第1話:毒属性と消えたパン種
水の底から意識が浮上する。
目を開けると――文字通り水の中だった。
「っ!? ぶはぁっ!」
俺はもがきながらも、なんとか顔を水から引き抜き、激しく咳き込んだ。
「はぁ、はぁ……え?」
周りを見ると、沢と岩、そしてどこまでも木々が続いていた。どう見ても森である。
どうやら俺は水際に倒れ込み、顔だけを浅い沢へ突っ込んでいたらしい。
「はぁ……?」
混乱しつつもどっと疲れて、湿った落ち葉の上にどさりと座り込む。
海に呑まれた――はずだ。
そうだ。ついさっきまで、木の一本も生えてない海辺の砂浜で、休日の釣りを楽しんでいたはずだ。
が、大物の引きに興奮して海へ踏み込んだのがまずかった。
毒ウニを踏んづけて転び、毒魚の背びれの上に尻もちをつき、とっさに手をついた先には猛毒ダコ。
倒れ込んだところを海水に呑まれ、溺れながら毒クラゲを丸呑みし、そこへ泳いできたエイに刺された。
とどめとばかりにウミヘビに噛まれたところで、記憶は途切れている。
「――生きてる」
なにより服装が、記憶を裏付けていた。
胸まである長靴とズボンが一体になった釣り用の防水服――ウェーダー。その下には、速乾性の長袖シャツと薄手のズボン。
持ち物はなくなっていて、ポケットを漁っても、スマホも財布もない。
「ここはどこなんだ……」
気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸い込んだその瞬間――
【異なる世界間の転移処理が全て完了しました】
視界の端に、突然文字が浮かんできた。
「うわっ! 文字――!? なんだこれ!?」
浮かんだ文字は淡々と表示を増やしていく。
【エーテル体を魔力に適合させます――完了しました】
【転移元より流入した余剰エネルギーを魔素へ変換し、〈言語適合〉へ転化しました】
「ヘッドセットもないのに文字が『見える』……」
もし夢でないのなら、そう、これは――
「異世界転移……?」
文字はさらに増えていく。
【属性:毒を獲得しました】
「……毒?」
【スキル:〈毒鑑定Ⅰ〉を獲得しました】
【スキル:〈毒魔法Ⅰ〉を獲得しました】
【スキル:〈発酵術Ⅰ〉を獲得しました】
【警告:手指表面に[鑑定不能]の菌叢を検出】
【推奨:手指の洗浄】
菌叢とは皮膚や腸内などに存在する、さまざまな菌の集まりのことだ。
手のひらを見ると、落ち葉の切れ端や土が付着していた。
つまり――
「手を洗えってことか?」
俺は再び沢の水を覗き込む。
ゆるい流れの水面には、愛想笑いの染みついた、少し疲れた中年サラリーマン――今朝までの見慣れた自分の顔が映った。
大麹豊、三十九歳。大手外食チェーンの衛生管理部門部長。
若返ってもいない。美形になってもいない。身体も、この分だと変わっていないだろう。
異世界転移という言葉から連想される華やかさは、今のところ防水服と疲れた顔で相殺されている。
「まあ、急に若返っても困るか」
少し残念に思いつつも手を洗おうと沢へ手を伸ばすと、先ほどと同じ「ログ」が視界に浮かんだ。
【毒性:低】
【衛生状態:良】
【飲用適性:中】
「これが〈毒鑑定Ⅰ〉ってやつか? ……水質検査よりも話が早いね」
ログを信じ、爪の間、指の股、手首まで、じゃぶじゃぶとこすり洗いする。
【洗浄を確認】
【手指表面の未知菌叢が減少】
【状態:正常】
「正常、ね……」
石鹸なしで正常と言われても、正直、落ち着かない。現代人はアルコール消毒までがワンセットなのだ。
さて、この時点で、どうしても試さなければいけないことがある。
俺は片手で顔の半分を覆い、もう片方の手を腰に回して、決めポーズを取る。
「ステェェタス、オープンだ!」
……。
「ステータス、オープン」
……。
出ないのかい。
俺はばつが悪くなり、そのままのポーズで、顔を上げた。
「ひっ」
がさ、と茂みの向こうで人影が動いた。
落ち葉を撒き散らし、小枝を踏み折りながら、森の奥へ消えていく。
俺はポーズを解き、ごほん、と咳払いをしながら、意味もなくウェーダーの埃を払ってみる。
――起きてしまったことはともかく、こんな森の中で人影を見つけられたのは僥倖だった。
「……誰にも会えないよりはマシか」
あの人影を逃せば、次に誰かと会える保証はない。
人影が消えた方向へ歩きながら周囲を見回していると、木の幹に四本の爪痕を見つけた。
分厚い樹皮が数センチの深さまで抉られ、内側の白い木肌がむき出しになっている。
根元の土には、大きな足跡も残っていた。
「獣の跡……。熊とか出たら嫌だなぁ」
少し歩くと、風向きが変わり、薪の燃える匂いがしてきた。少し甘い匂いも混じっている。
「これは……食べ物の匂いかな?」
人の生活の匂いだ。森の中でそれを見つけたというだけで、少し肩の力が抜けた。
匂いを追っていくと、ほどなく木々の隙間から小さな広場が見えた。
「石窯――!」
中央の石窯からは細い煙が立ち上り、その横には屋根と柱だけでできた薪小屋があった。
すると、その石窯の向こうから薪束を抱えたひとりの少女が姿を現した。
子供だ。十代半ばくらいだろうか。
「え? あれ? なんで……?」
緑色の垂れ目は、今にも涙をこぼしそうなくらい困り切っていた。
短く切った赤髪の片側には細い編み込みがあり、頭のてっぺんでは一房だけがぴょこんと跳ねている。
白いシャツに緑のベスト、その上から年季のはいった茶色いエプロンを着けている。エプロンのあちこちには、白い粉が付いていた。
少女の視線を追うと、石窯の横――作業台の脇に、膝下ほどの高さの木桶が二つ並んでいた。
そのうち片方の蓋が外れている。
「パン種が、なくなってる……」
少女が抱えていた薪が、ガラガラと音を立てて足元に落ちた。
泣きそうというより、もはや青ざめている。
その表情を見てつい、何ができるわけでもないのに、一歩踏み出してしまった。
その瞬間、少女がこちらに気づいた。
「え……? ひゃあ!」
少女の手のひらの上で、何もない空間からぼふっと炎が生まれた。
「火だ――! 本物か……?」
思わず見入った直後、頬へ届いた熱に肩が跳ねた。
「だ、だ、誰ですかっ!?」
俺はすぐに両手を上げた。
「む、村の人じゃ……ないですよね?」
村があるのか。文明の気配だ。
「あっ! さっき沢で叫んでいた、変なおじさん!」
「知らないおじさんなのは認める。でも変なおじさんではないかな」
少女は俺のつま先から頭のてっぺんまで眺め、眉をひそめる。
手のひらの火が、ごうっと一回り大きくなった。
あの炎を撃ちこまれたら――終わりだ。
「た、確かに服装は変だけどね……。とにかく、驚かせるつもりじゃなかったんだ、すまない」
「こ、来ないでくださいね……? わ、私、火を出せますので……」
俺は手を上げたまま、数歩下がって止まった。
「それは魔法……だよね? すごいもんだ」
「い、いえ、すごくないです。たまに強すぎたり、延焼しそうになって……あ、じゃなくて」
しゅん、と火が小さくなる。
素直な子である。
「俺は森に迷い込んだ――いや、違うか。気づいたら森にいたんだ。怪しい者ではないし、君のパン種も盗ってない」
「パン種? あ、そうだった!」
少女は再び大きな木桶に向き直り、がくりと肩を落とす。
「薪を集めている間に、無くなっちゃいました……」
少女の手の上から火が消え、薄い煙の筋だけが残った。
「少し、調べてもいいかな」
「え?」
「その木桶を。あ、できれば、その前に手を洗わせてほしい」
「はぁ……手を? な、なんででしょうか?」
「もちろん、食品を触る前だからさ」
少女は困惑しつつも、水桶に残っていた水を柄杓で汲み、俺の手にかけてくれた。
パン種のなくなった木桶を覗き込む。甘酸っぱい匂いが残り、内側には赤紫の筋がこびりつき、底には生地がわずかに残っている。
俺は底に残った生地へ意識を向けた。
〈毒鑑定Ⅰ〉
【発酵基質を検出】
【糖分:高】
【酸生成反応:進行中】
【毒性:低】
【唾液成分を多量に検出】
「……唾液? 誰かが口をつけた?」
いや、人間のものとも限らないか……?
次に、蓋の閉じた木桶を開けてみる。
中には赤紫がかった粘りのあるパン種が、三分の二ほどまで入っていた。表面には細かな泡が浮かんでいる。発酵している証だ。
「……なるほどね」
「な、何がなるほどなんですか?」
「良いパン種だね。甘い果物を使ってる?」
「……! はい、森のベリーを少し。おばあちゃんからのレシピで、よく膨らむんです」
少女は得意げになり、それまでより少し大きな声で続けた。
「ベリーを潰して水と混ぜて、泡が細かくなるまで三日くらい待つんです。寒い日は窯のそばに置いて、酸っぱい匂いが強くなりすぎる前に粉を足して――」
そこまで一息に話してから、少女は我に返ったように口を閉じた。
「あっ……すみません。聞かれてないことまで」
「いや、興味深い話を聞けたよ。気温と匂いで調整してるんだね。天然酵母じゃないか」
「天然コーボ……?」
「あとで話すよ。それより、無くなった件だ」
木桶ごと盗まれたわけではない。粉と混ぜる前のパン種を、顔を突っ込んで食べる人間がいるとも考えにくい。
食べた『何か』は、どこから来て、どこへ行ったのか。
俺は木桶の蓋を閉じ、視線を地面へ落とした。
木桶から、石窯の裏手――森へ向かって、大きな足跡が続いていた。
……ここへ来る途中で見たものとよく似ている。
俺の靴よりずっと大きく、爪の跡も深い。
近くの草には、赤紫色のパン種が少しだけこすりつけられていた。
少女もそれを見つけ、息を飲んだ。
「……大きな足跡。獣でしょうか」
「だね」
俺が足跡から顔を上げると、少女と目が合った。
少女は、先ほど火を向けていた手を胸元へ引き寄せ、気まずそうに握りしめた。
「あの、すみません……。私、変な人かと思って、火を撃ちこもうと……」
「間が悪かっただけさ、気にしないで」
少女は困ったように笑い――
「ニナです。モルトン村のパン焼き係をしています」
「大麹豊だ。食品衛生管理の仕事をしている」
握手はない。だが、互いに頭を下げた。
魔法、転移、モルトン村。聞きたいことは山ほどあるが、今はそれどころではない。
ガサッと、森の奥から茂みを揺らすような音がした。
二人で同じ方向を見る。
姿は見えないが、パン種を食べ荒らし、あの爪痕を残した主が、まだ森の中にいるかもしれない。
俺は蓋が閉じている木桶を再び見た。甘い匂いが漏れている。
「ニナ。なるべく早めにここを離れよう。獣が戻ってくるかもしれない」
「えっ……?」
「一度は人の気配に驚いて逃げたのかもしれないが、そう遠くないうちに、おかわりをしに戻ってくると考える方が自然だ」
言いながら、嫌な汗が背中を伝った。
落ち着いているふりをしているだけだ。今すぐ脱兎のごとく遠くへ逃げたい。
ついさっき海で死に目に遭ったはずの人間が、今度は森の獣に襲われ、食われるのか。
それでも、目の前の少女は俺よりずっと若く、困っていて、火を出せるのに手が震えている。
見捨てられるはずもない。
「焦らないで。なるべく静かに、この場から離れよう」
「は、はい……」
ニナは再び手元に火を灯し、音のした森の奥を警戒しながらこちらに歩いてきた。
そのとき、さっきまで聞こえていた虫や小鳥の鳴き声が、ふっと途切れた。
ニナの手の上で、小さな火が揺れる。
「な、何かいます」
「……だね」
周囲に逃げ込めそうな場所はない。薪小屋も、あれでは壁にもならない。
と、ニナがはたと気づいたように、パン種の木桶へ一歩近づいた。
「みんなのパン種を守らないと……」
「ニナ」
俺はできるだけ静かに呼び止めた。
責任感が強いのだろう。だが今は優先順位を間違えてはいけない。
「村の食糧は、これが全部?」
「え……?」
「パンがなくなったら、今日食べるものがなくなる?」
「い、いえ。芋とか、トマトとか、干し肉もありますけど……でも、パンは、私が」
「じゃあ、パン種は諦めよう」
ニナは息を飲んだ。
「命の方が大事だろう。もしパンが無いと怒られるのなら、俺も一緒に怒られるよ」
「お、おじさんも……?」
「不審者の立場でどこまで役に立てるかは分からないけどね」
ニナの表情がほんの少しだけゆるみ、桶へ走り出そうとしていた足は止まった。
その時、森の奥でばりばりと枝が折れる音がした。
乾いた音ではない。太い枝が、重さに負けて裂ける音だった。
石窯の裏手、木々の間から黒い巨体が押し出されるように現れた。
近年、ニュースで見たヒグマの優に二倍はありそうな熊だった。
全身の毛は黒く、盛り上がった前脚は丸太のように太い。一歩踏み出すたび、長い爪が湿った地面を深くえぐった。
さらに、四肢には付け根から爪先まで、血のように濃い赤色の光がまとわりついている。明らかに普通の熊ではない。
「グオオォォォ!!」
低い唸り声をあげる獣の口元には、白や赤紫色が混じった食べかすのようなものがべったりと付いていた。
ベリーの混ざった、あのパン種だ。
「デ、デスベア……!」
ニナの声が震えた。
名前にデスと入っている生き物と、異世界初日に顔合わせをするとは。




