第29話:酒神さま
「い、イリス……ポンベ……私……」
俺は急いでイリスへ駆け寄る。
よかった、かなり荒いが息はまだある。だが、身体は熱を持ち、傷は深い。
ラクトもネネムのもとを離れ、イリスを包むように光の膜を張り直す。だが、先ほどより明らかに薄く、全体が弱々しく明滅している。
さらに、ラクトはイリスの傷を覆うように、もう一枚の光の膜を張った。
「いいぞラクト! そのままイリスの止血を頼む!」
ラクトはこくりと頷いた。
振り返ると、イリスを傷つけた分身体が、今度は呆然としたネネムを狙っていた。
「ネネム、気を確かに持て! 狙われているぞ!」
しかし、ネネムは動かない。
「ネネム!! ……くそ、〈ポイズンアロー〉ッ!!」
俺は分身体へ〈ポイズンアロー〉を放つ。ポンベ本体に影響があろうと、ネネムの命には代えられない。
そう思ったのだが、俺の拙く細い紫の針は、いともたやすく分身体に避けられてしまった。
「当たれぇ!」
二発、三発と打ち込むが、直線的な魔法では素早い分身体にかすりもしない。
「フシャァァァッ!」
完全に毒魔法を見切った分身体が、再びネネムに魔爪を伸ばし迫った。
「くそ、〈毒魔法Ⅱ〉だっ!!」
なにが起きるかわからない、だが、このままでは確実にネネムの命が失われる。それよりはなんでもいい、どうか、あいつを止めてくれ――そう願い、分身体に向けて〈毒魔法Ⅱ〉を放ったつもりだった。
全身から血の気の抜ける感覚、そして、次の瞬間、俺の身体を中心に、辺り一帯――大棚平の平地全てが紫の霧に覆われた。
「なっ……! ゲホッ、ゴホッ、これは……」
「……ゆ、ゆたかぁっ! ゴホッ!」
「ガァァァーー! ガフッ! グルルルルゥ!」
【術者を中心に、周囲一帯の魔素を毒霧へ変換しました】
【作用:運動機能低下】
イリスとラクトは、光の膜によって守られていた。膜の表面は毒々しい紫色に染まっているが、霧は内側まで入り込んでいないようだ。
ネネムへ飛びかかろうとしていた分身体の脚がもつれ、岩盤へ魔爪を突き立てた。本体も、イーストと戦っていたもう一体の分身体も、そして、イーストとネネムすらも、苦しげに身体を震わせている。
敵味方の区別すらない、最悪の範囲魔法だ。
やがて毒霧が晴れ、俺の身体にいくらか自由が戻ってきた。
「ネ、ネネム……ゴホッ、今だ! 分身体を押さえろ!」
俺の声に反応し、ネネムの瞳に焦点が戻った。
膜に守られたイリスを見つめ、それから、脚をもつれさせた分身体へ視線を移す。
「ポンベ……いい加減にする」
大棚平に地鳴りが響く。
ネネムへ迫っていた分身体の足元が陥没した。
四肢が岩盤へ沈み込み、左右からせり上がった岩が全身を挟み込む。分身体は逃れようともがくが、毒に痺れた脚では地面を砕けない。そのまま岩は頭上まで伸び、分身体を完全に囲い込んだ。
さらに、イーストともう一体の分身体を分断するように石壁がせり上がる。壁はそのまま左右へ伸び、分身体だけを囲んで閉じた。
最後に、本体と俺たちを隔てる巨大な岩壁が、大棚平を横切ってそびえ立つ。
直後、岩壁の向こうから轟音が響いた。表面に亀裂が走り、砕けた石がぱらぱらと落ちる。長くは持たない。
だが、マナ・バクテリアを本体まで届かせるにはまだ一手足りない。
「ネネム、本体を拘束できないか!?」
「……今は、無理」
分身体たちを囲んだ岩壁の内側からも、壁を砕く音が響く。そのたびに、ネネムは岩壁を修復し直している。
三方から岩を打つ音が重なる。
どん。どん。どん。
一度だけではなく、次の一撃も、その次も、離れているはずの三体は同じ間隔で壁を砕く。
そういえば、一本目の浄化水を浴びせたとき、分身体と本体が同時に叫んでいた。
分身体はポンベの意思で操られている。それだけなら、連携して動くのも不思議ではない。
だが、岩壁に隔てられ、互いの姿も見えない状態で、壁を打ち砕く間隔まで完全に重なるものだろうか。
「三体が同調……いや、同期している。精霊……ポンベ……」
全てが繋がる。
「ネネム! ポンベは何の精霊だ!?」
「……お酒」
酒種の精霊。
『酒神さま』は、ポンベだ。
「イースト! 俺が魔菌精霊同士――君とポンベの分身体を〈発酵術Ⅲ:調律〉で同期する! その同期の範囲を、残りのポンベ全体へ広げられないか!?」
イーストは目を閉じ、岩壁の向こうへ意識を向けた。
「……やってみる!」
「ネネム! 岩壁を狭めて、少しだけ穴を開けてくれ!」
ネネムは指示通り、目の前の分身体を囲んだ岩壁を一回り小さくして、天井に指一本ほどの小さな穴を開けた。
「姿が見えた! 行くぞイースト! 〈調律〉ッ!」
掲げた俺の手から、淡い金色の光が放射状に広がり、分身体とイーストを包んだ。
「……がお~~~~!」
イーストが叫び、その場で暴れ出した。確かにポンベの分身体と同期できたようだが、こんな具合になるとは……。いや、いまはそれでいい。
俺は〈フローラの革袋〉から二本目の小瓶を取り出し、素早く蓋を開け、岩壁の小穴から浄化水を分身体へ注いだ。小穴から光が漏れだす。
「「――ガァァァァ!!!」」
「うが~~~~! ……あれ? ゆたか?」
ポンベの分身体とイーストの両方から咆哮が上がったが、なんとか分身体が消える前に正気に戻れたようだ。
「いまだ、イースト! 分身体の弱まった状態を、残りのポンベ全部へ広げてくれ!」
「わかった! いくよ! 〈イースト・レゾナンス〉!」
イーストから金色の光が溢れ出る。光は横に広がる円環の粒子となり、上下に揺れる波を伴って横に広がっていく。
「「ウガァァァァ!!」」
分身体と本体まで光の粒子が届くと、岩壁を砕く轟音が静まった。続いて、分身体たちそれぞれを囲んでいた岩壁から、黒い粒子がふわりと立ち上り、霧散した。
「ポンベのきもち、しずかになったよ!」
イーストとつながる魔力経路を通じて、同期されたポンベ本体の感情が、俺にまで流れ込んでくる。
後悔。後悔。後悔。哀しい。哀しい。哀しい。だが、瘴気が――欲しい。邪魔をしてくるネネムが、愛おしくて、……殺したい。
「……ポンベ、君のせいじゃない」
伝わるかわからないが、精一杯そう考える。
「ネネム、壁を解いてくれ」
「……うん」
ネネムが本体と俺たちを隔てていた巨大な岩壁を地面に戻した。
岩壁のあった場所のすぐ隣で、荷馬車の半分くらいまで小さくなったポンベが地面に伏せていた。身体からは黒紫の光とイーストの白金の光が混じって明滅し、白い光が強くなるたびに、ポンベの四肢から力が抜けていく。それでも抵抗するように、赤い魔爪を地面に食い込ませた。
「フシャァァ……」
「ネネム、今度は――」
「……うん」
ネネムは、地面をせり上げ、ポンベ本体の四肢と首を固定し、ゆっくりと地面に沈ませた。それでもポンベはもがき抵抗する。
四肢の先を囲むように、さらに地面がせり上がり、赤い魔爪の根元を包み込む。ばきん、と音が鳴り、全ての魔爪が砕け散った。
「ガァッ……! グァァァァッ……!」
ポンベの抵抗がひときわ強くなった。
俺は〈フローラの革袋〉から、最後の小瓶を取り出す。
「ネネム、君がやるかい?」
ネネムは目を伏せ、頭を横に振った。
「……豊が、お願い」
「わかった。……イリス、〈澄み水の革袋〉、少し借りるよ」
返事はない。俺がイリスに近づくと、ラクトは傷を覆う膜だけを残し、イリスを守っていた光の膜を霧散させる。
イリスの腰から〈澄み水の革袋〉をほどき、手に持つ。その中には、イリスが生成した水がそのままの鮮度を保って保存されている。
俺はそのままポンベのもとへ歩いていく。
「……ッ!」
ポンベはもがきながら鋭い金色の目で俺を睨みつけるが、力を削がれている上に四肢と首を押さえられているため、もはや抵抗は意味がない。
「あの時、魔障に侵されていると気付いてやれなくて、悪かったな」
そう語りかけつつ、〈澄み水の革袋〉の中に、浄化水を流し込む。
そして、薄まった浄化水をポンベに流し掛けた。淡い光が明滅をはじめる。
澄み水で薄められたマナ・バクテリアが、ポンベの全身へ行き渡る。
「ガァァァァァ!」
俺は手をかざし、最後の〈発酵術〉を使った。
「〈培養〉」
淡い光が一斉に増した。ポンベを覆う魔障を餌に、マナ・バクテリアが一気に増殖していく。
黒紫の霧が次々と色を失い、透き通った魔素に変わっていく。やがて光の勢いが弱まり、ポンベの咆哮も止んだ。
ネネムが駆け寄り、石の拘束を解く。
残った淡い光が明滅するたび、ポンベの身体は縮んでいき、逆立っていた毛が伏せ、血走っていた金色の目が閉じる。
やがて、見慣れた黒猫の姿へ戻っていった。
「……ポンベ」
ネネムは地面に膝をつき、ポンベを両手でそっと抱き上げた。
力なく垂れていた尻尾がわずかに持ち上がり、ネネムの手首へ巻き付いた。
「……帰ったら、お酒。たくさん飲む」
ポンベの耳が、ぴくりと動いた。
よかった、息はあるようだ。
「ゆたか! こっち!」
イーストの声に振り向くと、ラクトが辛そうな表情を浮かべていた。
イリスの傷を覆う光の膜が弱々しく明滅している。
「ネネム、ポンベを頼む。急いでイリスを醸造所へ運ぼう」
俺はイリスの傍らへ膝をつき、傷に触れないように慎重に抱き上げた。腕に伝わる身体は、先ほどよりもさらに熱い。
ラクトも光の膜を保ったまま、イリスの胸元へ降り立つ。
なんとか繋がった命を、ここで失うわけにはいかない。
俺たちは来た道を、醸造所へ向かって駆け戻った。




