第33話:貴族街とトレイデン商館
荷馬車が貴族街へ続く区画門をくぐると、窓の外から露店の呼び声が消えた。
継ぎ目まで揃えられた石畳。その両脇には石蓋で覆われた排水口が続き、道端には屑ひとつ落ちていない。
建物も密集しておらず、高い塀の向こうから手入れされた庭木が枝を覗かせている。門柱にはそれぞれ異なる紋章が掲げられ、その前には揃いの制服を着た私兵が立っていた。
同じウェルズの中なのに、一区画越えただけで土地の使い方からこうも違うものか。屋敷一軒の敷地だけでも、元の世界のショッピングモール並みの広さだ。
あれだと外に出るだけでも一苦労なのではないだろうか。金持ちの考えることはわからん。
「それにしても、ずいぶん静かな街だね」
俺の貧相なイメージでは、犬を連れたマダムたちが井戸端会議を開いているのだが。
「騒々しいのを嫌う方が多いのですわ。わたくしは退屈で仕方ありませんけれど」
なるほど。醸造所まで着いてくるわけだ。
荷馬車はほとんど揺れずに、貴族街の中でもひときわ大きな門へと近づいていく。
紋章入りの荷馬車を目にした門番たちは、俺たちが着くより先に門扉を開いた。
荷馬車は歩みを止めることなく、領主邸の敷地へ入っていく。
門の中も相当な広さで、テーマパークひとつ分くらいありそうだ。
敷地中央のひときわ大きな本館、その裏手へ張り出した厨房翼の入口に荷馬車は停まった。
「こちらが厨房ですわ。せっかく手に入ったピカピカマスの切り身。最高の献立で召し上がっていただきましょう」
「俺は料理人じゃないんだけどね……」
俺が降りるのを躊躇っていると、背中にエルミラの靴底が当たり、そのまま荷台の外へ押し出された。
「痛い! なにするんだ!」
「本当にくどくど細かい男ですわね。淑女の前で少しくらい格好付けられませんの?」
同乗していた爺と、腕を組んだ料理長が、うんうんと頷いている。完全なアウェイである。
「淑女なら、少しくらい慎みを持てませんの……?」
「おほほほほ、庶民らしい幻想をお持ちになってますのね」
心底おかしそうに笑いながら、エルミラは爺と料理長を連れて厨房翼へ入っていった。
多少言い返したくらいで、爺に睨まれたりはしないようだ。
建物に入ると磨き上げられた石床の廊下が続いており、食べ物の良い匂いに包まれる。
俺たちは厨房翼の奥にある小厨房へ通された。領主一家の特別な料理を作るための部屋らしく、大厨房ほど広くはないが、調理器具はひと通り揃っている。
中央の調理台には、氷漬けのピカピカマスを収めた保冷箱がすでに置かれていた。
料理長が保冷箱を開け、使用人たちが氷塊の周囲を削っていく。やがて現れたのは、大皿を覆うほどもある分厚い皮付きの切り身だった。
周囲の氷を少しだけ残し、切り身の前で献立会議が始まる。
料理長が口火を開き、小厨房に集まっていた料理人たちも次々に意見を挟んだ。
「やはり塩焼きであろう。以前口にされた時の味を再現すべきだ」
「病人に塩焼きはふさわしくないかと。柔らかな煮込みでお出しするのが一番です」
「ピカピカマスだけ召し上がられても意味が薄いですわね。滋養を付けていただかないと」
「机上で何を言っても、本人の嗜好を聞かないと無駄だと思うけど……」
「いや、ソテーを」「コンソメは」「フライだ」「リゾットなら」
……ん? 待て。
俺は聞き捨てならない言葉に、思わず身を乗り出す。
「米があるのですか!?」
「当然だ。ここは公爵邸の厨房。この世のありとあらゆる食材が手に入る場所だ」
料理長が胸を張って答える。
「良ければ見せてもらえますか?」
料理長は小厨房の一角から、ガラス瓶を取り出した。
「……米だ」
中には、白く精米された正真正銘の米が入っている。細長くない、見慣れたジャポニカ米そのものだ。
「アズマ米だ、珍しいだろう。主に煮込み料理へ使っている。現地では竈で炊いて食べるそうだが――」
「よく知っています! 米があって病人食といったら、あれしかない」
「あら。なにか心当たりがあって?」
「……醤油はありますか?」
「ないな」
「……そう、ですか」
ありとあらゆる食材が手に入るという話ではなかっただろうか。
「ここにはな。貴族街のトレイデン商館なら扱ってるかもしれん」
「存在はするんですね!」
「ずいぶん喰いつきが良いですわね。何か思い入れでもあるのかしら?」
エルミラが片目を閉じ、ニヤリと笑った。
「……まぁ、故郷の味ってだけだよ」
エルミラは何かを考えるように、しばし押し黙った。
「ふぅん……」
そう言いながら目を細め、胸元から扇子を取り出し、口元を隠した。
エルミラが爺にちらりと視線を向けると、爺は俺に話しかけてきた。
「オオコウジどのはアズマの出なのですかな」
「ええと、爺……さん?」
「爺で構いませんぞ」
爺は、六十か七十ほどに見える白髪の老人だ。呼び捨てるのも気が引けるが、本人の希望なら仕方ない。
「ええと、アズマ……の方の、山奥出身なんです。俺の故郷では、病人といったらお粥か雑炊が定番です。滋養強壮なら雑炊がぴったりだ」
「ゾウスイ? 確か米料理だったか。ウェルズでは米といったらリゾットかミルク粥だがな」
「それでは少し重たいんです。……良かったら、そのナントカ商館まで買い出しに行ってもいいでしょうか?」
二度と食べられないと思っていた和食を作れるかもしれない。そう思うだけで、心が躍る。今すぐ醤油を摂取したい。飲んでも良いくらいだ。
「構いませんわぁ。うふふふふ、がっかりさせないでねぇ」
エルミラは扇子で口元を隠したまま、顎をついと上げた。
さっきから妙に含みのある態度だが、特に心当たりも無い。相手は異世界で出会った中でも断トツの変人なので、いちいち気にしていられない。
俺が一旦外へ出ると、小さな荷馬車が待機しており、御者が荷台へ招き入れてくれた。
誰がいつどうやって手配したのかわからないが、広大な敷地を歩かないで済んで助かった。
行き先も告げず身を任せたが、荷馬車がたどり着いたのは、貴族街の外縁に建つ大きな石造りの商館だった。
正面扉の上には、帆船と天秤を組み合わせた紋章。その下に『トレイデン商館』と金文字で刻まれた看板が掲げられている。
建物の脇には荷下ろし用の広い中庭があり、何台もの荷馬車や樽が並んでいる。揃いの制服を着た店員たちが、慣れた様子で黙々と荷を仕分けていた。
御者に先導され扉をくぐると、香辛料と乾燥させた薬草、それに真新しい木箱の匂いが鼻をくすぐった。
壁際の棚には色鮮やかな織物やガラス瓶、見たことのない乾物が整然と並んでいる。
値札はひとつも付いていない。
身なりの整った店員が、俺を見るなり深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ。トレイデン商館へようこそお越しくださいました。グランウェルズ家のお使いの方と、オオコウジ・ユタカ様でございますね」
ちょっと待て。なんで俺のことを知っている。
「あ、あの……?」
「お会いできて光栄でございます。どうぞご贔屓のほど、よろしくお願いいたします」
俺が贔屓にできるわけないだろ。早く買い物を済ませて帰りたくなってきた。
だがそんな思いもむなしく、俺たちは壁際に並ぶ応接席のひとつへ案内され、紅茶と焼き菓子を出されてしまった。これ、あとからお金請求されたりしないよな……?
「本日は何をご所望でしょうか」
「え、ええと……アズマの調味料って、ありますか?」
店員は目を細め、白い手袋を着けた両手をぱんと合わせる。
「これはこれは、なんというタイミングでしょうか! オオコウジ様は豪運をお持ちだ。ちょうど新鮮なものが届いたばかりでございます」
そう言って控えていた別の店員に目配せをする。その店員は奥へ引っ込むと、大きなトレイを持って戻ってきた。
トレイには、酒瓶や徳利、小さなガラス瓶や小皿が並べられている。
「こちらが当店一押しの商品、アズマ酒でございますな。澄んだ水のようですが、口にすると甘さと辛さが混在する、上品なお酒でございます」
「こちらはアズマの香りダケを干したもの、アズマ胡椒に燻製乾魚、塩漬け果実。こちらの板は乾燥した海藻ですな」
「そしてこちらが……」
店員は小皿に乗った黒い結晶を指した。
「醤油でございます」
「醤油? 液体ではないんですか?」
「まさしく! さすがオオコウジ様でございます、博識でいらっしゃる! アズマでは液体のまま流通しておりますが、海路では長期間の航海が必要。塩と共に乾燥させたものを運ぶのでございます」
なるほど、醤油塩みたいなものか。こっそり〈毒鑑定Ⅱ〉を使ってみる。
【微小生命反応を検出できません】
だよね。一度買えば密造して増やし放題、とはいかなそうだ。
それにしても、保存食ばかりだ。新鮮なものとはよく言ったものだ。
「いかがでございましょうか。どれもいま話題で人気の商品ばかり。届いたばかりの今を逃すと、すぐにでも売り切れてしまうと存じますが……」
店員は大げさな身振り手振りで困ったような顔を見せる。まったくもってうさんくさい。だが背に腹は代えられない。
「そうですね……では、この醤油と昆布――ええと、この海藻板を。いくらくらいでしょうか」
「おぉ! お目が高くていらっしゃる! お買い上げありがとうございます! こちら合わせて金貨三十枚となりますです、はい」
俺はソファからひっくり返りそうになったが、どうにか平静を装った。
金貨三十枚だって? 三百万円相当だぞ。
「そ、そそそ、そうですか……ははは、なるほどぉ……」
まずい、声が裏返っている。
すると、御者が助け舟を出してくれた。
「オオコウジ様、ご安心ください。こちらはグランウェルズ家付けで。請求書は領主邸へ回してください」
「かしこまりました。それではお包みしますので、お待ちくださいませ」
そう言うと店員は奥の部屋へと入っていった。
世の中には、常識では測れない世界があるのだなぁ……。
少し待ったところで店の奥から出てきたのは、店員ではなく、身なりの整った初老の男性だった。
灰色の髪をぴたりと撫でつけ、濃紺の上着には金糸の刺繍が施されている。柔和な笑みを浮かべているが、細い目だけは俺を品定めするように動いていた。
「ふん……」
男性は店員に代わり、俺たちの向かいのソファに腰かける。
「ワルター・トレイデン伯爵である。君が〈街の地下を浄化槽にした者〉オオコウジ・ユタカかね」
ずいぶん居丈高な人物が来たもんだ。なんとなく、この後の展開が透けて見える。
「はい、そうですが」
「うむ。ではまず、先の買い物は私から君への祝いとして贈ろう」
「祝い、ですか……? いえ、代金は領主邸――エルミラ様が負担してくださるそうなので、結構です」
男性の眉が、わずかに動いた。
「……まぁよい。率直に言おう。トレイデン家は、君を専属術師として召し抱えることにした」
「は?」
「住居も工房も、必要なものはトレイデン家で用意しよう。商業ギルドで小銭を稼ぐより、よほど君のためになる話だ。今後は我が名のもとで、存分にその力を振るいたまえ」
引き抜きというにはごり押しすぎる。彼の中では決定事項のようだ。エルミラ以外の貴族とやらに関わるのは初めてだが、皆こんな感じなのだろうか。
何にせよ、この男のために働きたいとは思えない。
「俺の力を評価してくださり、ありがとうございます。ただ、申し訳ありませんが、お断りします」
「……私の話を理解しているのかね?」
「破格のお誘いとは理解しています。ですが、今の仕事も暮らしも気に入っていますので」
ワルターの柔和な笑みが消えた。
「君は、自分が断れる立場にあると思っているのか?」
「……どういう意味でしょうか」
「ふん。私は君の弱みを知っているのだぞ」
なんだと……!?
弱み。
先週こっそり大人のお店へ行ったことか。
それとも、ギルド職員の間で闇取引されていた、コリィさんの肖像画を隠し持っていることか。
まさか、俺がアズマ出身ではなく、異世界人だと知られている……?
「脅しか? ……どこまで知っている」
「自分の胸に聞くといい。暴露されたくなければ、大人しく従うのだな」
とはいえ、最初の二つは知られたところで恥ずかしいだけだ。最後の一つも、この男が本当に掴んでいるとは思えない。カマをかけている可能性だってある。
「俺の考えは変わりません。バラしたいなら、そうすればいい」
ワルターは何も言わず、しばらく俺を見つめた。
やがて、何事もなかったかのように、再び柔和な笑みを浮かべる。
「……なるほど。よく分かった。では、この話はなかったことにしよう。君の今後の活躍を祈っているよ」
そう穏やかに言うと、ワルターは席を立ち、商館の奥へと去っていった。
「あ、あの……よろしかったのですか?」
御者に心配そうな顔をされるが、よろしいもくそもないだろう。
「あんな無理やりな話、ないでしょう。もともと少し前まで根無し草だった身です。何されようと問題ないですよ」
せいぜい、ギルドに圧力がかかってクビになる程度だろう。そうしたら、ブールのところなりチャックのところなりに泣きついてみよう。
奥から先ほどと打って変わって怯えた態度の店員が戻ってきた。
「こ、こちらがご所望の醤油と海藻でございます。……本日は誠にありがとうございましたぁ~」
「……お騒がせしてすみませんでした。すぐに出ていきますね」
居心地の悪さに、包みを受け取るとすぐに店を出た。
ちなみに、お茶代は請求されなかった。




