラの片方の口角が、ゆっくりと持ち上がった。胸元から扇子を取り出し、それを隠すように口元を覆う。
「爺」
「はっ。当然、監視を付けております」
「どんな尻尾が出てくるか、楽しみねぇ?」
「ほっほっほ、グランウェルズ家の顔に泥を塗ろうとするとは、少しおいたが過ぎましたな」
……何の話だかさっぱりわからないが、黒紫の精霊よりもこの人たちの方がよっぽど恐ろしく見えた。




