第31話:お嬢様と釣れないヌシ
イリスが診療所に入院してから十日目。
俺は退院の祝い酒を持って病室を訪れた。
扉を開けると、むっとするほど濃い酒の匂いが鼻をついた。
「おっ、見ろネネム。おかわりが来たぜェ~~」
「……ひと瓶だけ?」
病室の床には何本もの空いた酒瓶と、菓子やつまみの食べ残しが載った皿が散乱している。
酒瓶のラベルは川上醸造所のものだ。ブールが完成品のエールを見舞いに送ってくれたのだろう。
ラクトも小指の先ほどしかない杯を両手で抱え、ぐびぐびと酒を飲んでいる。ポンベの前に置かれた深皿は既に空だ。
「……お前ら、こんなのリスリス先生に見つかったら――」
「うわっ!! 酒臭いです! 何ですこれは! 病室で宴会とか馬鹿なのですか!? 阿呆なのですか!? あ、また猫を連れ込んでるです!? イリスさん! 君はもう治ってるんだからさっさと出ていけです! オオコウジさん! あなた責任もって全部片づけるです!」
こうなるんだよ。
「な、なんで俺が……」
眉を吊り上げたリスリスが、俺の持っている酒瓶を指差す。
ここで開けるつもりじゃなかったんだが、もはや何を言っても意味はない。
「すみません……すぐに綺麗にします」
「当然です! もう二度と来るなですよ!」
俺は何を言っても一ミリも動こうとしない酔っ払いたちを諦め、一人で病室を片づけた。
イリスの身支度を待ち、リスリスや職員に礼を言って診療所を出る。
「いや~、シャバの空気は最高だなァ」
「十日間だらけていただけだろう。少し太ったんじゃないか?」
俺は頭から大量の水を浴びせられた。元気になったようで何よりだ。
水浴びから解放され、イリスの方を見ると、ラクトが当然のようにイリスの肩に乗っている。
「ラクト、君は醸造所へ帰らなくていいのかい?」
【ラクト:別に家ではない。帰って欲しいとでも言いたいのか、と伝えたいようです】
「いや、そういうわけじゃないよ。イリス、責任もって面倒見れるのか?」
「犬猫みてェに言うなよ。アタシんちは元々ルームシェアだからな、一人増えても大差ねェさ」
そういう問題ではないのだが。
「ネネムは山に戻るのか?」
「……?」
ネネムはポンベと顔を合わせ、首を傾げる。出会ってすぐにも見た反応だ。
「なんなんだよそれは……山腹の休憩所に家があったじゃないか」
「……お酒、もらえなくなったから。またもらえるまで、あそこで待ってただけ」
「そういうことか。これからどうするつもりだい?」
「……」
ネネムは醸造所のある山を指差す。
「いくら飲み放題だからって、あそこに住むのはさすがに迷惑だぞ」
「……迷惑は、いや」
眉を八の字にしてそう言うと、今度は俺を指差した。
「え、俺? 俺は宿舎暮らしだからなぁ……あとでコリィさんに相談してみるよ」
「……お酒は?」
「職員食堂で、お酒は出ないんじゃないかな」
「……」
わかりやすく肩を落とす。
「よし、ネネムも一緒に昼飯を食べにいこうか。醸造所の酒が飲みつくされないように、俺がごちそうしてあげるよ」
「いく」
「もちろん、ポンベもね」
ポンベが俺の足元に身体を擦りつけてきた。あの一件以来、時折こうして甘えてくるようになった。まったく、かわいいやつだ。
その日から、いつもの昼食に新たな面子が加わり、俺の日常はほんの少しだけ賑やかになった。
* * *
数日後。
「釣れませんわね」
隣で、俺と同じくらいの背丈の金髪の女性が忌々しげにつぶやく。
川辺の釣り場には似つかわしくない高そうなドレスを着て、鼻をつまみながら水面を見下ろしている。女性が顔を上げると、耳の後ろで結われた巻き髪が揺れた。
俺が握る竿の釣り糸の先には、川辺の釣り具店の特エサ、ブラッドバスのワタに漬け込んだモルトコオロギが付けられている。
さらに〈イースト・ブルーム・ぷち〉により、辺り一帯の水はどす黒く染まり、酷い臭いが漂っていた。
「ピカピカマスはそう簡単に釣れるもんじゃないですよ……多分ね」
「でも、以前あなたが簡単に釣りあげたのでしょう?」
「いや、あれは俺ではなく、一緒にいたニナ――」
「あ、何かかかりましたわよ!」
見ると、竿先がつんつんと動いており、水面ではウキが沈んでいる。
竿を引き上げると、そこには手のひらサイズの小さなブラッドバスがかかっていた。
「エルミラ様、もう諦めませんか……時合いも過ぎてますし、今日は無理ですよ」
「ふぅ。庶民の遊びというのも、存外簡単にいかないものですわね。それとも、貴方の評判も尾ひれがついただけだったのかしら、お魚だけに。おほほほほ」
……冗談が言いたいのか、嫌味が言いたいのか。
「とにかく、そう簡単に釣れないからヌシと言われていたんです。というか、他の個体がいるかどうかも……」
「口答えは感心しませんわね。それなら、川の水を全部抜いてしまいましょう。今すぐ地属性の術師を二十名ほど集めて――」
「ちょっ……駄目ですよ!」
池の水を抜く企画じゃないんだから、そう簡単に言わないでほしい。だが、この女ならやりかねない。
「あら、足りなかったかしら? では五十名ほど――」
「待て待て待て、人数の問題じゃない! 生態系が変わっちゃいますって!」
鼻をつまんでいた白手袋の指が離れ、胸元の赤いブローチへそっと触れた。
「……昨日は、スープもひと口しか召し上がりませんでした。早く――早くお届けしなくては……」
「……はぁ。もう少し、粘ってみますよ」
俺はブラッドバスを川へ戻し、再び餌を付けて水面へ投げ込む。
「それと貴方。『様』はやめなさい。領民ではないのでしょう」
「はいはい、わかったよ、エルミラ」
俺はわざと不遜な態度で呼び捨てる。これで腹を立てて見限ってくれれば話が早い。
「ふぅん?」
エルミラは口を歪ませ、ついと顎を上げた。淡い灰緑色の瞳が、俺を見下ろすように細められる。……正直、怖すぎる。イーストはエルミラの圧に耐えかねたのか、スキルを使って以来ずっと鞄から出てこないままだ。
「……なにか?」
「いいえ、なんでもないですわぁ」
「エルミラの言う通り、俺は領民でもなんでもない。正直、いきなり領主のために動けと言われてもピンと来ないんだ」
「あら。慈善家だと聞いていましたのに」
「勘違いもいいところだね」
正直、ギャロンを捕まえた時以外は仕事をこなしただけのつもりだ。
「〈熊の腹を発酵槽にした者〉〈街の地下を浄化槽にした者〉、金色の精霊使い、ピカピカマスを釣りし者……たくさんの称号を持つ貴方なら、なんとかしてくださると思いましたの」
聞いたことが無いものも混じっている。どういう噂が流れているのだろうか。
「日を改めれば釣れるのかしら?」
「正直厳しいと思うよ。ニジニジマスじゃだめなのか?」
「お父様はあの日の味が忘れられないそうですの。病に伏せて食事がろくに喉を通らない今でも、ピカピカマスの話だけはよくされているわ」
俺は知らなかったのだが、ピカピカマス祭りに領主とエルミラも参加していたらしい。
「料理長にも頼みましたわ。似た魚を使って、焼いたり、煮たり、スープにしたり……ですが、どれも一口しか召し上がってくださいません」
「そこまでやってるのか」
「でも、ピカピカマスの話をなさるときだけは、とても楽しそうなのです」
「そりゃあ、釣れるもんなら俺だって釣りあげたいけどね……」
俺は後ろを振り返る。
少し離れた街道脇には、朝から領主家の紋章が入った荷馬車が停まっている。
荷台には大きな保冷箱。荷馬車の脇では白い調理服を着た男が、腕を組んでこちらを見ていた。
領主邸の料理長だそうだ。
「見られていると、落ち着かないなぁ。何故わざわざ釣り場までついてくるんだ?」
「釣れた瞬間が一番美味しいのでしょう? ならば、その場で調理すればよろしいではありませんか」
「いや、間違ってはいないけど……」
料理長と目が合った。
彼は堂々たる態度で、大きく首を縦に振った。
いや、わからない。まったくアイコンタクトが機能していない。
俺はため息をつき、黒く染まった川面を見るが、ヌシどころか、ほとんど魚の気配がない。
いっそニナとハンクを呼んで――いやいや、あの時は偶然が重なっただけだ。別に俺が彼らより下手だから釣れないわけではない、はずだ。
「それにしても、ちょっと釣れなすぎるな」
エルミラにはああ言ったが、さすがに俺の腕だけが原因とは思えない。
前回この餌を使ったときは小物が寄ってきたが、今日はブラッドバスが一匹だけ。臭いは十分だし、〈イースト・ブルーム・ぷち〉も効いている。
悪臭の漂うこの辺りを避け、少し離れた場所で竿を出している釣り人たちも、今日はまったく釣れていないようだ。
その違和感を確かめようと、川の水へ〈毒鑑定〉を使おうとしたところで――
「……仕方ありませんわね、別の川を探しましょう」
エルミラはそう言うと、踵を返し荷馬車へ歩きはじめる。
「お、おい、片付けくらい手伝ってくれよ」
「おほほほほ、ご冗談がお上手ですこと」
「まったく、ご令嬢ってやつは本当に――あれ?」
川沿いの街道を、醸造所方面から見覚えのある荷馬車が猛スピードで駆けている。
「おーい、ブールさぁん!」
手を振って呼びかけると、御者は荷馬車を急停止させた。
荷台からブールが飛び出してきて、こちらへ駆け寄ってきた。
「お、お、オオコウジ君! なんていいところに! 今すぐ醸造所に来て欲しいだよ!」
「ど、どうしたんですか? そんなに慌てて……」
「魔障だ! 川が、魔障に侵されただよお!」




