第2話:炎の壁と発酵術
「熊だ! 背中を見せずにゆっくり距離を取れ!」
「く、熊じゃないです、魔獣です! こんな人里まで降りてくるなんて、ありえません……」
魔獣。動物との違いはわからないが、危険そうな感じだけは伝わってくる。
デカい。怖い。重そうだ。「死」が眼前に迫っている。
デスベアと呼ばれた魔獣は、視線をこちらから外さないまま、ゆっくりと、一歩ずつにじり寄ってくる。
俺たちも刺激しないようゆっくり下がるが、歩幅の違いで次第に距離が詰められていく。
「ニナ……。火で応戦するのは、難しいのか?」
「応戦!? む、む、無理ですぅ! デスベアほどの魔法耐性だと、たぶん、私の火は通じないです……」
デスベアが、いよいよ広場の中央を越えようとした、その時。
突如鼻をひくつかせると、パン種の残っている木桶へ向かっていった。
蓋を前足で弾き飛ばし、おもむろに中身のパン種を貪りはじめた。
「……!」
千載一遇のチャンスだが、猶予は数秒だ。何一つ行動を間違えてはいけない。
散らばって逃げるか? いや、どちらかが追いつかれては意味がない。二人で走ったところで、あの歩幅からは逃げられない。デスベアが追いかけ始めた時点で、詰みだ。何か奇策はないか。
俺の〈毒魔法〉――いや、ニナの火でさえ効かないというのだ。試すのは今ではない。
しかし、できることと言ったら――
「炎の壁を作って足止めはできる?」
「え、ええと……」
ニナは石窯の端から、薪小屋より少し手前までを指で示す。
「あの辺までなら……。これ以上右へ伸ばすと、風で薪に燃え移ります。それに、足止めできるかは……」
「何もしないよりはいい。頼む」
「は、はい」
そう言うと、ニナは唇を結んだ。
ニナの震える掌の少し上に炎が生まれ、こぼれ落ちた。
炎は落ちても消えず、見えない縄を伝うように、地面の少し上を走っていく。
周囲の空気――いや、魔力だろうか。それを取り込みながら、ニナが示した位置でたちまち燃え上がり、デスベアの背丈ほどもある大きな炎の壁となった。
同時に、木桶から聞こえていた湿った音が止んだ。
「逃げろ!!」
俺たちは背を向け、一目散に逃げ出した。だが――
バシュゥゥン!
俺の身体のすぐ横を、黒い針のような何かが通り過ぎる。
黒い針は前方の地面に当たり、弾けて潰れ、黒い染みとなった。
次の瞬間、染みから黒い筋が枝分かれしながら地表を走る。
過冷却の水が、衝撃ひとつで一気に凍りつくように。
土も草も木も、触れた端から黒い石へと変わっていく。
バキバキバキッ!
石化は左右へ広がりながら大きく盛り上がり、瞬く間に俺の背丈を越える黒い岩壁となって、退路を塞いだ。
「きゃあーーー!」
「は……?」
さすがにこれは聞いていないぞ。
それもそうだ。魔法が人間の専売特許なわけがない。
振り返ると、炎の向こうで、デスベアが掲げた右前脚から黒い粒子が蒸気のように上がり、消えていくのが見えた。
右前脚を包んでいた赤い光が、先ほどより明らかに弱い。
デスベアは重そうに前脚を下ろし、荒い鼻息を吐いた。
「逃げられないのなら――!」
俺は手をデスベアに向け、〈毒魔法Ⅰ〉を念じる。
頼む、出てくれ!
掌の先に暗い紫色の雫が集まり、細い針となり、勢いよく飛んだ。
「出たっ!」
しかし、毒の針は炎を越え、デスベアの胴体へ届く寸前、赤い光に弾かれ、跡形もなく消えた。
【〈毒魔法Ⅰ〉を射出】
【対象の魔法抵抗により、毒性付与に失敗】
「本当に効かないのか……」
デスベアが炎の壁へ足をかける。
その口元には、赤紫色のパン種の食べかすがこびりついている。
その赤が、これから喰われる自分の血の色のように思え、全身が総毛だつ。
「お、おじさん……」
ニナの声にハッとする。
考えろ。何もせずに喰われるな!
毒魔法がだめなら、もう一つのスキル、〈発酵術〉だ!
〈発酵術Ⅰ〉を使うように念じると、ログが現れた。
【対象のパン種は発酵が進行中です】
【〈発酵術Ⅰ〉により発酵を促進できます】
パン作りをしてどうする! 今はそれどころじゃ――
いや、待てよ。
パン種。
デスベアは、のそり、のそりと重そうにこちらへ歩いている。
さっき木桶の中身を一気に平らげたせいで、動きが鈍っているのではないか?
試せるとしたら、今しかない。
何が起きるかわからないが、やぶれかぶれだ。
俺はデスベアの口元のパン種に向けて念じる。
〈促進〉――
ぞくっと、身体から一瞬だけ血が抜かれたような寒気が走った。
口元にこびりついたパン種が、ぶくぶくと泡立ち、見る間に膨らんでいく。
デスベアは鬱陶しそうに頭を何度も振り、膨らんだパン種を地面へ飛ばす。
だが、飛ばしきれなかった分はまとまりを失ってどろりと広がり、口元の毛や牙の間へべったりとこびりついた。
「え……?」
突然足を止めたデスベアを見て、ニナの表情が怯えから疑念に変わる。
とはいえ、確かにパン種には効果があったが、それだけだ。
「魔法を使った。あまり意味があるかわからないけど。今のうちに岩壁を回り込んで――」
言い終える前に、デスベアの両後脚の光が強まる。やばい! どうする……?
「来るぞ! ……散れぇ!」
俺とニナは黒い岩壁に沿って、道の中央を開けるように左右に避けた。
同時に、デスベアが大きく跳躍し、俺たちのいた所までひと跳びで飛んできた。
そんな馬鹿な。この巨体でこんなに身軽に跳べるはずがない。
これも魔法の一種なのだろう。
着地と同時に、両後脚を包んでいた赤い光が弱まった。
デスベアが俺の方を向き、噛みついてくる。
俺の顔よりも大きい口が開き、その中に覗く牙が目の前まで迫る。
俺は反射的に上体をのけぞらせた。
鼻先で牙が噛み合い、がちん、という音がした。
全身の血の気が抜ける。俺はいま、紙一重で命を拾った。
だが、次はない。
その時、デスベアの後ろ脚から後頭部にかけて、炎が走った。
ニナがデスベアの注意を引くため、炎を撃ちこんだのだ。
「だめだ、ニナ! 逃げるんだ!」
デスベアがゆっくりとした動作で、ニナの方へ振り返る。
「あ、あう……」
「く……! こっちだ! 〈毒魔法〉ッ!」
デスベアの尻に向けて毒の針を飛ばすが、当たる前に消えてしまう。
注意を引くことすらできなかった。
「炎の壁を作れぇ!」
ほとんど効果がないのはわかっている。だが、他にできることはもはやない。
俺は炎の壁に巻き込まれないように、デスベアを背にして黒い岩壁沿いを走り出した。
「間に合ってくれ!」
岩壁を回り込みニナの側へ辿り着くと、無事に立っているニナと、再び燃え盛る炎の壁、そして炎の中へ一歩踏み込んだデスベアが見えた。
「ニナ! 無事か!」
「は、はい……!」
次の瞬間、デスベアの口元から、じゅうっと白い湯気が上がった。
こびりついたパン種が黒く焦げ、甘酸っぱい臭いに焦げ臭さが混じる。
「グオオォッ!」
息を吸うたび、口元から上がる煙が鼻へ流れ込んでいく。
デスベアはその場で再び顔を大きく振り始めた。
このまま逃げるか? 逃げ切れるのか? いや、待て。
撃ちこんだ火魔法や毒魔法は弾かれたのに、発酵術も炎の壁も、こうして間接的に効果を発揮している。
その違いは、デスベアを狙ったか、パン種を狙ったかだ。
デスベアはさっきパン種を大量に食べた。
村のみんなのパン種。その全てが、胃の中に詰まっている。
試すしかない。
「〈発酵術Ⅰ〉、対象は――デスベアの胃の中のパン種だ!」
俺は強く念じた。
【対象のパン種は発酵が進行中です】
【〈発酵術Ⅰ〉により発酵を促進できます】
【注意:生体内を発酵槽として使うことは推奨されません】
うるさい!
「〈促進〉ッ!」
ぞわ――
再び、先ほどよりも強く、血を引っ張られるような感覚が全身を走る。
「う……」
軽い眩暈がした。だが、こんな時に隙を見せるわけにはいかない。
「グフゥゥゥゥ!」
デスベアの口から、空気の抜ける音がした。
「ゴボッ、グゥゥゥ、ゴボッ」
デスベアは急に千鳥足になり、首を伸ばすたび、喉の奥で空気と液体がごぼごぼと鳴った。
デスベアの腹が、内側から押し広げられるように張り出していく。
息を吐いても、膨れた腹はほとんど縮まない。
「は、はわわわわ……」
「う、これは……」
ある意味、炎で丸焼きにするよりも凄惨な光景だ。
そして、次第に首を伸ばす力も弱くなっていく。
前脚から力が抜け、デスベアの巨体が炎の向こうへ沈んでいく。
倒した。
そう思い、ほんの一瞬だけ警戒を解いてしまった。
次の瞬間、デスベアが立ち上がった。
炎を越え、のそりと一歩踏み出す。
「え――」
左前脚を包む赤い光が強まる。
デスベアは、その前脚を振り上げた。
「〈促進〉ッッ!」
とっさだった。考えての行動ではない。
先ほど効果のあった行動を、反復しただけだ。
だが、デスベアの腹が一段膨らみ、口から赤紫色に泡立ったパン種が噴き出した。
どすん。
重心を崩し、前脚を上げた姿勢のままうつぶせに倒れ、地面が揺れた。
弱々しい呼吸に、まだごぼごぼと水音が混じっている。
「はっ、はっ、はっ……はぁーーー」
荒くなっていた呼吸を整える。もう気は抜かない。
ただ、いくつもの偶然が重なり、どうにか動きを止めているだけだ。
これ以上〈促進〉を使い、藪をつついて蛇を出す必要もない。
「倒れた……? もう、何がなんだか……」
ニナがぺたんと座り込んでしまった。
「まだ死んだわけじゃない。気を抜かないようにしよう。ニナ、村の人を――」
言いかけたとき、岩壁の向こう――村へ続く道から、何人もの足音が近づいてきた。




